02 龍のトキヤと虎のレン

 あれから丸二日、男はこんこんと眠り続けた。  トキヤは仕事に行く時だけは彼の世話を翔に任せ、帰ってきてからはなるべく自分の手で塗り薬や包帯を替え、飲み薬を与えてやった。水分もなるべく摂らせるようにした。  甲斐甲斐しい世話を焼くのを手間とも思わなかったが、目が覚めるのが楽しみのような、惜しいような、不思議な気持ちはあった。  翔には何度か「いいのか?」と問われたが、そのたびに「構いません」と返す。他神族の者など、争いの種にしかならないようなものなのに。それでもすぐに見捨てる真似ができなかったのは、彼が重傷を負っていたから。理由はそれだけだと思っていた。  翔が心配してくれていたのは伝わったが、結局はトキヤの思うようにさせてくれるから、彼は彼で過保護なのか、トキヤに甘いのかもしれない。  そうして三日目。  内臓まで見えかけていた傷口は拾った当日に縫ってやったが、傷口も無事にくっつき、やはり虎は治りが早いと感心していた頃、男は目を覚ました。ちょうどトキヤが薬をたっぷり塗った布を傷口に当て、包帯を巻こうとしていた時だ。 「……ッ?! ……ぅ……」  反射的に素早く距離を取ろうとしたようだが、腹の傷が響いたのか、それとも脚の傷が響いたのか、うつくしい顔を歪めてしまう。  こちらを警戒する瞳は、晴れ渡る空に似た、紺碧。吸い込まれそうな青。今までに見たどんな青より透き通ってうつくしい。どんな宝玉も、この瞳には敵うまい。  見蕩れそうになったが、現状を思い出す。彼はここがどこか、トキヤが誰なのかも知らないのだ。 「……まだ動かないでください。腹の傷も脚の傷もほぼ塞がっていますが、ダメージは残っていますし、縫い合わせた傷口もようやく付いたばかりなので、考えなしに動けば開きます。内臓も万全ではないでしょう」 「……その角と尾は、龍の者だろう? 何故、オレを……」  警戒を露わにするのは当たり前。一族同士、仲は良くない。だが、それで彼の怪我を見捨てるのは話が別だ。 「あなたに怪我を負わせたのはあなたの同族でしょうが、あなたが逃げてきた先が、たまたま龍神族である私の縄張りだった。縄張りを荒らされたままにしておけないので、破落戸を追い払ったら気絶したあなたが残された。軽傷ならともかく、命に関わるような怪我をしているのは、そのままにしておけませんから……手当をしました」  淡々と事実を告げる。トキヤの態度や言葉をどう受け取ったのかはわからないが、男の警戒が少し和らいだ気がした。 「……なるほど?」 「薬は実験と実践を繰り返しているので、街で買えるものよりは効果があると思います。あなたをここに運んで三日になりますが、この短期間で傷が塞がる程度までには回復できたのも、半分は薬のおかげです。あとの半分は、あなたの生命力ですね。……薬が虎にも効果があったようで、良かった」  経緯は事実だが、この虎を納得させるには充分だったらしい。そう、と頷いてからは肩の力が抜けたのが見て取れた。  彼がちょうど体を起こしたのをいいことに、包帯を巻いてしまうことにする。肩の力は抜けても、緊張しているのか警戒しているのかは、彼の白地に黒の模様が入った尾が膨らんでいることからも窺える。  見知らぬ場所なのだから、仕方ないとは思う。思うのだが。 「…………」 「……そんなに警戒しなくても、取って食べたりなんてしませんよ。動かせば傷が開くのはわかっていますから……また命に関わってもいけませんし」  せっかくここまで治したのに、とくすくすと笑えば、男の緊張はまた少し解けたようだった。それを少しばかり嬉しいと感じてしまう。 「脚のほうも替えてしまいますから、そのままじっとしていてください」 「…………ん」  薬草を染みこませた当て布を替えると、こちらも手早く巻いてしまう。染みて痛むだろうに、男は声のひとつもあげなかった。我慢強いのかもしれない。  視線が刺さる気がするが、これは仕方がない。トキヤとしては、彼に不利益を働く気はないのだが、虎族はそもそも他族に対して警戒心が強いとも聞くし、前提条件として一族同士の仲は思わしくない。それに彼とは初めてまともに顔を合わせるのだから、どうしようもない。 