休日にレンとデートする場所はそう多くないが、市場はトキヤもレンも気に入っている場所のひとつ。そうして、市場近くのカフェで一息つくのもお気に入りコースのひとつだった。
その日、市場の特別市は書物の市だった。
龍神族は神族の特徴として、書を好む。勿論一部例外はいるが(音也やハヤトだ)、龍神族としてトキヤも古書・新書問わず書物を愛していた。屋敷の部屋の一角が、書物で埋まっているほどであり、レンが何度か「オレと本どっちが大切なの」と言いそうになるのを我慢したくらいだ。
言うのを我慢したのは、自分と本を同列に置くのはどうなのかと理性が働いたためらしい。理性が仕事をしなくなる日があれば、トキヤはきっとレンの機嫌を直すのに数日かかるだろう。
トキヤの書物愛が特別強いのではない。龍神族の平均的な家庭なら、家にだいたい一室は書庫になっている。広い邸宅で家族が多いなら、ひとり一室が書庫というのも珍しくない。トキヤの本邸など、離れに書庫蔵を作っているくらいだ。
本の話で一晩語り明かす龍も少なくないし、妓女も本好きが多く、相手の好みそうな本を贈り合うこともある。情を交わさずとも本の話は交わすことがあるほどであり、トキヤもかつて妓楼に連れて行かれた時にはそれで乗り切ったこともある。
「……ずいぶん買い込んだねえ……」
書物市がやっているとわかっていたから、家から丈夫な手提げ袋をいくつか持参していた。いくらなんでも多過ぎでは、と思ったが、今は三つ持ってきた袋の全部に書物が詰まっていた。なお、予備で持って来ていたもうひとつの袋はレンのための袋で、こちらは味付けが好みのオヤツや、翔に作ってもらう料理の食材などが詰まっている。
トキヤは涼しい顔で水を飲む。
「朝早くから市に来た甲斐があるというものです。読んでみたかった書や、掘り出し物を見つけられて良かった」
「まあ、トキヤが良いなら良いけど」
家の敷地内はどうせトキヤの持ち物だし、書庫を建てるのも好きにすればいい。その代わり、本にばかりかまけてたら怒る。
拗ねた口調でレンに言われれば、にこりと笑む。過去たしかにそんなことがあったのは記憶にある。けれど今はそんなことはしない、つもりだ。
「大丈夫です。時間を決めて読むと決めましたし……時を忘れてしまう私の代わりに、あなたが教えてくれるでしょう?」
「……オレが教える前に気付いてほしいけどね」
やれやれ、と溜息を吐くと、レンの隣をウェイトレスが通り過ぎる。トレイには「ギリギリでトレイに載せました」という枚数の皿と、パンケーキやパフェが載っていた。
「ワオ、すごい量」
何人で食べるんだろう、とレンが興味深そうにウェイトレスの行き先を見守り、ひとつのテーブルの前で止まって皿を並べていくのに目を丸くした。
「すごい……! ひとりであの量を食べるんだ……」
感心した声に、「はしたないですよ」と諫めながらトキヤもちらりと視線を走らせる。そこには、見覚えのある人物がいた。
「……ああ、なるほど。あの方なら納得です」
「知り合いなの?」
「ええ。後でご挨拶に行きましょう」
こちらはこちらで注文した料理がある。お互いに、料理を食べてからでもいいだろう。
それに、こちらのテーブルもふたり分にしては多い量の皿が並んでいた。後から来る皿もあわせてトキヤも摘まませてもらうが、大半はレンひとりの胃袋に収まってしまうものだ。
「ん、美味しそうだね」
シーフードサラダ、麻婆豆腐、エビチリ、ピータン、ロールキャベツ、トマトソースのオムドリア、豚のみぞれ煮、鳥のガーリック醤油ダレ唐揚げ、鯛茶漬け。鯛茶漬けはトキヤが食べるし、それぞれ一口ずつくらいは別の皿に盛った。けれどほぼすべてをレンが食べる。
