:秋空に思い流るる:
美里・桜井
どんよりとした雲で覆われた空は、下を行き交う者達の気分を泥のように沈ませる。 見せ物小屋も、こんな陰気な空模様ではやる気が失せるのか、早々に見世仕舞いのようだ。 人がいないわけではないが、目に映るのは暇そうに鼻毛を抜く茶屋の親父くらいのもので、宮司はおろか参拝客の姿も見えない。 道の両脇に鎮座する稲荷の象も、どこか寂しげだ。 これは早々に見切りをつけて別の場所で情報収集をした方が良さそうだと思いながら――――しかし、龍斗はそれを言い出せずにいた。 「藍ー、ひーちゃーん!」 前方から、早く早くと急かす桜井の声は天に飛び上がりそうなほど弾んでいる。 実際にぴょんぴょん跳ねながらこっちに向かって手を振る姿は、容姿の幼さも相まってまるで年端も行かぬ子供のようだ。 ならば、自分の隣でその様子を苦笑しながら見守る美里は慈愛に満ちた母親と言ったところか。 龍斗はそんな二人の様子に、眦を下げた。 こんなにも陰鬱な天気だというのに、駆ける桜井の笑顔には一点の曇りもない。 今日は朝からどこか元気がないように感じていたのだが、自分の思い過ごしだったようだ。 「……元気のええこっちゃ」 「そうね。小鈴ちゃんったらあんなにはしゃいで……」 クスクスと楽しげに笑っていた美里だったが、しかし一拍おいて表情が曇った。 どうしたのか、と尋ねる前に美里は揺れる瞳で龍斗を見上げ、 「……それにしても、龍斗。龍斗は、本当に私たちと一緒で良かったの?」 どこか不安な面持ちで首を傾げる美里に、同じく首を傾げる龍斗。 美里が言うには、自分や小鈴と一緒にいくよりも他の――――たとえば蓬莱寺や九角ら男同士と一緒に行った方が良かったのではないか。 自分たちと一緒では気兼ねするのではないか。 そう尋ねられたが、龍斗はやはり美里の言っていることがよく分からず、眉根をしかめ、答えた。 「……女だけで行かせるわけにはいかんやろ」 今だ龍斗達の追い求める柳生一派の足取りはようとして知れず、いつどこに現れるか皆目見当がつかない。 龍斗達の動きを知り、先手を取られ襲われる危険性もある。 蓬莱寺や醍醐ほどの猛者ならば、襲われても大丈夫だろう。 九角らも、何度か手合わせしてその実力は実感済み。 桔梗も女性だが、風祭がついている。 風祭は、あれでいてなかなか実力者だし、さらに女とはいえ切れ者の桔梗がいるから心配ない。 対して美里は争いを好まぬ性分だし、桜井も実力者とはいえ獲物は弓だ。 懐に入られればひとたまりもない。 だったら、誰かが護衛に入った方がいいだろう。 「理由言うたら、まぁそれくらいやねんけど、な」 言った後でふと隣を見ると、きょとんとした顔の美里に気づく。 思いもよらぬ反応に、もしや何か誤解させたのかと慌てて頼りないという意味ではない、と必死で弁解した。 言い訳を受けても美里の目はしばらく丸くなったままだったが、やがてその目は笑みに細まる。 「心配してくれてありがとう。実は言うと心細かったの。龍斗がきてくれて嬉しいわ」 頼りにしている、と天女のように麗しく微笑まれ、龍斗は無意味な咳払いと一緒によそを向いた。 おそらく赤くなっているであろう頬を見られるわけにはいかない。 「龍斗?」 突然顔を背けた龍斗に、何かあったのかと心配してくれているらしい美里の声に、元気いっぱい。だが拗ねてとんがった声が重なる。 「もー! 藍もひーちゃんも遅いよー!」 とうとうしびれを切らしたらしい。 ずっと前を走ってていた桜井が、駆け寄ってくる。 ふぐのようにふくらませた頬は、突っついたら音を立てて弾けてしまいそうだ。 