14 龍のトキヤと虎のレン

 神族会議が終わって、トキヤとレンも家に帰って来た。 「おっ、おかえり。会議お疲れさん」  隣にレンがいても、翔はいつも通り笑って迎えてくれる。通信龍で事前に「会議で色々あったのですが、レンを連れて帰ります」と知らせておいた。だから意外にも思われなかったのだろう。  遠方から帰ったので、まずトキヤはレンを連れて風呂に入った。虎神族はあまり風呂を好まないらしいが、この場合は強制連行だ。すっかり互いを丸洗いしてさっぱりする。湯船に浸かれば、疲れも溶け出していくかのようだった。  レンの着替えも翔が用意してくれたらしい。レンが数日泊まることもあったが、その時はトキヤのお古を使っていた。  けれど、用意された衣はどう見ても新品だ。 「翔、レンの衣はどうしたんです?」 「必要だろうと思ったから、買っといた」 「えっ?」  どういう意味か。  問いかけるより先に翔が応えてくれた。 「? だって、これからこいつも一緒に暮らすんだろ?」 「えっ?!」 「えっ?!」  まだ何の説明もしていない。体を清めてからちゃんと話をしようと思っていたのだ。  レンとふたりで同時にひっくり返った声をあげれば、翔に大笑いされてしまった。 「なんつー声出してんだよ!」 「だって……翔、何故そのことを?」  信書には、レンを連れて帰るとしか書かなかった。いつものように、ただ数日過ごすだけかもしれないのに。 「……読心術……あるいは予知……?」 「そんな特殊能力ねーよ。買い出しに出かけたら、市場で色々声かけられてさ。会議で決闘って、何やってんだよ」  くくく、と笑ってトキヤの背を叩く。それでもまだ要領を得ないでいると、翔はにこりと笑った。 「商人たちの耳は速え、ってこと。トキヤ、おまえしばらくは市場や花街ではヒーロー扱いになるぞ。レンはちょっと居心地悪いかもしれねーけど」 「……なぜ……」  ヒーローと言われるようなことをした覚えはない。ただ、心底腹立たしかった虎を二度と立ち上がれないくらいに叩きのめしただけだ。  動機だけを考えれば、決して誉められたものではない。  翔はトキヤが虎を叩きのめした理由を察しているからだろう、苦笑した。 「それだけ虎神が龍神に好かれてないってことかな。ああ、ちゃんと虎のために虎と決闘したって伝わってるからな。ま、一緒にいればどんな虎かはわかるだろうけど」  秘密にしようがない、とまた笑われる。トキヤは難しい顔をするしかない。 「悪事でもないのに、千里を走るんだねえ……」 「実に遺憾です……」  こうして三匹の生活は始まった。  レンと暮らすようになって変わったことのひとつは、わかりやすいところでは牀を新調したということだろうか。  初めはレンも新しい部屋があったほうがいいだろうと思っていた。だからトキヤの部屋のすぐそばの客室をレンの部屋にしたのだが、離れて眠るとどうやらレンの夢見が悪いらしい。トキヤが起きるとレンが潜り込んでいたことが何度かあった。だからトキヤの牀を大きなものへ変更したのだ。二匹で寝ても余裕があるように。 「言ってくれて良かったんですよ?」  新しい牀が部屋に入った夜、おそるおそると隣に潜り込みに来たレンの頭を撫でる。 「……言いやすいことなら言ったさ」  頬を薄く膨れさせつつ、腕に収まってくれる。 「シたくない、眠るだけでいい、って言うのはそんなに難しいですか? ……それとも私があなたの体目当てだと思わせてしまっていた……?」  話しながら気付いてしまった可能性にハッとすると、レンに頬をつねられる。 「いはいれす」 「……ちょっと違う。眠るだけ、っていうのは、おまえにメリットがあるのか悩んだのさ」 「私にメリット?」  どういう意味かを計りかね、首を傾げる。レンは言いにくそうに言葉を探しながら教えてくれた。 「……オレが、おまえにあげられるものは、この体ひとつだから。それもあげないで、ただ眠るだけ、なんて……」  今度はトキヤがレンの頬を抓る番だった。 「いひゃい!」 「痛くないでしょう。まったく、なんてことを考えているのですか」  すぐに指を離してやると、レンをぎゅっと抱きしめる。 「あなたは体以外にも魅力がありますから。仕事から帰って、家にあなたがいるだけで、どれだけ癒しになっていることか……それに、家の中のことも色々手伝ってくれるでしょう? 助かっているんですよ、私も翔も。だから私には何もなくても甘えても良いと、覚えてくれると嬉しいですよ」  虎神の街ではままならなかったに違いないが、この家では――トキヤといれば、そんなことを気にせず甘えてほしいと思う。すぐには無理かもしれないが、少しずつでも。  それをトキヤが教えてあげられればいいのだろう。こちらも甘やかすことには慣れていないが、レンのことは甘やかしたいと思っているから。  需要と供給が合致しているのだから、きっと大丈夫だ。 