12 龍のトキヤと虎のレン

※同人誌書き下ろし部分に関するネタを含みます  真斗からの使い猫がやってきて、蘭丸は嫌な予感しかしなかった。  狼神族での会議からしばらく経ったある日のことだ。  あの会議には蘭丸は参加しなかったが、何があったのかは噂で知っている。  レンが小さい頃から調子に乗った馬鹿はいたが、その中でも一際馬鹿だった連中が龍神族の若者に決闘で返り討ちにされたとかいう話は、きっと全神族に広まっているに違いない。馬鹿たちはおそらく、己の馬鹿な行動のツケを支払わされるだろう。何もできなかった蘭丸にとっても、小気味よいものだ。  レンがどうやって龍神族の若者と知り合ったのかは知らないが、その若者には礼を言ってもいいなと思っている。虎神族の街の中では表立ってレンを庇ったり仲良くしたりすることができないが、虎神族の事情を知らない龍神族だったからこそ、馬鹿どもに罰を与えられた。そうして会議に行った中枢の人間たちが苦虫を噛み潰したような顔で帰ってきたし、レンは帰ってこなかったのだ。  そう、レンは帰ってこなかった。  噂によれば、レンは彼を保護した龍神族の若者のところに世話になるという。どのみち、神族を巻き込んだ騒ぎの中心点だったのだ、帰ってきたところで今までよりいっそう酷い扱いを受けるかもしれない。それなら他神族のところにいたほうが、レンにとってはずっとマシだろう。  きっと、虎神族にいるより酷いことにはならないだろうから。  顔を洗っている使い猫をちらりと見る。その主人のことを考えた。  真斗は、レンのことをずっと好きだった。  本人の口から聞いたことではないし、真斗自身、レンへの想いを恋愛感情だとは思っていないから、本人にしてみれば、肉親――この場合は彼の妹――や蘭丸に対する情と変わりないと思っているかもしれない。 (恋愛じゃなけりゃ、あんな顔するか)  レンを見つめる目が熱を帯びていたのを知っている。まだ「お兄ちゃん」と呼んでいた頃とは違う熱だ。レンは気付いていただろうか? もしかしたら気付いていなかったかもしれない。兄の立場を崩そうとはしていなかったから。  気付かないままならいいのかもしれない。  本当にそれが真斗のためなのかはわからないが。  蘭丸は真斗の家――族長家に出入りできるが、真斗に呼ばれた時は裏門を使う。そのほうが真斗の部屋に近いし、他の虎に見られることがない。仲が親密だとバレれば、何をされるかわからないところがある。まったく虎神族は厄介だ。  誰もいないことを確認し、足音もなく部屋へ入る。 「よう、来たぞ。今日はどうした?」 「蘭丸さん」  約束の時間、真斗は部屋にいて、茶と菓子を用意してくれていた。菓子は蘭丸が気に入っている焼き団子だ。中に餡が入っているものもあるが、これはタレを絡めた団子を炭火で焼いたもの。甘すぎず、腹持ちもいいところが気に入りの理由だ。  早速茶を一口飲んでから団子を摘まむ。 「今日、お呼びしたのは……半分くらいは、愚痴を聞いて欲しいと思ったんです」 「おまえも親父さんの代理でする仕事が増えたって言ってたな。そっちでなんかあったか?」 「いえ、そちらはなんとか。手伝ってくれる者もいますので……」 「ってことは、仕事じゃないのか」  内容を言い渋る真斗も珍しい。普段なら単刀直入に言ってくる男だ。  言いづらい内容で、最近真斗の身の上にありそうなこと。 (……これは、アレか)  会議の時のことを絡めて考えたほうが良いのかもしれない。思っていると、真斗がようやく口を開いた。 「……俺への、縁談が……持ち上がっていて」 「縁談?」  蘭丸の眉が跳ね上がる。予想外の内容だった。  だが、考えてみれば普通にありえる話だ。  次期族長のひとり息子で、そろそろ結婚適齢期。