「薬湯もありますので、内側を早く治すにはそれを飲んでください。ものすごく不味いようですが、効果は保証します。……後で持って来ますね」  袖を翻そうとすると、男の声がトキヤを引き留めた。 「あ……どこへ」 「お腹。空いてるでしょう? 食べるものを持って来ます。おとなしくしていてくださいね。……ああ、これは水です」  寝台のすぐ脇に置いていた台に置いていた水差しから小さな杯に注ぐと、トキヤは一気に飲み干した。杯を逆さにして飲みきったことを彼に見せる。 「毒なんて入れてませんから。それも安心してください」  今度こそ長い袖を翻すと部屋から出、今の時間は昼食を作るのに厨房へいるだろう翔のところへ行く。 「翔」 「お、トキヤ。昼飯ならもうすぐできるぞ」 「彼が目を覚ましたので、彼の分もお願いできますか?」 「あいつ、目ぇ覚ましたのか! 早かったな〜、さすが虎」  生命力が強いっていうのは本当だな、と翔が感心する。たしかに、生命力の強さがなければだいぶ危うい状態ではあった。 「病み上がりだけど、虎だからな……肉が主食だろう? でも怪我人だからなあ……煮た肉ならいいかな。あと豚の挽肉と刻んだ野菜を挟んだ饅頭と……こっちの煮物と……わかった、運んでおく」 「私も彼と一緒に食べます」  トキヤの言葉に翔は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに明るく笑ってくれる。 「そうだな。早く喰って、とっとと治してとっとと出てってもらわねーとな!」 「……そう、ですね」  虎が警戒心が強いことを翔も思い出したのだろう。毒が入っていないことを見せるには、一緒に食べるのが一番手っ取り早い。  けれど翔の言葉は不意を打った。他人から言われてしみじみと、あの男は傷が治ればここから出て行ってしまうのだと実感する。当然だ、他族なのだから。  けれど惜しい、と素直に思う。どうしてそんな風に思ってしまうのかはわからないが、もう少し、もっと傍にいられたら。  ――いられたら、どうするのか。それはわからないけれど。  自分の考えを振り払うように息を吐き、翔と食事を持って彼を寝かせている部屋へ戻る。  もしかしたら出て行ってしまっている可能性もある、と思っていたが、意外にもおとなしく部屋にいた。窓から外を眺めている。立ち上がって歩く元気はあるらしい。 「食事を持って来ましたよ」 「……ありがと。そっちのちっちゃいのは?」 「ちっちゃいって言うな!」  眦をつり上げて怒る翔に、思わず噴き出しかけて顔を横に向ける。二秒後、気を取り直したように虎神族の彼へ紹介した。 「彼は翔。私の大切な幼馴染みであり、親友であり、私の身の回りの世話をしてくれる従者でもあります。炎龍の血を引いているので、あまり怒らせると燃やされるかもしれませんが。心配しなくても、あなたの不利益になることはしませんよ」 「なるほど?」 「この料理を作ったのも彼なので、美味しいと思います」 「感謝して食えよ!」  食事の匂いにつられてか、彼が卓のほうへ寄ってくる。  取っ手のついた木の盆に載せられたのは、鶏肉と野菜を濃い味で煮たもの、魚の煮付け、だし巻き卵、味噌汁、タコと枝豆のと生姜の炊き込みごはん。それから味噌汁は豆腐とワカメとネギだ。それと、彼の分には豚肉の照り焼きに、赤子の頭ほどもある饅頭。  主に肉食の虎からすれば肉っ気が足りないだろうというのは予想に難くないし、 「…………」  彼の表情を見ても一目瞭然だ。思わず顔を逸らして袖で顔を隠し、笑いを堪えてしまった。 「こいつあんまり肉食わないんだよ。だから肉の在庫があんまりねぇんだ」  一応フォローらしきことを翔が言い、トキヤはその間に笑いを収めてしまう。 「……失礼。肉は余り食べませんが、その挽き肉を詰めた饅頭は絶品です。それから、私もここで食べますから」 「……わかったよ。……それから、遅くなったけど。助けてくれてありがとう。オレはレン」  ここで、ようやく互いに名乗っていないことに気付いた。 「私はトキヤです。