「ひとまず眠りますよ。この家であなたに不安があるなんて、とんでもないですからね」  レンを胸に抱き込むと、レンのほうからも腕を回してくれる。どうにも遠慮がちだと思ったが、レンが安心して寝付けるように頭や背中を撫でた。かつて、母がそうしてくれたように。 「……ありがとう」  か細い声が聞こえた後、しばらくして穏やかな寝息が聞こえる。それをしばらく聞いてから、トキヤも眠った。  トキヤは、次期族長の補佐(次期族長の首根っこを引っ捕まえて仕事をさせることが第一の仕事)の他、決闘以降でじわじわと仕事が増えた。  義兄であるハヤトも優秀ではあるのだが、職分が違うことを差し引いても、どちらかと言えばムラっ気がある。トキヤのように持続して真面目に仕事をこなすほうが、官吏としては向いている。  そういうところと、決闘での大胆かつ容赦のない仕打ちが評価された結果、トキヤを悩ませていた。 「わからないでもないんですよ、外交では譲れないところは頑として譲ってはいけませんし、不利益に対しては毅然とした態度も必要ですし、そもそも事前の根回しも重要になりますし、何十年かしたら忘れ去られると思いたいですが、決闘で顔を売ってしまいましたし」  榻に深く座っていたトキヤが、徐々にレンへともたれていく。 「ですが私は外交官になるつもりはないんですよ……」  深い溜息を吐くトキヤを、レンは優しく撫でてくれる。  外交官は、まず第一に見目を問われるのが神族の習わしだ。誰しも見目麗しい者を相手にして、気分を害すことはないだろう。  ただ、神族間で価値観の違いは出る。たとえば熊神族では、優美より頑強のほうが尊ばれた。そのため、なるべく逞しい者たちが担当として編成される。  これはどこの神族でもおおむね同じだ。  そして、外交能力。戦乱の時代では見た目よりこちらが優先されたが、今では「いかに和やかに場を納めるか」の能力が問われている。バランス感覚が重視されるというわけだ。 「トキヤは見目麗しいもんねえ……」  さらにレンが頭を撫でてくれるので、膝枕状態になっていたトキヤは、よりしっかりとレンの腰に抱きつく。 「母に似ていると言われる以上、見た目が悪いとは思っていませんが……あなたは外交官に会ったことはありますか?」 「ちらっと見かけたことはあるよ。龍神族じゃなかったと思うけど……精悍でカッコよかったから、たしかに虎神や狼神向きの外交官だったと思うな」  見目麗しい、という範疇に入るだろうとレンは頷く。 「その見目麗しい外交官はだいたい、宰相や族長、あるいは外務官と会合することになるでしょうね。そして夜には歓迎の宴になる。……どういうことになるかわかりますか?」 「えっ……飲まされる?」 「飲む時には?」 「……なんだろう……?」  そういえばレン自身には宴会との縁が薄かったかもしれない。気付いて、トキヤはすぐ解答を伝えることにした。 「酌婦が付くんです」  酌婦はその名の通り、宴席で酌をする者たちのことだ。今では性別は問われないが、最初は女性だけだったことから、形式上酌婦と呼ばれている。 「もちろん、ただの酌婦であるはずがない。族長なり宰相なり副宰相なりの身内、仮に花街の方々でも、重役トップクラスの息がかかった者でしょうね。お持ち帰りも容認されていますし、そのまま恋愛に発展して他神族の外交官の妻や夫になる酌婦もいます」 「…………」 「私にはあなたがいますが、強引に押し切られてしまい、半ば嵌められる形で娶らされる――ということも、問題にはなりましたが、過去に事例もありますし」  その場合、外交官は辞職するか中央とは関係ない場所に転任するかだ。娶らされた相手を通じ、機密漏洩が起こるとも限らないから。  もっとも千年以上前ならともかく、今は各神族とも(龍神族と虎神族よりは)平穏であるため、極端な措置はとられないようだが。 「……ダメだからね」  レンの声は低い。もしかしたら目も据わっているかもしれない。 「私だって困ります。愛せもしない者を近くに置くことはできない」  そもそもそんな状況になりたくもない、と大仰な溜息を吐く。それからまたレンの腰の辺りに懐いた。大きな猫か犬のようだ。 「最大の問題は、私に意志があろうとなかろうと、辞令として発令されたら終わりというところですが」 「それは……」  ぐ、とレンが詰まる。レンもトキヤが役所勤めである以上、上からの命令は絶対だということをわかっているのだろう。トキヤにしてもわかっているが、それでも悪あがきはさせてもらう。 「癪ですが、この際、ハヤトを頼ります」 「え」 「ハヤトから父である宰相へ話を通してもらい、断ってもらいます。……たぶん、話のわからない人ではないはずなので。私から話してもいいのかもしれませんが……」  母のことを愛していて、母とよく似ていると言われる自分の頼みを、無碍に断るような人ではない、と思いたい。  