神族のことを考えれば早くに結婚し、子どもを作ったほうが良い。血を存続させるためだ。  もちろん恋愛結婚の場合もあるが、そうでない場合も多い。――政略結婚だ。 「どこの家だ? 一件じゃねえんだろ?」 「さ、三件です。宰相家には現在女子はいませんし、長男次男はすでに結婚しています」 「その意味ではレンも使えたはずなんだがな……宰相じゃないってことは、遠縁とかか」 「宰相家の遠縁と……うちの遠縁と、虎神族の街に本拠を置いている豪商です」 「豪商? 血の繋がりがないんじゃ、本妻にはなれねえだろ」 「ハナから妾目的のようです」 「……それもどうなんだ? って感じだが……まあ豪商のほうは潰しやすいから置いておくとして……族長の遠縁と宰相家の遠縁か……」  虎神族は血を重んじるところがあるのは、昔も今も変わらない。  近親に歳の近い女子も男子もいなかったから、遠縁になったのだとは理解できるが、たとえ白虎でも、レンを残しておけば真斗と娶せることもできただろうに。させなかったのは真斗の親戚のせいか。まったく女は厄介だ。  血とは関係なく、白虎が忌まれるようになったのは、龍神族との神族関係を悪くさせた男が白虎だったせいだ。レンに非はまったくない。そこが許せないところだと蘭丸はずっと思っている。  レンの過失で彼が疎まれるならともかく、レンに非はないのに、生まれもった特徴のせいで忌まれる。蘭丸も白虎だから同様だが、商人の家に産まれたから中枢ほどの面倒はなかった。ただ、真斗に会う時は注意を払う必要があるだけで。 「なんとかなりませんか」  真斗が縋るような目で蘭丸を見る。  この目には、蘭丸も、レンも弱かった。真斗のことだ、わかってやっているわけではないと思うが。  数秒、考えを巡らせる。 「いっぺんには無理だ。ちょっと時間はかかるだろうが……ひとまずおまえんとこの親族のほうが面倒そうだから、そっちから手を着ける。おまえは上手くかわしておくんだな」 「わかりました」 「族長の息子は何かと大変だな。特に、適齢期になってきたら……」  年頃の娘や息子が多ければ、政争になりかねなかった。他の神族はどうやって結婚問題を処理しているのだろう。たとえば、龍神族はどうなのか。 「……レンが、いてくれたら……」  真斗が頷いたまま俯き、ぽつりと零す。  いたらいたで、レンが大変だっただろうと思う。真斗に縁談を断られれば、あの白虎がいるからだと思われる。レンを虐めてきたやつらへ、虐める理由を与えるようなものだ。  まして、レンは白虎で、妾の子。生まれや外見を小さい頃から散々に貶されてきた。それが次期族長の嫁になるとなれば、どういう扱いを受けるか。宰相家もレンをどう扱うのか、わからない。  真斗に気に入られていると知られていた時点でも相当だった。レンのほうはそういった噂や悪口、いわば醜聞から真斗を守ろうとしていた部分はあるし、できる限りで蘭丸も動いた。真斗の耳にまで届くことは、ほとんどなかっただろうと思う。  そういったことは言わずにおく。  好意がレンを傷付けていたことがあるのだと真斗が知れば、悔やんでも悔やみきれないし後悔してもしきれないことになるのは目に見えている。  真面目な虎なのだ。心根も優しい。一度懐に入れた者に対しては、面倒見の良さも発揮する。レンが言わなかったことを、蘭丸が言う必要はない。それに止めたり控えさせたりしなかった蘭丸にも非はあることだから、一生黙っておく。 「……つがいだったら、良かったのに……」  悲しみに満ちた声。  他人事だが、蘭丸もそれは思ったことがある。  レンを一途に慕っていた真斗。自分を慕う真斗を大切にしていたレン。  血は繋がってなくても、兄弟のように仲が良いふたりを見ているのは好きだった。  