怪我の治りを考えて料理を持ってきましたから、ちゃんと肉以外も食べてください」 「…………わかった」  言いたいことはあっただろうが、怪我のことを言われれば不承不承と言わんばかりに頷いてくれる。素直な性質なのかもしれない。  虎神族とは食べる料理も味付けもだいぶ違うだろうし、トキヤは龍神族の中でも極端な食生活だ。だからレンの口には合わないかもしれないなと思ったが、一口目こそおそるおそるとしたものだったが、すぐにゆっくりとだが手は止めずに食事を続けてくれる。  食べっぷりから、饅頭はもちろん、米のほうも気に入ったらしいことがわかった。それからもうひとつ。 「これ、美味しいな……」  レンがこれ、と言ったのは、鶏肉と豆と芋と大根を煮たものだ。彼の分は肉を多めに入れてある。今回は薬草も混ぜているから、どうしても出てしまう苦みを消すために味付けが濃いめになっている。 「美味しいと思うなら、薬の成分が効いているのでしょう」 「薬? これに薬が入っているのかい?」 「ええ。滋養強壮、というやつです。虎神族は堅強な身体をしていて、怪我の治りも早いと聞いたことはありますが、命の危機に瀕するような怪我でしたし……念のためです」 「へえ……薬がこんなに美味しいなら、いくらでも飲むのに」 「後で美味しくない薬も飲んで頂きます」  きっぱり言い切ると、レンはすぐに嫌そうな顔をした。 「ええ……」 「早く治したいでしょう?」 「……じゃあ、食後じゃなくて今くれないか?」 「今?」 「今なら美味い料理で後口直しができるだろう?」 「……なるほど。少し待っていてください」  ぱちん、と指を弾くと、少しして翔が小さな薬壺を持ってくる。トキヤに渡すと、また去っていった。 「血を増やす作用のものも入っていますから……匂いも味も受け付けにくいでしょうけれど」  どうぞ、とレンの前に差し出す。  レンは手のひらに収まる小さな白い壺をしげしげと見つめていたが、蓋を取ると眉を顰めた。 「……たしかに、すごい臭いだね」  贅沢は言えないな、と呟くと、レンは一息で壺の中身を飲み干す。それから真顔で饅頭にかじりついた。しばらく無言で咀嚼と嚥下が続いた。  食事がなくなるスピードは速いのに、食べ方が崩れることはない。品がある食べ方をするのだな、と感心した。 「……はぁ、……ありがとう」 「え?」 「薬。貴重なものなんじゃないか?」 「ああ……調合が繊細なだけですから。貴重な材料が入っているのもたしかですけれど、私の領内で採れるものが多いですし」 「……おまえがこれを作ったのか?」 「ええ。趣味なので」 「……そう」  顔をじっと見つめられた後、薬壺は卓へ。その手も綺麗だと、トキヤは思った。  室内は湿り気を帯び、互いの息遣いは獣のように荒い。 「ッあ、ぁあア……ッ!」 「ぅ、……ッく、……!」  ひときわ高い嬌声を上げ、体を震えさせる。トキヤもレンと前後して精を放ち、乱れた息を吐いた。  体を離してレンの隣に寝転べば、すぐにレンが身を寄せてくる。ひんやりとした夜気の中、彼の肌が温かく心地良いことを言い訳に、トキヤはレンを抱きしめる。こうしていれば、わずかな身長差も気にしないでいられるのも良かった。  ただ、トキヤの肌は情事の後でもレンより少し低いままだから、彼を冷やしてしまわないかはいつも気がかりだ。  互いに呼吸を整えると、レンがトキヤの背を撫でてくれる。 「……気持ちいいですね、あなたの肌。いえ、肌だけではなく……撫でてくれるところも。触れるところすべてが」 「ふ、……口説かれてるみたいだな。でもオレも、おまえの肌は気持ちいいと思ってるよ」  すり、と胸元に甘えてくる様は、まるで子猫のようでもある。言えば怒られるだろうから言わないでおく。 「不思議ですね」 「うん?」 「今まで触れた他の誰より、あなたの肌が一番心地良いと感じるんです」  うっとりと息を吐いて零すと、レンが怪訝そうな顔をする。 「……待って。おまえ、経験あるってこと……?」 「この歳で、ないほうがおかしいでしょう? 私だって花街くらい行きますよ。何をそんなに狼狽えてるんですか」  行く時はだいたい誰かに連れられて行き、各自自由行動を命ぜられてしまう。