それにしても、桜井のこのはしゃぎようはどうだろう。 まるで物見遊山にでも来ているかのようではないか。 「藍もひーちゃんも、ボクに内緒で何話してたの?」 「――――こない陰気なとこでも、桜井は元気やなぁて話しとったんや」 多少の含みを持たせた言葉に、気づいていない様子の桜井は素直にうん! と答える。 「だって、久しぶりにひーちゃん達と出かけられるんだもん!」 ボク、すっごく嬉しいよ! 予想もしないような満面の笑顔を向けられ、たじろぐ龍斗。 「そ、そうか」 「そうだよ! ひーちゃん、最近鬼道衆の人達とばっかり出かけてるじゃないか!」 さっきの笑顔から一転。 しかめた顔にとがらせた唇をおまけにつけて、桜井は愚痴る。 曰く、最近龍斗は鬼哭村にばっかり出入りしていて、自分達と全然一緒にいない。この間なんて向こうに三日も泊まり込んでいたじゃないか。 曰く、自分もいろいろ稽古をつけて貰ったり、技を見て貰ったりしたいのに、風祭ばっかり構っているのはずるい。 曰く、今日だって本当は龍閃組だけで行く予定だったのに、九角に言われて一緒に行くことになったんじゃないか等々。 桜井の言葉はどれも文句と言うにはずいぶんと可愛らしく子供じみていて、その姿にさっき桜井自身も話に出していた風祭が重なって見える。 しかしそれにしても自分は桜井が言うほどしょっちゅう鬼哭村に出入りしていたのだろうか。 確かに泊まりに行くこともあったがそれほど、頻繁というわけではない。せいぜい半月に一回くらいのものだ。 やはり龍閃組である龍斗が鬼道衆と誼を通じるのは嫌なのか。 「……小鈴ちゃんは、鬼道衆の人達が嫌い?」 同じ事を考えていたらしい美里が思案顔で問う。 龍斗も桜井の真意が聞きたかった。 龍閃組と鬼道衆。両者の間にある溝は、やっぱり簡単には消えてくれないのだろうか。 龍閃組の中でも一二を争うほど人なつっこい桜井でさえこれなのだ。 このままでは他の面々――特に蓬莱寺――など、百年経っても鬼道衆と和解など出来そうにない。 不安から、自然と肩が落ちる。 だがそんな不安は、桜井自身が壊してくれた。 「そ、そんなわけ無いじゃないか!」 慌てて首と一緒に両手をぶんぶん顔の前でちぎれそうなほど振り回す桜井。 滅相もないとばかりに美里に詰めより言いつのる。 「嫌いじゃないよ! 九角サンも桔梗サンも九桐サンも風祭クンも、みんな今は仲間だって思ってるよッ!」 はじめは確かに多少反発していたが、今はすっかり頼りにしきっているし、彼らがいなければ柳生を討ち果たし江戸を護るなどきっと出来ない。 彼らは仲間だと言い切る桜井の両目には、力強い信頼の光が宿っている。 どうやら龍斗の思い過ごしだったようだ、と胸をなで下ろしたのもつかの間。 その後にすぐただ……と続け、桜井は口ごもった。 「小鈴ちゃん?」 「桜井?」 途切れた言葉に不安は再燃。 美里と一緒に顔をのぞき込み続きを促す。 のぞき込んだ桜井の表情はこれ以上無いほどに戸惑い、赤く染まっていた。 赤い顔とうっすら光るものの滲む瞳になんだかいじめてでもいるような尻の落ち着かない気持ちになる。 少ないとはいえ、人が全くいないわけではない境内。 無宿者がか弱い娘に絡んでいるように見られているのか。何となく、あちこちから刺さる視線が痛いものに変わりはじめている。 下手をすれば寺社奉行を呼ばれかねない、と離れた矢先、ぼつぼつと蚊の鳴くような声で桜井は呟いた。 「だって……なんだかひーちゃんをとられるんじゃないかって思って……」 そんなことを考えていたんだ、と拗ねたように告白されて龍斗は返答に詰まる。 