最悪の場合、音也がなんと言おうと役所勤めを辞めてしまえばいいだけなのだが。そこまではさすがに口に出さない。 「……そっか」  膝をころりと転がってレンを見上げると、心底ホッとした表情をしている。手を伸ばし、頬を手のひらで撫でた。首をわずかに傾けて、甘えてくれるのが嬉しい。  こんなかわいい虎を差し置いて、他の者など考えられるわけがない。 「……不安でした?」 「そりゃ……まあ」 「結婚でもします?」  立場や対外的な位置を確立したいなら、それもアリだと思う。トキヤとしても、鴛鴦(連れ合い)がいると言えれば、避けられる面倒ごともなくはない。  けれど返事はつれなかった。 「要らない」 「…………」  キッパリ拒否されてしまうと、それはそれで複雑な気持ちだ。  レンに髪をかき混ぜられるように撫でられる。 「オレとしては、今お疲れのおまえを甘やかしたいところだけど。そろそろ晩ごはんだし……何か希望はあるかい?」 「後でお風呂に一緒に入ってください」 「……まあ、いいよ。オレは炊事場で翔を手伝ってから行くから、先に食事室にでもいて」 「梅酒があるでしょう。あれが飲みたい……」 「持って行ってあげるよ。二十年のやつでいいかい?」 「お願いします」  ようやく頭を上げると、頬に口付けされた。レンはなんだかトキヤをあやすのが上手になっている気がする。  嬉しくもあるので、大人しく甘やかされた。 「は? 公用で鳥神族のところへ行く? なんで? 決定事項? 拒否権もない? おまえは外交官じゃないよね?」  帰宅して入浴し、食事を三人で食べた後のくつろぎのひととき。ぴしりと音を立ててひびが入った気がした。  多分そんなふうに言われるだろうなあと思ってはいたが、案の定だった。  レンは納得しないだろうなとわかっている。愛しい虎の跳ね上がった眉、きりりとするどい眦に、悪事を働いた言い分を詰められているような錯覚に陥った。トキヤが悪事を働いたことなどないのだが。 「それが……鳥神族の族長からのご指名らしく……」  先月、鳥神族の使者が龍神族を訪れた。その際、自分も次期族長の補佐として(建前だ)歓待側で宴に参加していた。  鳥神とは友好的な仲だ。各地で戦争が起こっていた頃も、龍神と同じく厭戦派だったと聞く。鳥神の地が旱魃に見舞われた時には、黒龍を中心とした水の術を得意とする者たちが支援に向かったこともあるらしい。おそらく桁違いに術力があった黒龍がいた時代だろう。河の枯渇も癒したらしく、文献が残っている。  優美なものを愛するのは同じで、音楽も互いに好むもの。となれば宴に音曲は外せない。 「……というわけで、私も演奏に加わっていた、というところまではあなたも知っていましたね?」 「ああ。しばらくずっと藍に習って胡弓を練習していたね。オレは笛や琵琶のほうが好きだけど」 「あなたの好きなものはあなたのいない人前で披露したくなかったので。……それで、その時の演奏と私の顔を気に入ってくださったというわけなのですが……レン、顔が赤いようですが大丈夫ですか? 熱があるなら横になったほうが」 「なんでもない大丈夫」  ふるふるっと首を振る様は弱っているようには見えないが、心配ではある。気遣わしく見上げ、彼の頬を撫でる。ふぅ、と息を吐いたレンが、気を取り直したようにトキヤを見た。 「……で、おまえの演奏が気に入ったから街まで来いってこと?」 「新しく選任された外交官の顔合わせ、だけのはずだったんですけどね……どのみち先にあちらからいらしたので、今度は龍神族からも行かねばなりません。いらしていた外交官のおひとりが、鳥神族の族長の甥だったそうです。なので彼を通じてあちらの族長から直に要請が来たのでしょうね」 「おまえの美しさが性別神族問わずに人気なのはわかるけどね……」  はあ、と物憂げにレンが溜息を吐く。  レンが危ぶむようにモテることはないと思うし、想いは揺らがないので憂うことはないとトキヤは思うのだが、それはそれ、これはこれらしい。 「……あなたと揃いで作った環をつけていきますから」 「…………訪問って、正装?」 「準正装ですね」 「じゃあ、テイルヴェールも使うかい?」 「あなたが初めて贈ってくれたものを纏います」 「……じゃあ、いいけど。いつ行くの」 「明後日の朝に。三泊の予定だそうです」 「……三泊……」  復唱したレンの尾が、力無く揺れた。この家にレンが来て以来、二泊以上空けたことがないので、当然といえば当然の反応かもしれない。すでに淋しくなっているのだろうか。  腕を回した腰を、そっと撫でる。 「一秒でも速く帰ってきます。……いない間、翔と眠っていてもいいですよ」 「……翔に悪くないかい?」 「あなたを泣かせるよりはずっといい」 「なっ……泣かないよ、オレを幾つだと思ってるんだ」 「あなたがそう見えて、淋しがり屋なのは翔も知っていますから。