色事より芸妓のほうが気になりはするのだが、気付けば色事へ流されてしまっていた。流されるままなので、特に贔屓にしている妓女がいるわけでもない。  そうして、レンはそっぽを向いてしまう。 「レン……?」 「いや……オレの思い込み。てっきり童貞かと……いや、でも童貞が巧いのもイヤだな……いや、でも別にトキヤとはそういう……」 「……? どうかしましたか?」 「……んん……なんでもない。おまえも男なんだなぁって思っただけだよ」 「今さら……? いたっ」  何度も抱かれておいて? という気持ちを隠さないまま言えば、背中に平手を食らってしまった。爪を立てられなかっただけマシか。 「もう寝る」 「……はい。朝は食べていきますか?」 「んー……」 「あなた、香草で蒸して塩胡椒した鶏は好きでしたね? あれと、濃い味の豚肉・ニンニクの芽を炒めたものは、翔が作った割包に挟んで食べると美味しいんですよ。ネギとエビのスープの卵とじも美味しいですし」 「やめて、お腹空きそう……」 「食べていきますか?」 「……うん」  頷いてくれたレンを抱きしめると、背や頭をゆったり撫でる。そうすれば彼がよく眠れる気がしたから。 「不思議だよねえ……」  関係の思わしくない他族のねぐらより、自分の一族のねぐらに戻ったほうがよほど眠れないなんて。 「キミの体温が気持ちいいのもいけない……」  離れがたい、と思ってしまう。  他族のところへ頻繁に往来するのはまだしも、龍神族なのに。  レンのぼやくような呟きは、そのままトキヤに当てはまることだ。  怪我を負った虎を癒やした。癒えたから帰った。そこで終わるはずだったのに、彼がまた怪我を負っては自分の縄張りで身を隠すものだから。懲りていないのはどちらのほうなのか、と、今は考えたくはない。  体を重ねるようになったのも、遅くはなかった。  もともと彼の姿を見るのは気に入っていたが、その体に触れていいとなると、飽きずに触れていたくなるし――手放せない、とも思ってしまっている。  互いの立場を考えれば、止めたほうがいいのはたしかだ。だが、逢うなと言われても、きっともう聞けない。心の奥底、思考の深いところで、自分から彼を奪うなら、相手が何者でも立ち向かうつもりがある。  レンが同じ気持ちを抱いているとは思わないが、こうして身を寄せて、離れないでいてくれるのなら、それだけでいい。  穏やかなレンの寝息を子守唄代わりに、トキヤもそっと目を閉じた。  おおよそ二年に一度ある御前会議は、誰であろうと大なり小なり緊張を強いられる。  さまざまな神族の会議場所で持ち回りで行われている普段の神族会議では各神族間・部族での会議が主だ。御前会議は十の神族をまとめる一段上の神族――例えば龍神や虎神、熊神や狼神――によって執り行われる。  話し合われることは、天界からの指示・方針についての落とし込みや役割分担、各神族間で問題になっていること・その解決についてなどだ。  今回の会議場所は狼神族の街だった。 「花街に行こう!」  初日の会議が終わり、ひとまず明日は休息日だと決まった時、龍神族の次期族長がそんなことを言い出したものだから、トキヤの頭痛は留まるところを知らない。  とはいえ、まったくふたりで行くわけではなく、狼神族のほうから案内人をつけてくれた。彼らとしても、縄張りで何かあっては困るのだ。そしてそれと同時に、多数の神族が集まる機会は商機とも言える。安全に、楽しく時間を過ごしてもらう分には、他の神族は上得意になる。  トキヤたち以外に熊神族・鹿神族などの若者からそれなりの年齢の者たちが集まり、さながら観光旅行のような集団になった。  まずは大きな妓楼に案内され、もてなされ、そこで一夜の相手を決める者もあれば、別の妓楼へ案内される者もいる。  狼神族の妓女たちは、愛くるしい少女もいれば、気っぷの良い姉御肌の女性まで多様で、普段龍神族のたおやかな妓女しか見ていないトキヤから見れば、新鮮な気持ちもある。どこか乳母も思い出させられた。 「……はぁ」  散々自分を引きずり回した次期族長は、相手を決めてしまうとトキヤに手を振って行ってしまった。つまり、トキヤはひとりになった。