人目を憚ることなく、真斗もレンもお互いを尊重し合い、愛し合えたなら、それが一番良かっただろう。  けれど、レンはもう虎神族の街には戻ってこない。戻ってくることで得られる利点がないからだ。むしろ戻らないほうが利点になる。  龍神族の男は、レンのために決闘したのだろうか。虎神族の馬鹿とレンがいる場に無関係の者がいて、馬鹿と無関係の男が決闘をしたのなら、無関係の男がレンのために決闘するような――尾で殴ったということになる。  龍神族の相手は、次期族長の補佐だと言っていたか。 (龍神族は俺たち虎神族と違って、尾はあまり晒さねぇって聞いたが……)  レンのために普段は晒さない尾で殴ったのなら、相当ではないか。 (……せめて何か言えたら良かったんだが)  別れ、あるいは餞の言葉。  それを告げられるだけの時間があれば、まだ心の整理がついたか。 (縁があれば、生きてるうちに会えるか)  楽観視できるところが、蘭丸のいいところだった。 「レンに会いたい」  ぐしゃぐしゃのべそべそな顔で弟分に言われ、無碍に撥ねつけられるほどの強心臓があれば、もう少し違っただろうな、と蘭丸は思う。 「会いたいって言ったって……あいつは龍神族のところだろう。まだ決闘のほとぼりも冷めきってねえ。あっちはともかく、こっちのジジイたちが許さねえだろ」  この時点で蘭丸は正攻法、つまり正規の手続きを取って龍神族の地を訪れることを考えていた。  だが弟分はなかなか物騒だった。 「やっぱり……あの集まりの時に全員屠っていれば……」 「……物騒なことを言うな」  黒虎は、冷酷冷徹で無情になれる性質だと聞いたことがある。白虎とは真逆だ。真斗とはまったくかけ離れていると思ったが――黒虎らしいところがあるということか。  とはいえ、実の父親まで手にかけるようなことを言うのはいかがなものか。 「……でも、会いたいんです」 「会ってどうするつもりだ? 前も言ったが、あいつがここに戻ってきても、あいつには害しかねえ。……虎神の外にツテがありゃ、あいつはもっと早くここを出て行ったはずだ。おまえはまだ次期族長でしかねえんだぞ。あいつのためにできることは――今はねえだろ」 「……実の父をこの手に掛けるのは最後の手段にしようかと思っていたのですが……」 「だから物騒に走るな。おまえもしっかり黒虎だな」  見た目は白虎でもおかしくはないのに、発想の飛躍した方向がどうにも物騒なのは、黒虎の血と思っておきたい。  蘭丸は大きく溜息を吐く。  実のところ、重役たちにバレないように龍神族の街に行く方法が、まったくないわけではない。レンからその方法を聞いたことがあるからだ。 「レン。おまえ、ひどい怪我を負ったって聞いたが、ほとんど治ってるじゃねえか」 「うん。……親切なやつにね。治療してもらったんだ」 「親切な?」  そんなやつ虎神にいたか?  不審を隠さず首を傾げると、レンは子供の頃と変わらない、内緒話をする時の顔で言った。 「真斗には絶対に内緒にしてね? 虎じゃなくて、……龍がね。瀕死だったオレを助けてくれたんだよ」 「龍……?! おまえ、それは……」  領土侵犯ではないか。  けれど、レンを助けた龍は問題にせず、治ってからまた帰してくれたのだという。 「オレの家の近くに、森があるだろう? あのずうっと奥に行ったところが龍神族との領土境だったみたいで……助けてくれた龍は、ちょうどそこが縄張りだったみたい」  馬鹿も追い払ってくれたみたいだよ、と教えてくれる顔は、どこか嬉しげだった。それはそうだ、虎神族ではレンを助ける者はいないのだから。蘭丸も真斗も思い切って表でレンを助けることができないから、歯痒くもある。  けれど、そいつはできるのか。  他神族だからできるのか。  