大丈夫です」 「……ん」  こくりと頷いたレンの頬を優しく撫でた。 「なるべく、はやく帰ってきますよ」  二日後。  レンと名残を惜しみつつ、龍神族の外交官たちとともに駆龍に乗り、鳥神族の中心街へ赴いた。  山をふたつ越える必要がある。正確には越えるのではなくぐるりと迂回をするのだが、ふたつめの山は鳥神族の領土で、先触れの者たちは先行して周囲の様子を探る物見も兼ねているため、多少の緊張はあったようだ。もちろん、鳥神族のほうでも露払いはしてくれたに違いないのだが。  少々の妖魔であれば、狩人でもある自分がいるからなんとでもなるだろう。他に狩人の同期もいるので心強い。けれど、そんな心配も杞憂に終わったことはありがたい。  朝出立し、夜になる前には鳥神族の中心街へ到着した。  まず最初に案内された宿は、龍好みの落ち着いた佇まい。内装は鳥神風にアレンジされているものの、それが趣味良く感じられる。他の龍たちにも好印象なのは見てとれた。外交官の者たちには、馴染みの宿らしい。  花街への案内も型通りなされた。龍が鳥神の花街へ行く時、目的は色事ではなく、おおむね歌舞音曲だ。鳥神族は特に歌に親しみ楽器を尊ぶ神族。となれば、雅なものを好み、書だけでなく音楽も愛する龍神族としては聖地に近い。  とはいえはしたなく大っぴらにはしゃぐ者は、この一行にはいない。どこかうきうきとした様子で花街へ出掛けていく同胞を見送ると、トキヤは宛てがわれた部屋で楽器の手入れをする。  手入れをしながら軽く爪弾き、調子を確認した。楽器の機嫌は上々だ。明日の会合後の宴でも、いい音を奏でてくれるだろう。 「すみませーん」 「……?」  扉越しに声をかけられる。どうやらこの部屋の中にいる、トキヤに対してのものだ。 「いらしたばかりでお疲れのところ恐縮なんですけど、伺いたいことがありましてー」  明るい声。なんだろうと思いつつ扉を開くと、そこにいたのはトキヤより少し身長の低い、大きな目が愛嬌を見せる男。緩く癖のある栗毛も特徴だろうか。 「ごめんねー、お疲れのところ」 「……とりあえず、中へどうぞ」 「ありがと!」  入口で立ち話することでもなかろうと部屋へ招き入れる。幸い椅子はふたつあったから、それぞれに座った。 「それで、族長の甥子さんが、どのようなご用件で?」  ポットの湯で茶を淹れると勧めておく。彼は人好きのする笑顔を向けてくる。龍神族での会合でも感じたが、少し、自分の義兄を思い出した。この男の年齢のほうが、結構上だとは思うが。 「ぼくはね、嶺二って言うんだけど」 「……私はトキヤです」 「トキヤくんね。あのさ、単刀直入に聞くんだけど……藍のこと、知ってる?」 「藍?」  すぐに花街で楽器の指南をしている藍が浮かんだ。彼も鳥神族だ、『藍』は彼を指しているのだとわかる。  だが、正直に言っていいものか。  藍が訳ありなのはわかっている。そうでなければ龍神族の花街にはいないだろう。もっとちゃんとした大店で働くこともできただろうし、名を売る前から様々な客がついたはずだ。それをせずに裏方にいるのは、目立つのは差し障りがあるのでは、と勘繰ってしまう。  本人は独り身だから気楽で旅に出た、とレンに言っていたようだけれど。 「……知人に鳥神族の方はいますが」 「おっ、無難な返答。ぼくは藍の友人。急に街から出て行った友人を心配してる、ってどう?」  本当か嘘か、真偽を悟らせないような喋り方をする。トキヤは眉を顰めた。 「知人は独り身だから気軽に旅の途中で来た、というようなことを言っていましたよ」  返すと、嶺二は感慨深いという表情をする。 「……そっか。ちゃんとぼくちんが言った設定通りにしてるんだね」 「? どういう……?」 「君の友人……知人か。知人は、歌を歌ったりする?」 「歌はあまり聞かないです。どんな楽器も演奏して、芸姑に合った指導をしてくれる、花街の人気師匠ですよ」 「ははっ! さすが。藍は音楽に愛されたような子だったから……」  随分と優しい顔をする、と嶺二の顔を見ていると、不意にじっと見つめ返された。 「君の目から見て、君の知人は幸せそう?」 「……ええ。たくさんの芸妓芸姑に手ほどきをするのも楽しいようで……あまり大きく表情を崩される方ではありませんが、休日、昼食などご一緒する時の雑談では、楽しそうにしておられます」 「そっか……そっかぁ。笑えてるなら、良かったぁ」  大きく息を吐き、飲み差しのお茶をぐいと飲む嶺二を見つめる。 「……あなたのご友人は、いきなりいなくなられたのですか?」 「ん? んー……いや、いきなりっていうか、ぼくが逃したんだよね」 「は?」  聞いてはいけないことを聞いた気がする。嶺二は構わず話を続けた。 「ちょっと色々あって、あの子の意にそぐわないことをあの子にしようとしていた鳥たちがいてね。つらそうだったし悲しそうだったし……身寄りがいないのは確かなんだけど。