他の神族たちも思い思いの相手を見つけて妓楼へ籠もってしまったので、本当にひとりだ。  案内人には気遣わしい目を向けられたが、自分は特にそういった目的も欲求もないので、観光がてらあちこち見せてもらったら宿舎に引き上げると伝えると、本当に色々なところを見せてくれた。  花街にあるのは妓楼だけではない。妓女への土産になるような品物・食べ物を売る店・屋台・芝居小屋・本屋まである。上級の妓女ともなれば見識の広さ・高さも求められることが多く、その要望に応えているのだろう。  花街で売っている本はどんなものがあるのか。興味深く棚を見せてもらい、そのうちの何冊かが気になって購入した。次はあの妓楼で売っている餅菓子が名物で、とどんな菓子なのか説明され、案内されるまま、そちらに行こうとした時だ。  突然腕を掴まれ、引っ張られるがまま、走らされる。 「ちょ……っ!?」  転びかけるのを、尾でバランスを取り免れる。  こちらを向かない、けれど長い、濃い蜂蜜色の髪は見覚えがある。白の毛で黒の縞が入る耳も尾も、知っている。 「私は大丈夫ですから!」  取り残された案内人を振り返り、そう声をかけておいて。引っ張られるがまま、なおも走り、駆けるスピードが落ちたのは、宿舎の近くに戻った頃だった。結構遠回りをしたように感じたから、十分近く走ったことになるだろうか。  ほとんど全速力に近い速度で走らされていたから、さすがに息が上がる。虎神族はほんとうに足が速い、と痛感させられた。 「あなたね……、普通に声をかけることくらい、できたでしょう?」 「咄嗟にしちゃったんだ。仕方ないだろう?」 「それで虎神族の速さで駆けられたら、たまりません」  はあ、と大きく息を吐き、ようやく呼吸が整う。  レンはこちらを振り向かない。 「悪かったよ」 「……ちゃんと、顔を見て言ってください」 「…………」 「ちゃんと、顔を見て、言ってください」  繰り返すと、躊躇ったような気配は感じたが、くるりと向き直ってくれた。 「……悪かったよ」  視線が合わない。ばつの悪そうな表情をしているから、本当に悪いことをしたと思っているのかもしれない。 「おまえが、妓楼に熱心だとは思わなくてさ」 「特に熱心というわけではありませんが……今回はうちのお目付役みたいなものでしたし」 「入ろうとしてたじゃないか」  責められるように言われるのは何故だろう。内心で首を傾げつつ、正直に正確な状況を伝えることにした。隠す必要もないことだ。 「あの妓楼で食べられる餅菓子が絶品なんだそうです。食べさせてくれる場所も中にあるというので、案内を受けて食べに行くところだったんですが……」 「餅菓子?」  怪訝そうな顔をするレンにこくりと頷く。 「ええ。半殺しの餡をくるんで……串に刺さっていて、炭火で炙られたものを頂くそうです。秘伝のタレをつけてもいいとかで……シンプルですが美味しそうですよね」 「…………」 「……レン? どうかしましたか?」 「いや……、……ほんとうに、邪魔をして、すまなかった」  先ほどよりよほど素直な謝罪をもらうと、かえって慌ててしまう。 「まだ会議はしばらく続きますし、休息日もあります。その時でも充分ですし……その時は、あなたも一緒に行きますか?」 「オレ?」 「ええ。一族同士は多少仲が悪くても、個人レベルで他の神族もいるような場でなら、そこまで不自然ではない――ような気がします」  それに他の神族の目があるほうが、問題も起こりにくいはずだ。何故ならそれが他の神族に付け入られる隙になるし、虎神族は他の神族に比べて好戦的な面もあり、自然と警戒されている。狼神族だって、縄張りで他神族がいざこざを起こすのは止めたいだろう。  よほどの馬鹿でもない限り、表立って問題を起こすことはない。 「もし何かあっても、その時はいつも通り私のところへ来なさい。私のところにいる間は、あなたの同族に何もさせませんから」 「……っふ」 「レン?」 「ふ、ふふ……ごめんごめん。トキヤがあんまり真面目な顔で言うものだから……また熱烈にオレを口説いてるなと思ってね」 「冗談で言っているわけではありませんよ?」 「だから余計にね……ふふ。トキヤ、きみ、つがいでもできたら大変だね?」  