これだけ食べてもペースは落ちないし、食べ方も見苦しくないのはすごい。トキヤは咀嚼回数が多いから比較的食べるのはゆっくりなほうだが、それにしてもレンはいつもトキヤと同じくらいに食べ終わる。
そんなにペースを合わせられるのだろうか、と不思議に思うが、合わせられるから同じタイミングで食べ終わるのだろう。
「見ていて気持ちがいい食べっぷりですね」
「いつもそれ言うよね。食いしん坊でごめんね?」
「いえ。元気な証拠だと思っていますから」
「……子どもじゃないんだけどな……」
不服そうなレンの様子にくすくすと笑い、ちらりと甘味の男の席を見る。食べ終わったらしい。ちょうど良さそうだ。
レンに目配せすると、ふたりともそっと立ち上がり、男の席のほうへ移動した。
「カミュさん、こんにちは」
「ん……?」
紅茶をソーサーに戻したカミュが、トキヤを見上げる。鋭い目つきの目許が和んだ気がした。
「トキヤか。久しぶりだな」
「ええ。お久しぶりです。お元気そうで何よりですが……ここにいらっしゃるということは、族長への定期報告ですか?」
「そんなところだ。今回はおまえの手を借りずとも、狩人の数名でなんとかなるだろう」
「よかった。……紹介しますね。こちらは私のたいせつな虎で、レンと言います」
「初めまして、こんにちは。虎神族のレンだよ。よろしくね」
「虎神?」
カミュがしげしげとレンを見る。上から下まで、観察するように。
「……なるほど。この男が、次期族長補佐が虎神に喧嘩を売ってまで守って手に入れた虎か」
「…………誇張されている気がしますね」
憮然と返せば、カミュはくく、と喉の奥で笑う。
「否定せんのか」
「大筋で事実ですので」
論破できるような否定材料がない、と返せば「素直なことだ」と笑われる。
「そういえば、カミュさんが好きそうな果物やお菓子がこれから時限セールしますよ」
「何? どこだ」
途端にカミュの目の色が変わる。甘味好きらしい反応と言えなくもない。
「三番地の青空屋です。高級な酒をスポンジに染みこませ、ドライフルーツを戻す時も同じ酒をたっぷり使ったパウンドケーキが評判なのはご存じですか? なかなか手に入らない一品ですが、いつも何時に売り出すのかはわからない品物で……」
「ああ……あの店のドライフルーツは他の店のものより甘くて旨味が感じられるのが特徴だな。俺もあの店のドライフルーツは定期的に買っているが、ケーキは初耳だ」
「つい最近扱うようになったみたいです。知る人ぞ知る逸品のようですね」
甘味に目がないカミュがドライフルーツを定期的に買うのだから、品質は保証されているようなものだ。実際、高価だがその価値はあると評判の店である。
しかしカミュからは疑わしそうな目線をもらった。
「いつになるかわからない時限セールだったな? 何故その時間を知っている?」
もっともな疑問だが、正当な理由があった。
「先日お店のご主人が厄介ごとに巻き込まれかけたのを、レンが助けたんですよ。そのお礼にと、先ほどお会いした時に教えてくれたんです。私たちも買いに行きますが、一緒にどうですか?」
「行こう」
即答に頷くと、会計を済ませて三人で連れ立って店へと向かった。書物に関しては、連れてきた駆龍に預けて守ってもらうことにする。
「へえ、じゃあカミュは調査隊で【眼】を持ってるんだ?」
「【眼】ありの方の中で、もっとも優秀な方ですよ。妖魔をしっかり見抜いて下さるので、狩人としてはありがたい存在です。無くてはならないと言っても過言ではないでしょう」
妖魔の姿形の特徴、属性、攻撃方法など、戦うにあたって必要な情報を持ち帰るのが【眼】の役割だ。以前トキヤがレンと対峙した妖魔も、彼らが見抜いたのだった。