そのせいで追い詰められちゃった面もあるからさ。色々手配して、パッと逃しちゃった」 「……それは……神族の中でのあなたの立場は大丈夫なんですか?」 「やだなー、証拠を残すほどドジっ子じゃないよ、ぼくは!」 「…………」  敵に回したくないタイプかもしれない。揉み消すために何をしたのかは聞かないでおこう。 「だってね、風切羽を切るとか聞いたら、助けざるをえないでしょ、さすがに」 「それは……」  龍で言えば、術力を蓄えているという説もあるツノを切り落とすと言われたようなものだろうか。  羽根はなくとも脚で歩けはするが、鳥神族の鳥神族らしい特徴を、飛行を取り上げるなど、非道ではないか。 「ほんと、その通り! だから藍は、鳥神族に戻って来られないんだよねえ……」  戻れば、逃げたことの責任を取らされるかもしれないし、もっと酷いことをされるかもしれない。それなら、死ぬまで戻ってこないほうが良い。希望があれば、骨になれば帰れる。骨にはどんな罪もないから。  嶺二に茶のお代わりを注ぐと、 「それで、ここまで話は前フリと思ってくれるかな?」 「ああ、本題がちゃんとあるんですね?」 「それがメインの目的だからね! あのね、明日の夜、あるものを君に渡すから、君の知人に渡してくれない?」 「……まあ、そのくらいなら」 「良かった! じゃーぼくちんは行くねー、サンキューベリベリマッチョッチョッ!」  いつのまにか湯呑みもカラにして、来た時同様、明るく立ち去って行った。  ものの内容まで訊く暇もなかったが、明日になればわかるだろう。楽観的に考えると、トキヤも茶を飲み干した。  宴も終わり、それぞれが三々五々と散り散りに場を後にした。トキヤも数人と宿に引き上げ、約束の通りに嶺二の訪れを待つ。  嶺二がやってきたのは、トキヤが部屋に引き上げ、風呂からも上がった後だった。 「お邪魔するよん♪」 「どうぞ。静かにお願いしますね」  通された嶺二が、手のひらに乗りそうなサイズの籐籠を持っているのに気付いた。優しい手つきで卓に乗せる。 「これがね、藍に……君の知人に渡してほしいものだよ」 「……中身は聞かないほうがいいですか?」 「見ても問題ないよ。逃げないし」 「えっ?」  嶺二が、ぱか、とカゴの蓋を開ければ、中に収まっていたのは、鳥だ。  精巧な細工だろうか。思っていると、頭を上げた鳥と目が合った。思わず声を上げそうになったのを手で口許を塞いで防ぐ。夜は静かであるべきだ。  鳥のほうは、トキヤと目があっても驚く様子もない。 「……生きた鳥ですか?」 「そう。藍の可愛がっていた子なんだけどね。藍がいなくなってからどんどん元気がなくなっちゃって……君の知人なら、上手く元気にさせられるんじゃないかな? って思って、頼みたかったってわけ」  逃げない、と言われた通り、綺麗な藍の色をした小鳥は、鳴きもせずにトキヤをじっと見つめている。理知的にも見える濃紺の瞳は真っ直ぐだ。きっと嶺二の言葉もわかっているに違いない。 「はあ……私の知人が、必ずしも龍神族の街に来るとも限らなかったのでは?」 「ああ、藍についてなら、あの子に龍神族の街を勧めたのはぼくだからね」  どうせなら音楽を愛する心をわかってもらえる神族のところがいいでしょ、と笑うが、下手をすれば鳥神族に付け入られることになりかねないではないか。 「……明るみになれば、鳥神の長たちにその方を龍神族が拐かしたと受け取られかねませんが?」 「そこはね、鳥神族が手出ししにくい神族を選んだつもり。かつての恩を上回ることはない、と思ってるし、旧交を捨てるほど安い間柄でもないでしょ?」  年寄りばっかり見てるからわかるよ、と嶺二は笑う。それならいいが。 「それに、証拠は残してないって言ったでしょ? 大丈夫だよ」  明るい顔でまったく食えないことを言う。油断ならない相手なのではないかと思わせられる。友好状態である時は、心強い相手であるのは間違いないが。 「それで? 見返りは何ですか」 「ええー? それ聞いちゃう?」 「下手をすれば共犯者に仕立てられてしまうことも考えれば、当然では?」 「頭がいいねえ」  感心されたように言われても嬉しくない。子どもに対する言い方に近いように感じたから、やや不快だ。 「誰でもわかります。……私としては、名指しで指名されるのはやめて欲しいところですが」 「外交官になろうとは思わない? きっとトキヤは優秀な外交官になれると思うけど」 「それは当然そうなるでしょうが、生憎と家に淋しがり屋の恋人がいますので」  頻発に何日も家を空けたくないんです、と当然顔で言えば、「あぁ……」と何かを思い出した顔と声で頷かれた。 「そうか。以前の会議の時の決闘……あの虎は君の恋人になったんだ? 