本当に、何と返したらいいのだろう。 そう言えば、今はもう無い故郷の弟妹達に、似たようなことを言われたのを思い出した。 もっとも、それを言ったのは弟たちが五つにもなっていない頃だったが。 隣で、美里もなんと言っていいのか分からない、とでもいうように沈黙している。 「わ、分かってるんだよ。自分でも子供っぽいこと言ってるなぁって、分かってるんだよ!」 沈黙に堪えきれなくなったかのように桜井が叫んだ。 「でも、なんか、だって心配で……。む、向こうには風祭クンもいるし!」 だからなぜそこで風祭が出てくるのか、それが分からない。 年頃の娘というのは本当によく分からないことで悩むのだなぁと感心しながら、龍斗は桜井の肩をぽんぽんと叩いた。 「……何を不安がってるんかしらんけど、俺は江戸を護る龍閃組の人間や。いまさら鬼道衆になんか行かへん」 「……本当?」 いまだ信じられないとでも言うように揺れる桜井の瞳をじっとのぞき込み、龍斗は深く頷く。 確かに今の幕府に疑問を抱く事もあるが、大和から頼るものもなく下ってきた龍斗を拾い上げてくれたのは、時諏佐率いる龍閃組であり、それを作った幕府だった。 その恩をいまだ返しきれていない。第一、龍斗の居場所は龍閃組の他にないのだ。 今更よそに鞍替え、なんて考えたこともない。 そう説いてみても、桜井の不安が晴れることはない。 「ひーちゃん、どこにも行かないよね」 「行かんよ」 「本当に、本当だよね?」 「ほんまに、ほんまや」 根気よく説く龍斗に対し、先ほどよりも晴れたとはいえ桜井の表情から不安は消えない。 それどころか。 「この戦いが終わっても……どこにも行かない、よね」 こんなことまで訊いてくる始末。 「ボク、最近不安なんだ。この戦いが終われば、ひーちゃんは江戸から出て行っちゃうんじゃないかって。故郷に帰っちゃうんじゃないかって」 大事なときなのに、そんなことばかり考えてしまうのだ、とつぶやき桜井は再び顔を伏せた。 噛みしめた唇が震えているのをみて、龍斗はいささかぎょっとする。 ――――いつも明るい桜井が、影でそんな不安を感じていただなんて思いもしなかった。 龍斗は桜井の言葉をうけ、改めて考える。 確かに龍斗は江戸の生まれではない。元は上方、大和の方から流れてきた人間だ。 江戸に寄る辺は龍閃組くらいしかなく、もし万が一すべての脅威が取り払われ公儀隠密が解散されれば途端に行き場を失う。 そうなったら、慣れぬ江戸を離れ上方に帰ることになるだろうか。 自分への問いに、龍斗は否と返す。 確かに、江戸よりも言葉の通じる上方の方が生活していく上ではいいのかも知れない。 だが、今更大和に戻ったところで故郷はすでに無いのだ。 ――――龍斗の故郷は伊賀にほど近い山里で、住人達は猫の額ほどの畑を耕し、薬草など山の恩恵を受けながら慎ましく生活していた。 龍斗の親は父親しかいなかった。 だが片親であることを寂しいと思ったことはない。 龍斗の下には多くの弟妹達がいたからだ。 と、言っても全員戦や流行病によって孤児となった者達ばかりで、龍斗自身父と血が繋がっていたわけではない。 元々二本差しであったらしい父は博学で家には遙か昔の兵法書や医術書が多くあり、龍斗はそれを読み育った。 さらに近所のものから武術を習ったり(今考えたら、きっとこれが風祭言うところの"表の龍の技"だったのだろう)していたが、正直強い奴と手合わせしたいだとかこの技で一旗揚げようなどと分不相応な大望を抱いたことはなく、もっぱら畑を耕したり山で狩りをしたりとごく一般的な百姓生活を送っていた。 