「【眼】の見極めが甘いせいで狩人に怪我を負わせては、【眼】の名折れ。仕事を完璧にこなすのは、当たり前のことだ。妖魔が強ければ強いほど、我らの血も燃えるというもの。後に狩人に狩られれば、誉れでもある。……まあ、俺の仕事で狩人が怪我をする場合は、狩人のほうが力量不足だ」
蛇族は特に優秀な【眼】を持つ者が多い。優秀な者同士で婚姻を繰り返していることも一因だが、もともと術力も高い特徴があることも一因だろう。
レンは感心した顔で話を聞いていた。
「自分の仕事に対して、誇り高いんだね」
「いつでも俺は最高の仕事をしてみせる。蛇族の名を辱めるわけにはいかぬからな」
傲岸不遜という言葉が似合いだが、カミュにしてみれば「できて当たり前のこと」なのだろう。狩人の命がかかっているのだから、当然か。
トキヤが狩人の仕事をする時は、こういう【眼】の者に命を預けているようなものだ。もっとも、トキヤは妖魔の事前情報を得ていたとしても、慢心したり油断するような龍ではない。それにレンも(無断で)ついてくることもあるから、あまり大きな不安は持っていない。
ところで、とレンが好奇心に負けた顔で話題を変えた。
「蛇族はみんな甘いものが好きなのかい?」
「皆がそう……というわけではない。ただ、決めたものをずっと好きでいる性質は持ち合わせている」
たとえば三歳の頃に食べて好きになった食べ物を、百歳を超えてもなお好きでい続けるだとか。五歳の頃にハマッた書画の作者の著作をずっと買い集めているだとか、同じ宝石の宝飾品を集めているだとか。
執着が強いとも言える、とカミュはいくつかの例と共に教えてくれた。
「無機物が相手の、つがいみたいなものだね? もしくは、龍神族にとっての書物が蛇によって違うだけ、とか」
「言い得て妙だな。つがいほど相手に誠実というわけではないが」
何しろ相手は無機物、蛇によっては二種類も八種類も、何種類でも対象になり得る。そのために身代を崩す者も出る。
「愛が深いんだねえ……」
「龍の書物への愛情や、鹿の宝飾品・装飾品を作る情熱も似たようなものだろう」
「カミュさんは今のところ、甘味だけですか?」
「そうだな。だが蛇族の街や村では、良い甘味を思うさま味わうことができぬのが難点だ」
話しているうち、青空屋に到着する。列はまだできていなかったが、店の主人がレンの顔を見るなり笑顔になり「今から出しますね」と教えてくれた。
そのお陰で、トキヤとレン、カミュもしっかりケーキを買うことができた。
なお、ひとり二限だったため、ひとつしか買わないトキヤとレンの浮いた分までカミュが買わせたことは他言無用となっている。
別れた後で、レンは感心したように呟いた。
「パウンドケーキ五本をひとりで食べるのかぁ……」
「まあ……一日で食べ尽くすこともないでしょう、たぶん」
「そうだよねえ……」
真実を知るのはカミュのみだ。
次に会った時に覚えていれば聞いてみようと思った。
********************
レンがトキヤのところへ住み着くようになってしばらくが経つ。
相変わらず花街や、近頃では市場でバイトをしていた。顔馴染みも増え、翔との買い出しやトキヤとのデートで行き会うと言葉を交わす相手もいる。
龍に気性が荒い者は稀で、花街で働くようになってからは嫌味を言われたことはあったが喧嘩を売られたことは一度も無い。基本的に他者へ干渉しすぎない距離感の神族なのだな、とレンは理解している。
ある日、花街で髪結いのバイトをしていると、どこからともなく弦の音色が聞こえてきた。琵琶かな、と思いつつ、音色を聞くともなしに聞く。
どうやら音色はふたりが交互に演奏しているらしく、先に演奏するほうが巧い。おそらくどこかの芸姑が楽器の師に習っているのだろうと想像がつく。
「……ずいぶん正確な音をはじくんだねえ」
「あら、レンさんはご存じない?」
「有名な人なのかい?」