狼神族の知り合いから、相手は尾で殴られたにしては物凄い殴られ方をしてたって聞いたし、決闘自体は愉快だったからまた観たいって言ってたけど」  かなり時間は経ったと思うのに、いまだにあの事件の記憶はなくならないらしい。当事者はほとんど忘れかけているのだが。 「異種神族間なのに、決闘するくらいラブラブなのって珍しいよね」 「そう……とも思えませんが」  龍神族よりもっと血の気が多い神族なら、ありえなくはないと思う。  それにまさか、決闘をした時にはそこまでラブラブではなかったとも言い難い。曖昧に頷いておいた。 「それはそれとしてー、見返りはトキヤ個人にあげられるものをひとまず準備させてるんだけど、用意できるのが朝になっちゃうんだよねえ。明日は一日休みでしょ?」 「私は一足先に帰ろうと思っていますが」 「そんなに恋人に早く会いたい?!」 「ええまあ……」  会いたい気持ちも強いが。実のところ、三晩も空けたら寝不足で倒れているのではないかと心配もしているのだ。長く空けるのは初めてだから。  嶺二はくすりと笑う。 「ぼくもそんな風に思えるかわいい恋人がほしいなー。羨ましくなっちゃった」  お茶を飲み干すと、人好きのする笑顔を向けてくる。 「明日の十時くらいまでなら平気?」 「それくらいでしたら」 「じゃ、それくらいにまた来るよん。すっかりお邪魔しちゃったけど、その子と君の知人さん、ヨロシクね!」  ぱちんと音が鳴りそうなウインクを残して、嶺二は帰って行った。  籐籠の小鳥は落ち着いた様子で、逃げもせずにそこにいるままだ。 「……賢いですね、あなた」  トキヤが主人の――藍のところへ連れて行ってくれるとわかっているのだろう。ここで外に逃げるより、連れて行ってもらうほうが確実だし、安全だ。  鮮やかな青の羽。腹は白い。まるで夏の空を切り取ったような、スズメより少し大きな鳥だ。おそらくオオルリ。 「蓋はしないほうがいいですか? ……眠るから大丈夫? それなら念のため、閉めておきますね。あなたを誰かが見つけたら、どうなるかわからない」  枕元の棚に置いておけば、異変があっても気づけるだろう。寝支度を整えると、布団へ潜り込んだ。 「思いの外、早く出られましたね」  トキヤが休養日を切り上げたのは、そんなに酒を飲まなかったことと、トキヤを必要とする要件(会議の後の宴での演奏だ)が終わったこと、早く家に帰ってレンに会いたかったことが絡んだ結果だ。今回の外交官のトップには許可を得ているので問題ない。  相棒の駆龍の足取りも軽く、市場で買い求めた枇杷や無花果を気に入ったようだった。果物や木の実は翔とレンと食べる分も買った。栽培が盛んで、甘い種類の品種改良も進んでいるのが鳥神族の果実の特徴だ。  駆龍の食事分も、数日分は買い込んだ。それがわかっているのか、荷物が少し多くなっても何も言わずに走ってくれる。  嶺二から預かった小鳥は、懐に籠に入ったままでいる。籠には硬質化の術もかけておいたから、潰れることはない。  本当は、先に家に帰るのが良い。荷物を置いて、花街に出直すのが良い。けれど家に一度帰れば、その後また出直すのが困難になることはわかりきったことだった。  だから先に花街へ行く。  途中何度か休憩を挟み、鳥には果物と水を与えた。トキヤも簡易の食事を摂る。宿の者が厚意で持たせてくれた弁当は美味しかった。ここでもやはり小鳥はおとなしい。自然の中で食べる食事もいいものだと思えたので、暇を見つけてレンとピクニックしてもいいかもしれない。翔も一緒なら、賑やかになって楽しいだろう。  龍神族の中心街が見えてくると、やはりホッとする。けれどのんびりした気持ちを抱くこともなく、花街へ足を向ける。  運良く、藍は休みの日だった。彼の寝ぐらはさして広くもないアパートの一室だったが、そこを訪れた。 「ビックリした。ここへ来る人はほとんどいないから……」 「押しかけてしまってすみません。ですが、外でお渡しするのもどうかと思ったので」 「渡すもの?」  不思議そうに首を傾げる藍に、トキヤは嶺二とのやりとりを話した。 「そんなわけで……こちらをお届けします」  手のひらサイズの籐籠を、小さな卓にそっと置いた。藍が恐る恐ると手を伸ばし、蓋を開けると、青い小鳥はすぐに藍の手へと戯れる。ぴぴぴ、と高く鳴く声は愛らしい。  指に乗った小鳥を嬉しそうに見つめると、その体をそっと撫でた。 「……少し、痩せたかな。ごめんね、置いて行ってしまって……」  高く、澄んだ声で鳥が鳴く。返事をしているようだ。 「トキヤ、ありがとう。この子のことは、ずっと気掛かりだったんだ。大変だったと思うけど……連れてきてくれて、嬉しい」 「いえ、私は何も。きっと世話をしていたのは嶺二さんでしょうから……」 「この子は、賑やかな嶺二があまり得意ではなかったんだけど……背に腹はかえられなかったのかな。今日からはまた一緒だね」  藍の目に薄らと涙が浮かんでいることには気付かなかったことにして、トキヤは早々に辞す。