けして裕福とは言い難かったが、父がいて弟妹達がいて友人達や里の者がいるこの生活は、龍斗にとって何物にも代え難い日々だった。 だがそんな幸福に終止符を打たれたのが、去年のちょうど今頃の事。 いつものように山から帰ってきた龍斗を待っていたものは、誰もいなくなった里だった。 建物、風景はそのままに住人だけいなくなった里を前にした時の絶望感はいまだ忘れられない。 里中をかけずり回り、大声を張り上げ皆を呼んでも帰ってくるのは沈黙ばかり。 里中を探し回って七日。 山の中を探してさらに一月。 帰ってくるかも知れないと待ってもう一月。 結局二月と七日の間待っても、里の者が帰ってくることはなかった。 途方に暮れた龍斗は父から常々言われていたことを思い出す。 "自分に何かあったら、江戸に行け" それは、まるで自分がいなくなることを予見していたかのような言葉だった。 正直、江戸に行ったところで何になるのかとも思ったが、江戸にはかつて里からお嫁に行った人がいる。 彼女の親も、龍斗の父同様姿を消した。 これはさすがに伝えておかねばなるまいと決心し、山を下りた龍斗はその後、浪花で日傭いの仕事や里で得た薬草の知識を持ってして路銀を稼ぎ一路江戸を目指すこととなったのだが、江戸に着いてからはさっきのとおり、ずっと時諏佐の世話になっている。 この広い江戸の中、お嫁に行った人にもまだ会えていないし、それに今更――――今更里に帰ったところで待つ者は誰もいないのだ。 「……帰らへんよ」 胸の痛みを押し殺し、龍斗は呟く。 瞼の裏で、かつて賑やかだった里の姿と誰もいない里の姿とが交互に映る。 誰もいない里で立ち尽くした絶望感はもう味わいたくない。 「俺の居場所は、ここやから」 桜井の瞳をしっかり見つめ、龍斗は言い切る。 最初は半信半疑だった桜井も、龍斗の真摯な言葉を信じてくれる気になったらしい。 目に涙をため、何度も何度も頷く。 「うん! ひーちゃんの居場所はここだよ。ずっと、ボクらの隣にいてね!」 「ん。居る。約束する」 「絶対だよ! この戦いが終わったら、みんなでまた花火を見に行くんだ。三社祭も見て、山王祭も見て、飛鳥山に花見にも行って、月見もして、雪見もして!」 鬼哭村の人達も一緒に! 再びはしゃぎはじめる桜井に、龍斗と美里は互いに顔を見合わせ、そして同時に微笑んだ。 (……よかった) 美里は心の中で呟いた。 見つめる先に、桜井に引っ張られながら先を行く龍斗の背中がある。 楽しげな二人の背を見つめながら、美里は胸をなで下ろした。 よかった。まだあの背中を見ていられる。まだ、龍斗と一緒にいられる。 美里もまた、桜井と同じ不安を抱えていた。 龍斗自身は気づいていないかも知れないが、龍斗と美里達の間には、薄くて高い壁がそびえ立つ。 乗り越えようとあがき、打ち壊そうともがいてもビクともしない。 どこにも行かないで欲しいと叫んでも、その声が龍斗に届くことはないように思えた。 だが、届いた。 桜井の龍斗を呼び止める声は、確かに届いたのだ。 そして龍斗は約束してくれた。 どこにも行かない。ここに、自分達の側にいてくれると。 いまだ壁は完全に取り払われたわけではないが、しかし少なくとも声くらいは届く。 龍斗を引き留めることは出来る。 もしもまた不安に駆られたら、桜井のように声を出してみよう。 (行かないでね。ずっと……側にいてね) その願いを胸に、美里は龍斗達の後を追った。 |
あとがき
別に龍斗×美里・桜井というつもりはなく、
あくまで龍斗+美里・桜井のつもり。
突如始まる主人公の身の上話ですが、軽く流して読んでいただけると幸いです。
深く考えずに作った設定なので。