虎神族の花街を訪れた時のこと。
真斗は帰りに必ず土産を持たせてくれるのだが、いつもはだいたいお菓子や干し肉、香辛料など、レンが好きだった食材が多かった。レンの故郷なのだし相手はレンの幼馴染みだ。それでいいと思ったし、レンはなんだかんだ言いつつももらった食材や香辛料を使った料理を食べる時には嬉しげにしているものだから、妬けはしたがこれはこれで良いのだと思っていた。
けれどこの時は、土産にはトキヤへも渡された。
「……私に、ですか?」
困惑したのは仕方がない。目の前の秀麗な黒虎は、幼い頃からレンに想いを寄せていたのだと知っている。トキヤのことは想っていた相手を横から掻っ攫った、しかもレンと逢うためにはついてきてもらわねばならない憎い龍――くらいが関の山だろう。
けれど真斗はしっかりと頷いた。
「今回の件は、おまえたちの力をハナから当てにしていた。迷惑料という意味もある。龍神は書を好むと聞いたし、もしかしたらもう読んだものかもしれないとも思ったが……虎神では書を好む者は多くない。俺が手に入れられる範囲のものだし、もうおまえは持っているかもしれないが」
「開けても?」
「もちろん」
もし持っている本だとしても、わざわざ書を贈ってくれるとは気が利いている。どのような書であれ、龍神相手にはたしかに無難であり――相手が高位であれば気を遣わねばならないところだ。どんな本を贈ってくるかで相手を計るところがあるから。
トキヤはそこまではしないが、自分のことを知らぬ、しかも書を好まぬ性質の虎神がどういったものを選んでくれたのかは興味があった。
包みを丁寧にほどくと、中の書を改める。
「これは……」
表紙と裏表紙は丁寧になめされた濃茶の薄革、綴じ糸は焦げ茶に染められた丈夫な木綿糸、漉き紙は薄いのに裏写りしていない。上等な製本だとすぐにわかる。
そうして肝心の、中身はといえば。
「夏冬(カトウ)……しかも版が一桁?!」
思わず声が上擦る。
春秋が白兵戦の戦略本に対し、夏冬は術による戦略本だ。千年以上前に書かれた書で、当時は様々な神族間で戦争が行われており、その中で記された一冊。名著と名高いが作者は定かではない。
千年前の著作であるため、内容が時代に合わせて改訂されたものが現在も出版されているものの、版数は三桁になっている。現在は戦火の種もないため版は重ねられてはいないが、戦略本や術の扱いの基本としては応用されている分野も多く、参考にされている
古い書であるため、版が若いほど稀少なものであることは間違いない。それが一桁で、こんなに保存状態が良いものなど、いったいどれほどの価値があるか。
「さすがに、こんな高価な書は見合いません」
現在の版と、どれほど中身が違っているのかは気になる。気にはなるが、今回の妖魔退治ではその働きに見合うとは思えない。時価でいくらかかるかわからないような代物をほいほいともらうには、あまりに対価が重すぎる。
それとも、虎神族ではそこまで書の価値がないのだろうか。そんなはずはないと思うのだが。
「だが、俺としてはおまえたちへの詫びの気持ちももあるのだ」
言い切る真斗に、これは押し問答になる気配がすると感じた。ほんの少しの間、考えを巡らせる。
「……わかりました。では、こうしましょう。一旦、この書はお預かりします。そして、内容を写したら返却します」
「写す?」
「写書でも充分価値がある書です。私の手許に実物があれば、何が起こるかわかりません」
「龍神ではそれほどに書の価値は大きいのか」
「古書を好む龍も多いですが、新書も好まれます。単純に、書が好きなのでしょうね」
その意味では書の価値はたしかに大きい。難しい依頼ごとも、相手の好みに合わせた書で通したという話は、ちらほらと聞く。