きっと、二羽だけにしておいたほうがいいだろう。  花街からは、駆龍のほうが気が急いたのか、あっという間に自邸へ到着した。 「ただいま帰りました」  果物で増えた荷物を器用に持って玄関へ到着すれば、驚いた顔の翔がで迎えてくれる。時刻はおおよそ二十時。 「あれっ?! 明日じゃなかったか?」 「そうだったのですが、今日の予定がフリーだったので。許可を得て、早帰りしました」 「無茶するなあ……無事だったからいいけどよ」  感心していいのか呆れるところなのか悩む、と言われると笑ってしまう。 「きっと他人から見れば笑われてしまうようなことなのでしょうけれど、私には大切なことですから。……それで、レンは?」  帰ってきたのに珍しく姿を見せない。もしかしたら花街で仕事中なのか。知っていれば連れ帰ったのに。いやそれにしては時間が遅いのでは。  思っていると、翔の目がわずかに泳いだ。 「あいつ、夜やっぱちゃんとは眠れてねーみたいでさ。今ちょっと寝かかってたから、そっとしておいたとこ」 「食事は?」 「ほとんど手ぇつけねーけど、最低限の肉の入ったスープ一杯は食べてもらってる。あ、おまえ晩飯まだだろ? すぐ作るから待ってろ」 「レンの分も頼みます」  翔は驚いたように振り返ると、トキヤの顔を見て――にかりと笑った。 「めちゃくちゃ美味い丼作ってやるよ、ふたり分な」  果物は一部デザートとして食べようと、小皿に盛り分ける。  洗濯物は洗濯籠に入れて明日の翔に任せ、トキヤはひとまず風呂に入る。思い直し、風呂では長くなるから浴びるだけに留めた。  身綺麗になってから、寝室を覗きに行く。薄暗がりの中、気配はひとつ。 「……、……」  虎は気配に聡い者が多い。レンも殊更他人の気配には敏感だったが、すぐに起きてくる様子はない。普段なら音を立てなくても気配を消していても起きるのだが。 「……レン」  良くない夢に捕まっているのかもしれない。牀に腰掛け、レンの顔を見れば、薄明かりでも苦しそうにしているのがわかる。 「レン。もう大丈夫です。私は帰って来ました。ひとりじゃありませんよ」  強引に上体を起こさせ、抱きしめて背を撫でる。 「……ん……」  腕の中の体がひくりと震えた。体を少し離し、頬を撫でると反対側の頬へ口付ける。 「私のかわいいレン。目が覚めましたか?」 「…………? なんで……? えっ?」  レンは元々。寝起きはぼんやりとしているほうだ。まだうまく頭が働かないのだろう。  薄い掛け布団を剥ぐと、レンを抱き上げた。そのまま部屋を出る。 「そろそろ翔が晩御飯を作ってくれているはずです。一緒に食べましょう?」 「…………」  まだうまく思考できていないようだが、構わず食事室へ入る。ちょうど翔が席に丼とスープを置いてくれていた。 「お、レン起きたか」 「……おはよう?」 「まだ夜だけどな」  食事だからとレンを正面の席へ座らせる。食事中でも視線を上げれば彼の顔が見られるのは良い。  丼は、どうやらネギ多めの麻婆豆腐丼のようだ。スープはかき卵。こちらにもネギが入っている。 「いただきます」  手を合わせてからレンゲを手に取る。  まずはスープを一口。鶏ガラの出汁がきいたスープに卵の甘みが優しい。麻婆豆腐は味が濃いから、ちょうどいいバランスだ。  その麻婆豆腐も、しっかり濃い辛味と甘味、辛さに負けない豆腐が米とよく合う。山椒を効かせたものも好きだが、豆板醤や辣油が強いこの麻婆豆腐も好きだ。レンも辛いものを好むし、今この食卓にはマッチしているのではないか。 「…………」  ちらりと顔を上げてレンを見ると、彼は彼でトキヤを見つめている。かなり不審を露わにしているのは、どうしたことか。 「……起きてきましたか?」 「…………オレ、まる一日寝てた?」 「おまえがうとうとして一時間くらいしか経ってねーよ」 「…………なんでトキヤがいるの」  帰ってくるのは明日でしょ、と疑い深い視線。偽物と思っているわけではないだろうが、喜ばれないとは思わなかった。 「予定を切り上げたんです。切り上げても問題のない予定でしたし、筆頭外交官には許可を頂いているので勝手をしたわけではありません。……温かいうちに食べましょう?」 「ん……いただきます」  レンがようやく蓮華を手に取る。トキヤも食事を再開した。 「いただきます」 「召し上がれ」  翔は楽しげにふたりの食事を見守ってくれている。 「ん……やはりこの、辛いけれど甘みも感じられるタレは、翔が一番ですね。お豆腐はいつものところのですか?」 「そう。大豆のいいのが手に入った、って豆腐屋が言ってた。明日の味噌汁にする分もあるぞ」 「それでですか。この味に負けない豆腐、美味しいです。お味噌汁も楽しみです」  ね、とレンに同意を求めてみれば、まだじいっとトキヤの顔を見つめている。 「レンどうした?」 