蘭丸にも雷に撃たれたような衝撃だった。 「…………」  レンが身を寄せている龍の家は、十中八九その龍のところだろう。一度ではなく何度もレンはその男のところへ行っていたようだし、気やすい関係であることは間違いない。  オマケに決闘だ。  大切にしてくれているのだろうとも思う。  ――が、このもうひとりの幼馴染はレンに会いたい気持ちでいっぱいなのだ。龍神の男の存在まで、きっと気が回っていない。 「……はぁ……しょうがねえな……」 「蘭丸さん?」 「虎の男がべそべそ泣くもんじゃねえ。……レンが呆れるぞ」 「っ……!」  名前を出した途端に涙を拭くのだから、効果は抜群だ。 (俺もたいがいこいつらに甘えな……)  溜息を吐くと真斗の頭をわしわしと撫でる。黒が多い縞の耳が、ぴこぴこと跳ねた。 「方法はなんとか考えてやる。……ないってわけじゃねえからな」 「! 本当に?!」 「声がでけえ。……日時はまた連絡するから、それまでおとなしく、いい子で次期族長の皮かぶってろ。できるな?」 「はい」  真斗が神妙に頷いたのを見て、蘭丸はホッと胸を撫で下ろすのだった。 「アイツが結婚ねえ……」  レンが感慨深い声で呟く。 「それを嫌がっているわけでしょう、真斗殿は」 「まあ、そうだね」 「……あなた一筋のようですし?」  ちらりとレンを見れば、彼は苦笑する。  器用なことに、レンは騎龍に後ろ向きに、トキヤと向かい合わせで乗っていた。 「それを言ったらオレだっておまえ一筋になるじゃないか。真斗は兄離れできてないだけさ」 「……ひとまずそういうことにしておきますが。問題のある相手と結婚したくない気持ちは理解できます」 「そうなの?」 「私にすら見合いの話を持ち込まれたこともありますからね。……落ち着いてください、あなたが私と住む前の話ですよ」  スッと表情が消えたレンを慌てて抱きしめる。嫉妬を露わにしてくれるのは嬉しいが、気を損ねたかったわけではない。  大っぴらにレンのことをつがいだとは言えないまでも、見合いの話はたいていはまず父である宰相へ話が行く。庶子であってもトキヤが宰相の息子だからだ。そうして、父は何故だか片っ端から縁談は断ってくれていた。レンがいる今ならともかく、いなかった頃まで。 「それに結婚ならハヤトのほうが先でしょうし……まあ、こちらも今のところは断っているようですが」  宰相家の務めで、いつかは誰かと婚姻を結ばねばならない。けれど自分がそうだったように、ハヤトにも自分の意志で結婚をしてほしいと思っているようだった。  虎神族は血を重んじると聞いた。だから真斗の相手は、それこそつがいでも現れない限り、一族の中から選ばれるだろう、とレンは先ほど言っていた。  敷かれたレールは楽なようで窮屈なものだ。 「妖魔は退治できましたが、根本の問題があるでしょう」  話を本道に戻す。レンも軽く頷いた。 「そうだね。でも本当にあの妖魔と真斗の婚約者候補の家との関連が出てくるかな……?」 「あの妖魔が男女だったのは間違いないですし、近くの村に伝わっていた婚約者候補家との関わりも相当濃厚でした。二代前なら比較的覚えている古老もいるでしょうし……話を聞く相手が次期族長なら、安心して話す部分もあるでしょう」 「そして証拠を見つけ出して婚約破棄へこぎつける、か……まあ、ランちゃんもいるし、大丈夫かな」 「ええ。三件のうち、最後の一件が面倒そうなアレだったようですから。ついでに今代の悪事も晒すつもりのようですが、手を貸してくれる者が他にもいるなら大丈夫でしょう」  雰囲気として、真斗の父親である族長がこの婚約話に絡んでいるようだった。族長として表立って撥ね除けることができないが、何かしら問題が生じて白紙に戻すことがあるのは仕方がない。