つがい。  つがいは、夫婦や恋人とはまったく異なる関係だ。夫婦や恋人は別れればそれでおしまいだが、つがいは別れない。別れることができない。別れる必要がないくらい、互いしかいない。互いしか要らない。  狭くて濃い関係を築くせいか、執着と、敵と見なした他者への排斥は強い。他の神族の一族を壊滅させたつがいも過去にはいたと聞くが、近年ではそこまで強力なつがいはいない。  夫婦・恋人ほどの数ではないが、ひとつの神族の中につがいが複数存在することは珍しいことではなかったし、つがいは男女だけでなく、女性同士・男性同士も存在した。性別に依らず魂に依るのだろうというのが神族間での共通見解だ。  他人事の例なら、トキヤもいくつか聞いたことがある。  たとえば、次期族長に強引に連れられていく妓楼の、琴の名手。たまたま遠方から出て社会見学をしていた名士の娘と惹かれ合い、決まりかけていた妓女の縁談を破談にさせたと聞いた。  別の話では、すでに妻のいる男につがいができ、刃傷沙汰にでもなるかと思われたが、三人で仲良く暮らしている話も聞いた。こちらは平和だ。  他にも他神族の話を含めれば、両手両足では足らないほどには聞く話。  共通しているのは、どれも【同族同士である】ということだ。たとえば、龍神族同士ならつがいは成立するが、熊神族と狼神族の間では発生しない。 「…………」  何故だろう。胸に、細い針で刺したような痛み。病気、ではない。脈は正常だ。でも呼吸は少し苦しいような気がする。 「トキヤ? 難しい顔をして、どうかした?」 「いえ、なんでも。……宿舎の近くにも、良い喫茶店があると聞きました。一緒にそちらへ行ってみませんか」  気を取り直して問いかけると、レンは「いいね」と微笑む。 「饅頭があるといいな。おチビの饅頭とどちらが美味しいか、食べ比べるのも楽しそうだ」 「翔が作るものほどの饅頭は、なかなか出会えないと思いますよ」 「それは、親バカみたいなものじゃないかな……」 「では、あなたは翔が作る以上の饅頭を、食べたことがあると?」 「……ないけど。これからのことは、わからないじゃないか」  そんなに真剣にならなくても、と宥められ、それもそうかと思い直した。  会議は若干の不穏がありつつも順調に進んだ。  期間は大雑把に一ヶ月ほど設けられており、それより早く済むこともあれば、時間がかかることもある。今回は多少早く済むのではないかと思われていた。 「俺、つがいならトキヤがいいな〜」 「絶対に御免です」  呑気な声を一刀両断する。ひどい、と笑っているのは、否定されるのを見越してはいたのだろう。  相手は、龍神族の次期族長だ。名を音也という。 「トキヤならかっこいいし綺麗だし強いし……」 「あなたは手がかかるし突拍子もないですし無理無茶を言い出すし突然消えますしいきなり問題を起こして解決を押し付けてきますし私の心労が留まるところを知らないのでイヤです」  一息に断れば、でも、と返される。 「つがいだったら関係ないじゃん。なんて言われても引き剥がされないし……運命なんだからさ」 「あなたと私がつがいの運命だったら、とっくに決まってるはずでしょう。学校から一緒なんですから」  ある一定の年齢に達すれば通うことになる学校では、勉強の他、行儀礼儀作法も叩き込まれる。トキヤのほうがわずかに年上だったので先に通っていたが、いくつか開校されている学校のうち、トキヤが通っていた学校に彼も入学した。  年上の学生は年下の学生の面倒を見る風習があり、トキヤも何人かの後輩の面倒を見てきたが、彼は手がかかる面も多かった。 「そうなんだよね。つがいだったら、出会って間もない段階で……っていうのがお約束みたいだし」 「人によっては出会ったその時からのようですね。ですから、私とあなたがつがいである可能性はありませんよ、音也」 「ちぇ〜〜〜〜」  面白くなさそうに口を尖らせ、卓に両腕を投げ出した。子どものような仕草をよくする。 「あまり手がかかるようでしたら、また叩きのめしますか? そもそも、ここの妓楼にお気に入りの妓女もできたでしょう」 「うん。ちょっと人見知りの妓女だったんだけど……慣れてくれたらすごく可愛くてさ。