「まだ気にかかることがあるみたいですね」  とりあえず食べてからにしよう、と食事に集中し、大きな丼いっぱいに作られた麻婆豆腐丼と、汁椀のスープをすっかり飲み切る。翔としては野菜類と肉類も一品ずつ出したかったようだが、それは朝に回すことにしたようだ。  翔に茶を淹れてもらい、一息つく。 「それで……何かあったんですか? レン」 「……はやく帰ってきてくれたのは嬉しいけど、……オレのせいだったらイヤだと思って」 「あなたのせい?」 「本来の仕事は今日までで、明日帰ってくる予定だっただろう? オレがトキヤの仕事を疎かにさせたのなら、はやく帰ってきてねって言えないなって……」  俯いて湯飲みを両手で持つ。  なんということだろう。  トキヤが早く帰ってきたことを喜ぶより、仕事の心配をしてくれているのだ。じわ、と胸に温かさが滲んだ。 「今日は自由行動の日だったんです。他の神族のところへ出張する時にはあまりない時間の取り方ですが、鳥神族と龍神族は神族間が良好な上、音楽を愛する気質は共通です。外交上、歌舞音曲の話題も多い。流行りの音楽に触れたい外交官も多いですし、そのために外交官を目指す者もいると言われています。自由行動の日は、そんな欲求を公的な理由で満たせる日。自分磨きの日と言い換えてもいいでしょう」 「……大事な日じゃないか」 「私は外交官ではありません。鳥神の歌舞音曲なら、宴の日にも楽しませて頂いています。それに」  言葉を一度区切ると、まだ複雑そうな顔をしているレンに笑みかける。 「どうしてももう一度聴きたい、観たいとなれば、あなたと一緒に行けばいいだけの話です」 「……は……」  目と口をぽかんと開けたレンが、トキヤを見つめる。おかしなことを言ったとは思わないが、レンには予想外の言葉だったのかもしれない。  それからうろうろと視線を彷徨わせると、やや上目でトキヤを見てくる。正直、ぐっときた。 「……たまには、おチビも一緒がいい」 「俺?!」  思いもよらぬところで名前を出された翔は、デザートの皿を危うく落としそうになっていた。落とさなかったのは身体能力の高さゆえか。 「なんでまた俺まで……」 「友達も一緒に遊べたら楽しいだろうって思ったんだけど……」 「…………」  レンの言葉に、翔が照れているのはトキヤには丸わかりだ。 「いつも翔には留守番を頼んでばかりですからね。もうすぐ夏休みも与えられますし……三人でどこかへ出かけるのも悪くない」 「トキヤまで……」 「三人分の旅費を余裕で出せるくらいの稼ぎはありますよ」  通常支給分に加え、役職手当や狩人も少なくとも月一回は行っているから狩人手当、成果が上がれば成果報酬、危険手当、宰相がどうやったかはともかく手を回してつけてくれた家族手当、稀に結界保全を行うのでその手当、それとは別に宰相からは昔と変わらぬ同額の仕送りまである。仕送りに関しては勤めだしてからはほとんど手をつけていない。  トキヤの道楽といえば、本とたまに音楽、薬の調合も続けているが、それくらいだ。なので圧倒的に支出が少ない。  レンも翔も浪費するタイプではない。たまに衣服を買うくらいだろうか。あとは家の中の備品の補充。それも多くはない。一番多いのはもしかしたら食費かもしれない。  旅ともなれば、新しく買った衣服をここぞとばかりに着ていくこともできるし、それを理由に買うこともできる。三人で買いに行くのも楽しいだろうし、旅に出る前から気持ちを盛り上げるのも良いだろう。  駆龍は貸し出してくれる店もあるから、足の心配は要らない。 「……せめて食事代は交代な」 「わかりました」 「ホントにいいのかい?」  言い出したのはレンなのに、話が進むと恐る恐ると聞いてくる。 「もちろん。翔はこの家のことや私たちの世話を細やかにしてくれますが、それ以前に私の友人ですからね。どこに行きたいか、ふたりとも考えておいてください」  夏休み、役所では仕事を止めるわけにもいかないから、入れ替わりで夏休みを取る。約一か月ほどもある休みを一気に使ってもいいし、分割して使ってもいい。制約が緩いのだ。  役所が夏休みに入るのをわかっているから、様々な手続きや決め事は前倒し、あるいは夏休み明けに回されるのが慣例だった。特に複数部署にまたがる案件はそうなる。回らない仕事はない。回らないなら、何か問題がある。問題は解決しなければならない。そうやって問題解決を繰り返した結果、休みが取りやすくて仕事が回る環境が整えられた。  そのことも教えると、すっかりレンの憂いが晴れる。甘い枇杷と無花果が、浮かれる気分を後押ししてくれるようだった。
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初めまして嶺二編でした。
最初のほうは会議で決闘後、一緒に暮らして間もない頃。
後半はハヤトとハヤト母とは親交が深まってきたけど父とはまだな頃です。