「俺も書は読むのだが、虎神では書の流通は多くない。だから手に入れるのは難儀することが多い。……龍神が羨ましいな」
「……失礼ながら、真斗どのはどのような書を好まれるのですか?」
「そうだな、俺は……」
書の話に、つい熱中してしまう。少し離れた場所で、レンと蘭丸がその様子を眺めていた。
「……ねえランちゃん、あれ、ちょっと長過ぎじゃない?」
あれ、とトキヤと真斗の二匹を指す。あれから半刻ほども時間が経っているが、二匹の話が止む様子は見られない。
トキヤが真斗をあまりよく思ってないことは知っている。だから多少はらはらしながら見守っていたし、最初の五分十分ほどは微笑ましく見守っていたのだが。
こんなに放っておかれるとは思わなかった。
「……真斗も、周囲で書の話ができるやつがいないからな。思いがけないところで相手を見つけて、嬉しいんだろ」
「トキヤもそうだと思うけど……」
友人が少ないのは、トキヤも同じだ。それに翔・音也・ハヤトと、親しい龍を思い浮かべても、トキヤのように書馬鹿というほど書を読み漁るほどの龍は身近にはいない。もしかしたら彼の父などとは話が合うかもしれないが、最近打ち解けてきたばかりなので、まだ踏み込んだ話はできていない雰囲気。
真斗はどうやら読む書の傾向が似ているらしい。お互い内容に踏み込んだ話をしているようだ。レンにはわからない、ついていけない分野の話。
「……トキヤが嬉しそうなのは、いいけど……」
そこに自分がいないのは、どうにもモヤモヤしてしまう。
そんなレンの様子に、蘭丸が苦笑した。
「レン、行くぞ」
「え? って、どこに?」
「西の区画に、新しく料理屋ができた。普通の肉だけじゃなく、他神族の肉料理の味付けも食える。その中に、おまえが好きそうな辛い味付けがあった」
「! 行くよ」
「こっちだ」
時刻はそろそろ昼時。早めに食べてゆっくりしていれば、そのうち二匹の話も終わっているだろう。
そう思っていた時がレンにも蘭丸にもありました。
しっかり肉を味わって妓楼に戻ってみれば、レンと蘭丸が部屋を出た時からイチミリも変わらない位置で、二匹はまだ話し込んでいる。
「……ランちゃん、あれ、どうすればいいと思う?」
「ランチの時間はとっくに終わっちまったが……飯を食わせるのが優先だな」
腹が減っては戦はできぬ。頭の動きも鈍るし、怒りっぽくもなる。冷静な判断ができなくなるから、とにかく空腹は満たすこと。蘭丸はいつもそう言っていた記憶がある。今も変わらないらしい。
レンは少々――蘭丸基準ではかなり――怒っていたので、じっと緩く握った自分の手を見てぼそりと呟いた。
「拳で解決していいかな」
「そうでもしねえと、夜になってもあのままな可能性があるか……真斗もたいがい視界が狭くなるからな。いいぞ、やっちまえ」
物騒な許可を受ければ、レンは右手の拳を左手の手のひらでパシンと小気味いい音を立てて受け止める。口許には物騒な笑みも浮かんでいた。
蘭丸に見守られながら、ふたりの傍にそっと近寄った。そして、二匹の頭へそれぞれ拳を落とす。ゴッ、という音がふたつ分、響いた。
本当に全力でやったな、と蘭丸は感心する。覚えている限りでレンが全力の拳骨を真斗にくれてやったことは、二度くらいしかない。
「うっ……」
「いっ……」
少しの間、無言で頭を抑えている二匹を見下ろす。少しレンの胸がすいた。
「おまえたちね、昼の時間はとっくに過ぎてるんだけど?」
「何っ?」
「そんなに?」
慌てて二匹は時計を見る。真斗たちがやってきたのが九時半、話し込み始めたのが十時前、今は十五時前だ。
「……すみません」