結い上げた髪を鏡で色々な角度からチェックしている姐さんは、軽く頷く。
「前任の師匠が長旅に出たいからと、代わりに最近いらした方で……鳥神族の方よ。歌もとてもお上手でね。決まった店で働くよりは、店を回るほうを選ばれたみたい。街の監督官も、店同士で争われるより平和に済んで、ホッとしていらっしゃるとか」
「そんなに?」
「楽器や歌もだけど、見目だってとても麗しい方よ。……今習ってる姑が終わってから、お会いしてみる?」
「音楽は門外漢だけど……」
「あら。音楽が好きな方が身近にいらっしゃるでしょう?」
ころころと楽しげに笑われて、レンは視線をさまよわせる。そういえばそうだったな、と思い出させられた。
「何かお話の種になるかもしれなくてよ」
髪のチェックが終わった姐さんに連れられて、芸姑が稽古をする部屋を訪れることにした。
支度部屋は二階にあるが、稽古部屋は離れにある。風で音色が運ばれたらしい。
ちょうど音が途切れたところを見計らい、扉の外から声を掛ける。
「師匠。少しだけよろしいですか?」
「いいよ」
扉を開ければ、入れ違いに稽古を終えた芸姑が出て行く。今日はひとりきりだったようだ。
師匠、と呼ばれた彼を見て、レンは驚いた。まず、彼がとても若く――ある意味では幼く見えたからだ。ひょっとするとけっこう年下ではないだろうか。
薄い青緑色の髪、同色の瞳。じっと見つめてくるのは、こちらが何者なのかを考えているのかもしれない。
「どうしたの? 稽古を頼みに来た雰囲気じゃなさそうだけど」
「こちらの彼をご紹介したいと思ったの」
水を向けられ、にこりと人好きのする笑みを向ける。
「龍神族の街に虎神族は珍しいね。ボクは藍。鳥神族だよ」
「虎神族のレンだよ。よろしくね。いろいろあって龍神族で世話になってるんだ」
「ああ……噂は聞いてる。熱烈だったって」
「…………」
何がどう熱烈だったのか、突っ込みたいところではあるが、聞いたら藪蛇になりそうな気しかしない。
「その虎が、どうしてボクのところに?」
「この方と同棲しておられる龍が、歌舞音曲をよく愛される方なんです。なので、レンさんも楽器を嗜まれたら、共通の楽しみができるのではないかと思ったのですわ」
「えっ、そうなの?」
そんな話をしたか? と首をひねるが、話はレンをやや置き去りにしつつ、進んでいく。
結局、次に会う時にまた楽器の話をすることになった。
そうして、なんとなくこの話はトキヤには内緒にしておいた。
「藍は、どうして龍神族の街へ来たの?」
結局レンも藍に楽器の稽古をつけてもらうことにした。姐さんが言った、「共通の楽しみ」という言葉が、とても魅力的に感じたからだ。
何しろ、トキヤと暮らしてはいるが、共通で楽しむことといえば、食事とデートくらいしかない。お互い何をしていても傍にいれば落ち着くし、幸せではあるのだが、トキヤができることをレンもできるようになったら楽しいのではないか。もしかしたら、喜んでくれるのではないか。
多少の下心があるのは仕方がない。レンの行動原理、理由の一番だから。
そうして「何を演奏するか・したいか」と問われ、選択したのは、楽琵琶だった。トキヤの吹く笛の音が好きで、それと合わせられるものが良いと思ったのだ。もっとも、彼も様々な楽器を演奏できるから、琵琶をふたりで奏でることもできるだろうけれど。
「それで、藍はどうして龍神族の花街に?」
「意に添わない結婚をさせられそうになったから、逃げてきた」
「えっ?!」
冗談かと思ったが、藍の表情は変わらない。だが、
「冗談だよ」
「……真顔で冗談言うのは持ち芸のひとつかい……?」
ホッと息を吐く。地雷を踏んだかと思った。
藍はレンの様子にくすりと微笑む。