狼神族の中の小犬族だって言ってたかな。君みたいに可愛い子ばっかりなの? って訊いたら照れるところがまた可愛くて……」 「惚気は結構です。会議が終わるまで、せいぜい楽しんでください。くれぐれも、花街では問題を起こさないでくださいよ」 「はーい。わかってるよ」 「楽しそうで何よりですけどね」  音也が退屈している時のほうが何倍も恐ろしい。何をしでかすかわからないからだ。わざとらしい溜息を吐くと、音也はまた、子どものように口を尖らせる。 「トキヤだって楽しそうにしてるって聞いてるけど? 虎神の美人と仲良くしてるって噂、聞いてるよ」 「…………」  思いがけない反撃に咄嗟に返す言葉も浮かばず、ぐ、と詰まる。  特に隠してもいなかったが、龍神と虎神の冷え気味な関係を思えば、目立つことは否めない。特に族長や重鎮たちから何かを言われたこともないので気にせずにいたが、やはり目立つのだろうか。 「トキヤなんて俺とか同期にはそうでもないけど、他のヤツにはけっこう冷たいのにさ。あと、虎神のほうは立場が微妙だから、余計に目立つみたい。なんで仲良くなったの?」 「怪我をしているのを助けただけです」 「えっ……」 「なんですか、その反応」 「だって……おまえ、俺が怪我しても絶対助けてくれないじゃん……」  信じられない話を聞いた顔で言われると、反論のひとつは浮かぶ。 「さすがに瀕死なら助けますよ、同族として」 「瀕死になるまで助けてくれないってことだよね!?」 「まずそんな怪我を負わないでしょう、あなたは強いんですから」 「そうかもしれないけど……うう、ショック……」 「あちらも、瀕死でしたので」 「……なるほど……?」  それならわかるような、でも他族なのに、となおもぶつぶつ呟く音也を引っ張る。 「ほら。遅れますよ。今日はあなたも会議に出席するんでしょう」  次代の族長同士も顔を合わせようという名目だ。もっとも和やか、ほんわかしたような場になるわけがなく、自分の一族の長になる者がどれだけ優れているかを自慢する場にもなっている。  もちろん、和やか同士の神族もあるのだが。音也が尾をふるりと振るわせる。トキヤが何を言いたいかはわかっているようだ。 「虎神の跡取りは、黒虎なんだよね。前に顔だけ合わせたことあるけど、トキヤみたいなタイプの美形だったな」 「はいはい、じゃあそれを楽しみに行ってらっしゃい。たしか馬神族の次期族長は穏やかな美少女だと聞いてますよ」 「え! 女の子なの!?」 「亜麻色の髪が麗しい、小柄でかわいらしい方だそうですよ。女性を待たせるのは男の名折れでしょう。行ってらっしゃい」 「行ってきまーす!」  いきなり上機嫌になった音也が廊下を曲がるまで見送ると、はぁ、と大袈裟な溜息を吐く。まったく手のかかる男だ。憎めないあたりが彼のいいところなのだろうけれど。それが対外的にも発揮されてくれればありがたいが、虎神に対してはどう出るのか。  虎神族の次期族長は、現族長とタイプが違っておとなしいと聞くが、それが本当なのかはわからない。隙は見せないに越したことはないが、最初から悪印象を抱くよりは印象が悪くないほうがいい。  気を取り直して踵を返すと、廊下の向こう、角のほうから誰かがやってくる。姿を見る前から、彼だろうとわかった。彼の周囲には誰もいないようだ。 「レン」  すぐに見えた姿に呼びかけると、彼は驚いた顔をした。 「トキヤか。誰かいるなとは思ったけど」  長めの髪を半分だけ上げて結わえ、花をあしらった櫛を挿している。トキヤ同様、膝ほどまである長めの袖は公式の場で着る上衣。会議に出席しなくても、高位の者は略式の礼装を求められていた。レンもそうなのだろう。  幅の広い襟や袖には、ぐるりと花やツタ、葉や何重かになった円が錦糸で彩られている。沓は黒、こちらは橙色の糸で幾何学模様が描かれていた。長く垂らされた腰帯も、黒地で橙の刺繍だ。 「……トキヤ?」  思わず上から下までじっくり眺めてしまっていた。我にかえると「すみません」と一言謝罪する。 「あなたが格好良かったので、つい見蕩れてしまいました」 「……普通そういうことは女性に言うんじゃないかな?」 