「すまない……書の話ができるのが、こんなに楽しいと思ってなかった」
「私もです。読書の傾向が似ている方とここでお会いするとは……」
「書の解釈は少々違うところがまた新鮮で……」
「欺本の解釈については斬新な意見も伺えましたし……」
「……トキヤ? 真斗?」
「…………すみません」
「すまない……」
縮こまる二匹に、レンは当然だとばかり、鼻を鳴らす。
「食事に行くよ。オレとランちゃんは軽くは食べたけど……まだ入るよね?」
これは振り返って蘭丸への問いかけだ。蘭丸は軽く「おう」と返した。肉ならいくらでも食べられると豪語する蘭丸にしてみれば、先ほどのレンとの食事は、食前のサラダのようなものだ。
レンにしても、食べる気になれば胃は広い。少なくとも、目の前の二匹よりはずっと広かった。
「トキヤと真斗は軽めにして、夜ちゃんと食べればいい。オレとランちゃんは軽食も食べるけど、酔鯉酒(スイリシュ)も買って飲むからね」
「……わかりました」
酔鯉酒は、観賞用の赤の錦鯉がさらに真っ赤になる、と言われるほど度数が高くて味わいが濃厚な清酒だ。濁り酒であり、香りも原料となった米の香りが強い。他にも濁り酒は多く販売されているが、水・米・濁り方・香り・酒精の度数で一級を飛び越え、特級にランク付けされている、高価な酒だ。安い居酒屋では扱っていない。
狼神族が主に造っており、蛇神族が造る酒と並んで高級志向でもある。酒飲みであれば誰しもが一杯は飲みたい酒だが、二杯以上は財布と相談だ。
レンも蘭丸も酒に強い。居酒屋の酒など瓶五つほど飲んでも顔色が変わらない。その二匹が飲むとどれだけかかるか。
「……真斗どの、私が多めに支払います」
「そういうわけには……」
「ああなったレンは鯨なんですよ……」
鯨飲馬食という言葉があるが、まさにそれを体現している。おまけに笊を超えて枠。何度かレンと外で飲んだことはあるが、いずれも酔っ払ったのはトキヤだけだった。あの時でトキヤが瓶ひとつ、レンが瓶三つ。
酔鯉酒を売っているような店ならカード払いもできるだろうと祈るように思いつつ、昼食に出る支度を始めた。
「おまえら、トキヤの留守中に来るなよ」
揃って玄関に並んでいる音也とハヤトに、翔は苦笑いする。
「そろそろトキヤが帰ってくるんじゃないかなーって思ってさ」
「そうそう。手土産も持って来たんだ」
笑顔でそれぞれ唐辛子煎餅と上等な緑茶のパックを見せてくれる。他にも、カステラや干し杏などを持って来ているようだ。
ふたりとも、トキヤの立場を考えれば無碍にしにくい。トキヤ自身が無碍にする分にはいいのかもしれないが。
「……客間に通すから、大人しくしろよ」
「ありがと、翔」
「ありがとにゃ」
今日の二匹の出で立ちは、音也が薄紅の上衣、緋色の帯に灰色の裳裙。ハヤトは薄灰の上下、帯周りは白。一応、どちらも、このまま登庁しても問題はなさそうだ。
「……おまえら、覚悟しておいたほうがいいぞ」
「覚悟?」
「ってなに?」
心当たりなどないという顔をしているが、翔は誤魔化せない。
「仕事サボって来ただろ」
「…………」
「け、ケリはつけてきたにゃ」
「俺は誤魔化されてやってもいいけど。あいつが誤魔化されてくれるかなぁ……」
脅すように言えば、音也は「大丈夫だよ!」と少々虚勢を張りながら反論する。
「トキヤがいない間に半休取ったっていうし」
「そう、そうだよ! うちからのお使いっていうし」
ねー、と声と顔を合わせるふたりは、たいそう仲が良い。
そうしてトキヤがいないうち、ふたりで遊びに出かけようなどと不安になる約束が交わされる頃になってようやく、玄関からの呼び鈴。
「お、帰ってきたかな。おまえたちそこにいろよ」