「身寄りがないからね。身軽だから……旅に出ようかと思って。幸いボクたちには羽根もあるし、飛燕もいるから、どこかに行くには敷居が低いからね。そんな時にこの街の師匠が旅に出るって聞いたから。だったら、ボクが代わりに行こうと思ったんだ」
飛燕は龍神族における駆龍のような生き物だ。神族一匹を乗せて飛べるくらいのサイズで、乗り心地は悪くない。ただし高所恐怖症にはオススメできない。
龍神族の花街には、飛燕の世話もできる小屋もあるため、しばらくは逗留するつもりらしい。
「この街からまた余所の街に行くとしても、お金はかかるし……鳥神でボクができることはだいたい皆ができる。けれど外の街なら、楽器や唄を教えることでお金を稼げる。……旅行資金ってわけ。だから芸姑たちに教えてる」
鳥神族は音楽、特に歌うことに長けている。楽器もこよなく愛しているし、才に秀でた者も多い。他神族で雇われている楽師のうち、十人いれば三人は鳥神だと言われるほどだ。また、天神に召し上げられる者が多いのも特徴。
調弦した後、撥で弦を弾くと藍が頷く。どうやら音ズレは大丈夫のようだ。
「花街に何人かいる師匠の中で一番厳しいとも聞くけど、音の冴えは藍に教えてもらうのが一番だって、姐さんたちが言ってたよ」
「光栄に思っていいかな。じゃあ、始めるよ」
「よろしくお願いします」
近頃、トキヤには気になることがある。
花街にバイトへ出かけるレンの帰りが、少し遅くなったのだ。おまけに、理由を問いかけてもはぐらかされて教えてくれない。
「何ヶ月か経ったら教えるよ」
と言われているので深く追及することは避けているが、気になるものは気になる。職場で花街に出入りする者にそれとなく訊いてみても、彼らも知らないようだった。
本当に言えないことなら、何ヶ月か、なんて期限がある言い方はしないはず。
それを慰めにしつつ、甘えてくる虎は甘やかした。
「来週末ですか?」
「そう。予定がないなら、オレに付き合ってくれない?」
ある日、帰宅すると服の着替えを手伝われがてら、そんな誘いを受けた。
もちろん断る理由はない。
「あっ、そうだ。その時には、おまえの龍笛を持って来てくれない?」
「龍笛? かまいませんが……」
一体何があるのだろう。
しかしレンはそれ以上は教えてくれず、ただにこにこと機嫌の良い笑みをくれるだけだった。
約束の日。
トキヤが連れて行かれたのは、花街の小さな妓館だ。
取り立てて特徴の無い妓館だが、扁額を見た時に、聞いたことがあると思った。
妓館にはすでに話が通っているらしく、駆龍を預けると三階の奥の部屋へ案内される。
無人と思われた部屋には、先客がいた。椅子から立ち上がると、拱手してくれる。
「こんにちは。初めまして」
水色に似た髪の若者は、少年と言っても通じそうな趣があった。ただ、それにしてはずいぶん落ち着いている。
「お待たせ。トキヤ、こちらが藍。鳥神族で、オレの先生。藍、こちらがトキヤ。オレの大事な龍だよ」
レンがさくさくと紹介を済ませてしまうと、慌てて礼をする。
「初めまして。龍神族のトキヤです。レンがお世話になったようで……」
「こちらこそ初めまして。ボクは鳥神族の藍。レンはとてもいい生徒だったよ」
「その、生徒とは……?」
どういう意味か計りかねてふたりを見れば、ふたりは顔を見合わせてくすりと笑む。
「藍、準備は大丈夫かい?」
「もちろん。キミの分の調弦もしておいたよ」
「ありがとう」
ふたりはごそごそと、卓の影に隠れていた大きなものを取り出す。
「箏と……琵琶?」
「藍がなんでも大丈夫っていうから、何にするか迷ったんだけどね。オレも笛にするか、胡弓にするか」
琵琶の形がきれいだったから、と照れたように言い、藍は一畳ほどの織物絨毯に座ると、低い座卓に箏を据える。レンは足の低い椅子に、片足胡座で琵琶を抱えるように座った。