そんな風に思っているのではないだろうか。  そうして、息子にその気概や行動力、問題解決能力があるのかを見ているのではないか。そんな気がする。 「なるほどね」  ふむ、と一応納得したらしいレンが、じっとトキヤを見つめる。 「なんです?」 「いや……真斗が結婚したほうが、おまえには都合がいいんじゃないかなって思って」 「……そういう見方もありますね。ですが、もう少し現実的な理由で手を貸しただけです」 「現実的?」  首を傾げると、トキヤは口許を笑ませる。少し悪い笑みに見えたかもしれない。 「利子は多くつけておくに越したことはないでしょう?」 「…………おまえが商人じゃなくて良かったよ」  くくく、と笑うレンが頬に口付けてくれる。  楽しげな様子を見るに、どうやら妖魔を倒した後に見た夢で、彼の子供の頃に会ったことは問題がなくなったようだ。 「そういえば」 「うん?」 「訊くのを忘れていましたが、あなたは山で夢は見なかったのですか?」 「…………」  突然黙られると、肯定しているようなものだと思う。  片腕でぎゅっと抱きしめて、位置を変えようとするのを防いだ。 「私には言わせておいて、あなたは言ってくれないのですか?」 「いや……別にそういうわけじゃ……ほら、前を見ないと危ないよ」 「うちの騎龍は賢いので大丈夫です。……それで?」 「……怒らないなら」  もうそれで半分くらいは怒られるような夢だったと自白しているようなものだ。あとは程度の問題だろうか。  じっと見つめていると、しばらく視線をうろうろと彷徨わせていた後で「あのね、」と教えてくれる。 「おまえは小さい頃のオレに会いたがってたけど。オレだって小さい頃のおまえに会ってみたかったんだよ。……夢で会えて、嬉しかった」 「…………それだけですか?」 「それだけ、って?」 「私に会えて嬉しいだけであなたが済ませるとは思っていません」  そういう信頼はしているのだと言えば、レンは嫌そうな顔をした。  目覚めた時、レンは大きな木の根元に横たわっていた。 「ん……ん?」  妖魔を退治して、大雨で難儀していたところで洞穴を見つけて中に入った。ほのかに暖かいそこで、トキヤに抱きしめられながら眠ったのは覚えている。  上体を起こし、周囲を見回す。木漏れ日が差していて、土は乾いている。木を見上げれば、大樹と言って差し支えない。樫の木だろうか。 (……なんか……見覚えがある、ような……)  レンに木の区別は付かないが、一本の樫の木だけはわかる。  トキヤの縄張りにある樫だ。  初めてトキヤの領地に入った時から目印になった大木。恩義すら感じている。  そうしてあの木にいる時の居心地の良さを気に入って、太い枝に板を渡した場所まで(勝手に)作ったほどだ。第二の自室と言ってもいいほど、寛げる場所になっている。  上を見上げるが、似ているが、まったく同じかと言われると違う気がする。 (ううん……でも枝とか似た感じなんだけどな…………ちょっと細い気はするけど)  登ってみたらわかるだろうか。  寝落ちるまで一緒にいたはずのトキヤとは、何かの理由で離れ離れになっているようだから、木の上からあたりを見回して現在地を把握する。これは捜索の一歩としてはなかなか良い手のように思えた。  身軽にジャンプし、手近な枝に懸垂の要領で上がる。軽業師のように次々と太い枝を上がり、どうやら外が見渡せる場所へ着いた。 「……これは……」  どう受け止めればいいだろう。  見慣れた風景が広がっている。  トキヤの縄張りの、あの樫の木から見る景色と同じだ。いや、見える木々の枝振りはなんだか少し若く見えるが、それを差し引けば同じだ。 (虎神族の縄張りにいたのに、なんで……いや、待てよ)  そう、レンは寝落ちたのだ。