子どもに言い聞かせるように言ってから広い玄関へ向かうと、ちょうど両開きの扉が開かれ、ふたりが入ってくるところだった。
「ただいま帰りました、翔」
「帰ってきたよ、おチビちゃん」
行きより荷物が多そうなのは、お土産の類いだろうか。洗濯物などを預かると、すぐに洗い場へ持っていく。これは後で洗うのだ。
「あっ、客間にいつものふたりが来てるぞ」
「……人がいないうちに来るなというのがまったく聞けていませんね……」
「一応お土産も持って来てたし、あの二匹にお土産があるなら、渡してやったらどうだ?」
「……そうします」
「おチビもすぐに来るよね? お土産渡すから」
「わかった。これ置いたらすぐ行く」
トキヤとレンが洗っても落ちない汚れを、翔は落とすことができる。だから洗い物関係もすべて翔が担当していた。いまは湯につけておくだけにしておこうと、湯を張ったたらいに浸しておく。
そうして台所に寄ってお茶の用意をすると、客間はそれはもう賑やかだった。
「ホントだよ! 半休取ってきたから!」
「お遣いして来いって父さまに言われたんだにゃー!」
「そんな嘘は登庁したらバレるんですよ! 正直に言いなさい! 嘘をつけば三倍落とします!」
拳を振りかざしているトキヤから逃げようとしているが、トキヤはふと楽しげにしているレンに顔を向けた。
「……レン」
「うん?」
「私の代わりに拳骨をこのふたりに」
「オレが?」
明らかに戸惑ったレンがトキヤを見る。
トキヤは音也とハヤトへ、にこりと笑んだ。やや怖い。
「あなたたち、私に拳骨を落とされるよりレンのほうがいいでしょう?」
「え……そりゃ、トキヤよりは……」
「うん……トキヤよりは……」
痛くなさそう、というのがふたりの見解らしい。トキヤは大きく頷いた。
「いいでしょう。ではレン、お願いします」
「ええ? 何の恨みもないんだけどな……」
「…………」
その時、トキヤがレンの耳許で何かを囁いた。レンはなるほど、と小さく呟き、ふたりへ向き直る。
「じゃあふたりとも、ここに並んで」
「うん」
「はい」
「おとなしくしててね」
続けざまに落とされた拳骨に、音也とハヤトは転げ回る。
「いっっっ……」
「……っっっ」
相当痛かったらしいことはわかる。声もなく転がっている様は、いっそ憐れだ。自分に落とされなくて良かったと思っておく。もっとも、トキヤが翔に怒ることなど、今まで一度だってないのだが。
「……お茶くらい飲むのは許しますが、飲んだらさっさと帰ってください」
「ひどいにゃ……お兄ちゃんなのに……」
「兄と敬われるようなことを日々行ってから言ってください」
「俺、次期族長なのに……」
「族長になる前に行動を改めてください。あなたの代で龍神族が滅亡するなんて、まっぴらごめんですよ」
つん、と顔を背けると、翔が淹れた茶を飲む。ハヤトが持って来た緑茶だ。お気に召したらしいことは、表情が緩んだことでわかる。
「お土産は、一食分ずつ包まれたカレーです。スパイシーな肉が特徴だそうで……五食分ずつありますから、持って帰ってください」
「ありがとう……」
「ありがとにゃ……」
ようやく椅子に座った二匹が、ぬるんで飲みやすくなった茶に口をつける。
「知らなかったけど、レンの拳骨って、めちゃくちゃ痛いんだね……トキヤより痛い拳骨って、今まで族長のおっさんのしか知らなかった……」
「まだ痛いにゃ……」
「俺も……」
レンは「そんなに痛くした覚えはないんだけどな」と不思議そうに首を傾げる。
拳骨の直前、トキヤがレンへ囁いたのは。
「いつまでもあのふたりがここにいると、あなたに触れる時間が短くなってしまいます」
だった。