「そういう縁のある女性もいませんから」 「こんなにいい男を捕まえられないなんてね……」 「今はあなたといるほうがよほど有意義なので」  さらりと言えば、レンは苦笑する。 「嬉しいけど。虎神族にそんなこと言うの、おまえくらいじゃないか?」 「他の者たちが、あなたと私ほど個人レベルの付き合いがないせいもあると思いますけど……」  それに誰といて有意義なのかは、本人が決めることだ。自分はレンといて有意義だが、レンにとってはそうではないのだろうか。 「いや……そんなことはないけど……」 「誰かと思えば、レンと龍神族の次期宰相じゃないか」  かけられた声に、レンが振り返る。トキヤも声のほうを見た。  地味な顔を下卑た笑みで彩った、胸糞悪そうな若い男。痩せぎすのひょろりと背が高い、同じような笑みを浮かべた気味の悪い男。もうひとりが声の主らしい、体格ががっちりした、吹き出物の多いニヤついた下品な男。たぶんトキヤやレンよりいくらか年上だろう。  男たちの姿や気配に、どこか見覚えがあるような気がした。  彼らは少なくともトキヤよりは下位官らしく、衣服の装飾もトキヤやレンに比べれば簡素で、袖も短く、全体的に灰色かかっていた。 「他族の高官に擦り寄って、一族から抜け出る気か?」 「いやいや、たぶらかして言いなりにさせて、虎神族での地位を上げようとしているのかもしれんぞ」 「芸妓の子ができるのは、所詮その程度か」 「腕っ節も貧弱で逃げ回っているようではなあ」 「宰相どのも、血を分けた息子の出来が良いのが顔だけではなあ」 「何故大事な会議に芸妓の子など連れてきたのか……」 「次期族長のお気に入りだからではないか?」 「まさか、そちらも誑かしているのか」  自分が相手より優位だと確信している者の慢心や相手への侮辱ほど、醜いものはない。他族が同じ場にいるのに、考えなしだ。言っていることも龍神族に喧嘩を売っている。虎神族が愚かだという印象を植え付けたいのであれば、大成功だ。  レンは表情の一切を消し、ただ三人を見ているだけのように見えた。 「…………」  もしかして、日頃からこんな言葉を投げつけられているのか。だから頻繁にトキヤの許を訪れるのだろうか。  トキヤの身の内に激しい炎が湧きあがる。  レンは決して愚かではない。会話や、トキヤや翔に投げかける揶揄いには、古典の引用や応用までもあった。一度トキヤが崩した書籍の山も、直してくれた時の分類は体系立ててあり、わかりやすかった。  会話をしていれば頭の回転が速いことはすぐわかる。だから、この沈黙も考えがあってのことだろう。おそらくは、父である宰相のことを彼なりに慮って。  醜い。  目の前の男たちに憎悪した。  憎悪はすぐに形になる。トキヤが意識するより速い。 「ぐぁ……ッ?!」 「……う……ッ」 「ッご……!」  次の瞬間には、三人の男たちはものすごい音を立てて壁に頭を打ち付けていた。  驚いたのはレンだ。目を見開いてトキヤを見つめる。 「と、トキヤ……?!」  龍神族の尾は長い。少なくとも虎神族よりは長く、半透明のヒレや陽を受けて輝く鱗は見た目の優美さもあり、他神族から賞賛されることも少なくない。  トキヤの黒曜石のように艶やかな鱗に彩られた尾は、尾の長い龍神族の中でもさらに長いほうだ。ヒレは真珠のような光沢、蛋白石のようなきらめきで、同じ黒龍の中でも最も優美だと羨望や賞賛を受けるほどの美しさがあった。どんなにトキヤのことを悪く言う者がいても、尾のことで貶す者はひとりもいない。  その尾で、力一杯、男たちの横顔を殴り飛ばしたのだ。全力で殴ったがゆえに、男たちは壁に激突し、頭を打ち付けたので気絶した。 「おまえ、尾で殴るとか……意味わかってる……?!」  慌てたのは傍で見ていたレンだ。  同族の中でも、相手を尾で殴る行為は喧嘩の開始を告げる鐘だ。それが他神族ともなれば。 「ええ。わかっていますよ」 「決闘になるってわかってて殴るやつがあるか!!」  動転したレンの声も、殴った後では今さらだ。  音を聞きつけた狼神族の者たちがやってくるのは、それから数秒後のことだった。
>>> go back    >>> next