それなら、この風景も夢の中で見ているということにならないか。 「……夢の中にもいるかな」  愛しい龍の姿を思い描く。自分の夢の中なのだから、彼がいると思いたかった。  その時だ。 「そこにいるのは誰ですか」  小さな声が聞こえた。  隠れるのも今更だ。それにトキヤの縄張りなら問題ないだろう。  登ってきた時同様、身軽に降りていった。 「よ、っと」 「あなた……龍ではありませんね?」 「えっ」  レンが驚いたのは、龍ではないことを指摘されたことより、指摘してきた小さな子ども、彼に見覚えがあったからだ。 「キミ、トキヤそっくりだね……」 「トキヤは私の名前です。あなたは誰ですか? 他の神族の方が、どうしてこんなところにいるんですか?」 「ちょっと待ってちょっと待って」  いきなり情報量が多い。ひとつずつ整理したい。 「ええと……キミがトキヤ?」 「そうです」 「龍神族に、他にその名前の龍は……」 「いません。私だけです」 「…………なるほど?」  夢はずいぶんレンの都合に良くできているようだ。この子どもが嘘をつく必要もないから、本当にトキヤ――の幼少期なのだろう。面影がある。  黒い角と耳、子どもの割に長くてツヤツヤの黒い尾。それから色白で、綺麗な顔をしている。違いは、目の前の子どものほうが、頬がすこしだけふっくらしているくらいか。  そうなれば、名乗ることに躊躇はなかった。 「オレはレン。虎神族だよ。あ、でも龍神族のことは悪く思ってないから安心して。あとは……ええと、どこから、か」  少し迷いはあるが、ぼかして伝えるのは構わないか。 「……オレをひどく虐めるヤツがいてね。森に逃げ込んだら奥深くまで入り込んじゃって……迷ってたらここに辿り着いたんだ。龍神族との土地境があるとは聞いてたけど、ここだとは知らなかったから。ごめんね?」 「……とらがみ、ぞく」 「ほら、尻尾にも耳にも模様が入っているだろう? 毛も生えてる。オレは白虎だから色は白いけど……」  レンが尾を見せると、トキヤは好奇心の塊のような眼差しで見つめている。手を伸ばそうとして引っ込めた姿はかわいらしい。 「ああ、そうか。龍神族と違ってふさふさしてるから珍しいのかな」  これくらいは大丈夫かと、尻尾でトキヤの手を撫でる。トキヤは一瞬びくりとしたが、すぐにきらきらした目でレンを見上げてきた。  なんとなく、何が言いたいのかわかる。 「……いいよ、触って。先っぽと根元はダメだから、それ以外ね」 「はい!」  嬉しげに頷くと、今度こそ手を伸ばされた。  トキヤの触り方はなかなか丁寧だった。尾が神族にとってどういうものなのかわかっているからだろう。  尾の毛を撫で、そっと手で挟み持っている。ややあって、思い切って顔を埋めたのには驚かされたが、好奇心は止められなかったらしい。尾の中心は骨だからあまり柔らかくはないだろうけれど。  トキヤだから許した。 「トキヤはどうしてここへ?」  この樫の木は、屋敷からは少し離れている。何か目的がなければ来ないだろう。  トキヤは尾を撫でてくれながら、俯きがちに教えてくれた。 「母上のお加減があまり良くなくて。特別な薬草が、このあたりに生えていると思うのですが……見つけきれなくて……」  しょんぼりとしているトキヤは可愛らしいが、教えてくれた内容は放っておけないものだった。 「オレも、手伝う」 「え?」 「オレの母親も、体が弱かったからね。薬草はよく摘んでたし……二匹で探したほうがはやく見つかるだろう?」 「ありがとうございます!」  嬉しそうにされると、こちらまで嬉しくなる。いい子、と頭を撫でてやった。 「どんな薬草が欲しいんだい?」 