トキヤは、彼らの前に置かれたクッションがしっかりしたふたり掛けの榻に座るよう促され、これから始まることにどきどきとする。
「じゃあ、いくよ」
とん、とん、と指で楽器を軽く叩いてリズムを取り、演奏が始まる。
まずは箏が滑り出す。そうして、跳ねるような音で琵琶が合わせてくる。軽快な音がトキヤの心をくすぐる。たしか、この曲には歌があった。
「……〜♪ 〜〜♪」
小さく口ずさみ、指は膝でリズムを取る。一定で、狂いのないリズムには驚かされる。わずかに琵琶が崩れそうになっても、箏が狂わないから合わせれば戻った。
こんなに正確無比な音を聴いたのは、生まれて初めてだ。
それでいて胸が温かくなるのは、琵琶との掛け合いが楽しそうだからなのかもしれない。
(……ほんの少し妬くのは、赦されるでしょうか)
トキヤ以外の者と、こんなに楽しそうにしているなんて。
楽しそうなレンを客観的に見られるのは嬉しいことではあるのだが、自分がもたらしたことではないことで楽しそうなのは、心が狭いと詰られても仕方が無い。
一曲が終わった、と思ったら立て続けてもう一曲が始まる。先ほどの軽快な曲とは打って変わり、今度はしっとりと落ち着いた曲。晴れた夜に月を見上げ、ひとり酒を飲むような。
寂しさはなく、音の冴えもあり、どちらかといえば凜々しく感じる。そうして時折混ざる艶に、ふたりが目配せするのはヤキモキしてしまう。
変拍子のこの曲は、トキヤの好みなのに。
「……はぁ……」
二曲目が終わり、溜息を吐いたのが誰だったのかはわからない。
トキヤはハッとして、手を叩いた。
「すごい……とても良かったです。ふたりとも音も狂いなく、澄んでいて……楽しさや、情景が目に浮かぶようでした」
トキヤの拍手を受けると、レンは照れくさそうに琵琶を置いた。
「楽しんでくれたかい?」
「ええ、もちろん。いい音を聴かせて頂きました」
「よかった。……藍に教わったんだよ」
置いた琵琶も手にして、レンが隣にやってくる。仮にも初対面の人の前なので、今は構うのを堪えた。
「しばらくずっと帰りが遅かったのは、これですか?」
「うん。内緒で練習して、上達したら驚かそうと思ってね。早く巧くなりたくて、頑張って練習したよ」
「レンは飲み込みも早かったし、器用だった。勘も良かったよ。センスがある、っていうのかな」
「そんなに褒めても、何も出ないよ」
手放しに褒められて、レンは照れた様子だ。トキヤも、レンが褒められるのは嬉しい。
そして、ふと気付く。
「……私に笛を持って来いと言ったのは、このためですか?」
「トキヤの龍笛は大切なものだろう? オレが勝手に触るのも良くないと思ったから……一緒に、合奏したくて」
レンが『大切なもの』と言ってくれたトキヤの龍笛は、母の遺品のひとつだ。花梨でできており、色は黒で、歌口が緋色。指穴は色が無く、木のままの色だ。吹くたび、これを吹いていた母の嫋やかで優美な手指や表情が思い出された。
錦の袋から取り出すと、レンと藍はいつでも演奏できる状態だ。
「何を演奏するつもりです?」
「前、オレに聴かせてくれたことがあっただろう? 青月夜」
「ああ……わかりました」
言い出したということは、この曲も練習してきているのだろう。わざわざ一緒に演奏するために、と思うと本当にレンが愛しくなる。
あの曲は、好きな人を傍らに置いて月を眺める男を表現した曲だということを、レンは知っているだろうか。知らなくても、曲が良いのはたしかだから構わないのだけれど。
笛から始まるその曲を、トキヤは初めて自分以外の楽器と共に奏でた。愛しさと優しさが溢れた曲を、こんなに優しくて嬉しい気持ちで奏でるのは初めてかもしれない。
レンにも、藍にもお礼をしようと心に決めて、その後も即興で三匹の音を奏でた。