「ええと……青のイカリソウ、黒い杏子、葛、オウレンです」 「ふんふん、なるほど」  滋養強壮と鎮痛作用があるものだな、と理解をすると、あたりを見回す。 「葛とオウレンは季節的に難しいかもしれないけど……杏子はオレが取ってくるから、イカリソウを見つけようか。青のイカリソウっていうのは見たことがないけど……それが特別な薬草?」 「はい。黒の杏子も薬効が強いのだそうです」  お医者様が言ってました、と教えてくれる。その歳でちゃんと覚えていられるのは立派なのではないだろうか。母のために必死なのかもしれない。 「トキヤでも見つけられないってことは、草深いところに隠れているのかもしれない。雑草がたくさん生えてるところはある?」 「ええと……土地境のあたりです」 「下だね」  木の向こう、地面が途切れたところをちらりと見る。それからトキヤのほうへ向き直った。 「トキヤ、ちょっとオレに抱きついてくれる?」 「え?」 「時短するから。目は瞑ってて」 「は、はい」  レンがしゃがむと、おそるおそる首に腕を回して抱きついてくれる。お尻あたりに腕を回して抱き上げると、トキヤは言った通りに目を瞑ってくれたようだ。頭を撫でて「ぎゅっとしててね」とお願いすれば、その通りにしてくれる。 (……大丈夫かな)  こんなに素直に初対面の虎、レンを信じて大丈夫だろうか。悪い龍や他神族に騙されなければいいが。  思いつつ、崖の縁へと行く。  この崖は、暇つぶしに何度か登ったり降りたりしたことがあった。だからただ落ちて怪我をするということもない。やや斜めに切り立った崖は攻略しやすいのだ。上から見た感じ、レンが知る崖と大きく変わりないようだった。 (これなら大丈夫か)  特に躊躇いもなく、崖を滑り降りていく。途中跳ねたり駆けたりして、最終的には軽く跳躍して崖下、森の入口に到着した。 「はい、もう目を開けても大丈夫だよ」  トキヤを下ろそうとしゃがむが、トキヤが降りる気配がない。怪我でもさせてしまっただろうかと内心で慌てていると、小さな声が耳許でした。 「……もう少し……」  このままでいてほしいということだろうか。  レンは立ち上がると、トキヤの小さな頭を撫でる。自分にも覚えがあることだったから、トキヤにもそうしようと思った。 「……その後は薬草をたくさん摘んだり、一緒に遊んだり、トキヤが好きだっていう本を教えてもらったりしたよ。あと、内緒だよって、小石を浮かしたところを見せてもらった。……ああ、せがまれてもう一回抱っこもした。小さいトキヤ、可愛かったから……」  なんでもお願いを聞いてあげたし、帰る時には少し泣かれたのはたまらなかった。 「薬草の勉強は続けて、もし怪我をした虎がいたら癒してあげてねってお願いもしたなあ」 「……なのに私には怒ったんですか?」  小さいレンに会ったことを話したら、相当妬かれて機嫌を直すのが大変だった。けれど、一方で自分も幼少のトキヤと会っていたなんて。  これはトキヤが拗ねて怒ってもいいことではないだろうか。 「おまえ、すごく愛しいもののように教えてくれるから。妬いても仕方ないと思わない?」 「その理屈だと、私も妬いていいということになりますが? 今のあなたも相当でしたよ」 「…………まあ……そうだね……」  途端に歯切れが悪くなる。悪いとは思ってくれているらしい。それも、バレることになるとは思っていなかったせいかもしれないが。  ひとまず騎龍にちゃんと座らせると、いつものように背中から抱きしめておく。 「……家に帰ったら。覚えておいてくださいね」  昼日中からとは言いませんが。  囁くと、身を固くした気配。くすりと笑むと、抱きしめる腕の力を強くした。
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