01 龍のトキヤと虎のレン

「あなたも、懲りるという言葉を知って欲しいですね」  はぁ、とトキヤが溜息を吐く。ひと抱えほどの木の幹に背を預けて座り込んでいたレンが、トキヤの声に顔を上げてにこりと笑んだ。 「来てくれると思ったよ」 「だからといって、確信的な無茶をしないでください」  レンの前に膝を折ると、右足の足首に触れる。大きな牙で噛まれたような傷。血を流していたその場所に、懐から手巾を二枚取り出すと、片方を傷口に当て、片方を細く裂き、包帯代わりにした。すぐに薄らと血が滲む。  深い傷なのは一目見ればわかった。立ち上がれるにしても、歩くのは難しいだろう。けれど、この虎は平然と強がるに違いなかった。  右手をひと払いして、あたりに落ちた血痕を払う。血を頼りに追ってくることはできなくなったはずだ。匂いもついでに散らしておけば、もうわからないだろう。 「しっかりしがみついていてください」 「え」  左腕をレンの膝裏に差し込み、右手で背を支えると立ち上がる。 「ちょっ……」 「暴れないでください、怪我人なんですから」 「この運び方はどういうこと?!」 「他に適切な運び方を知りませんので。……ほら、あまり暴れると落ちますよ」  わざと身体を揺らしてやると、レンは渋々とした様子でおとなしくなり、トキヤの首に腕を回してくれる。  抱き上げてから気付いたこともあったが、ひとまず安全で清潔な場所に運ぶのが先だ。溜息を押し殺すと、旋風を巻き起こした。  移動は瞬きの間に成される。  幸いと言うのか、レンが動けなくなっていたのはトキヤの目が及ぶ範囲――縄張りの中だった。だからすぐに異常に気付けたし、場所を把握するのも早かった。  それをわかっていて、レンはトキヤの縄張りまで来ていたに違いないのだけれど。 「……これ、不味いんだけど」 「…………」 「…………わかったよ」  トキヤの無言の圧に溜息を吐くと、ぐい呑み杯を満たす薬湯を一息に飲み干す。たいがいの料理を美味しいと言って食べるレンが不味いと評するそれは、常人が飲んでもたいそう不味い代物だが、怪我をして弱った身体を癒す薬としての効果は高い。  飲み干された杯を避けると、トキヤは代わりに三鼎の杯を置いた。酒壺と、長い首の水差しも、申し訳程度に用意されている。焼いた骨付きの鹿肉を中心にした料理を盛った皿も置く。 「いいのかい?」 「悪かったら食べさせません。狩りの途中だったのでしょう?」 「うん」  頂きます、と行儀良く手を合わせてからレンは食事に手を着ける。机の向かいで、トキヤはレンの食事を眺めた。 「……懲りませんね、あなたを狙う馬鹿たちも」 「意外と口が悪いよね、トキヤ」  ふと笑んで、鹿肉を骨から食いちぎる。口の隙間から見える鋭い牙に、トキヤが傷付けられたことはない。 「誰がそうさせていると思っているのですか。……表立って争うことは、したくないのですが」 「止したほうがいいね。将来を嘱望されている龍が手を出せば、うちのトップも黙っちゃいないさ。……ま、それが目的のひとつかもしれないけどね」  レンの指摘はおそらく正しい。  そもそもレンを傷付ける連中は、初めは虎神直系一族の前族長の庶子であるレンを痛めつけるのが目的だったようだが、たまたまトキヤがレンを助けてしまったがために、龍神族へ因縁を付けたい連中の的になってしまった。  そのことも、トキヤの胸や頭を痛める要因だ。  かといって、助けなければ良かったと思ったことは、一度もない。 「ねえ」  物思いにふけりかけたところで、レンの手がトキヤの頬を捉える。彼はいつの間にかトキヤの横に立っていた。間近に見えた顔は悪戯な笑みを口許に浮かべている。見蕩れていると口付けられた。 「……食欲は満たされましたか?」 「ん。美味しかったよ」 「今度は私が食べていいと?」 「迎えに来てくれたしね。お礼だよ」 「お礼だけ?」 「……意地が悪いことを訊くね? おまえに食べられたいんだよ」 「美味しく頂きましょう」  残さないでね、と首に腕を回すレンを抱き上げて寝台へ連れて行く。当然だ、わずかも残すつもりはない。  雨が降っていた。  独り言くらいなら、きっと流されて消えてしまうくらい、多くの水滴は木々や葉や地を打ち、家々の屋根や壁や窓を叩いていた。  その日、トキヤは十日ぶりの休日を読書で満喫していた。雨の音さえ意識の外、耳には入っていない。  熱中していた意識を引き戻したのは、違和感と不快感だ。 「……邪魔を……」  トキヤの都合を考えずに押しかけてくる男に心当たりはあるが、それならすぐに住居の門を叩いてくる。けれど少し待ってもそれがない。では、別の誰かだ。  誰だ?  一族の者であれば、トキヤの立場を理解しているから、縄張りに無断で入る真似は――あの男以外は、しない。  トキヤはあの男、次期族長に気に入られており、現在の族長の補佐もしているから、何かあれば族長までいい顔をしないことは知られている。まだ若いトキヤが重用されていることを苦々しく思っている者たちもいるが、だからといって正面から喧嘩を売ってくるような愚か者もいなかった。 「……仕方ない」  誰が踏み入ったのか興味はないが、縄張りを荒らされたのを放置したとあっては、トキヤの沽券にも、一族の沽券にも関わる。  寝台から下りると、簡単に身支度を調える。  水に親しむ一族ゆえに、雨の中でも濡れるということはない。もちろん濡れるのが好きな者もいるが、トキヤはあまり好まなかった。 「……あちらでしょうか」  気配を辿り、森の中を歩く。一幅の絵画のように、トキヤの纏う黒絹は、長い袖を靡かせて道なき木々の隙間を縫っていく。  ふと、足下に転々と朱が雨に滲んでいるのに気付いた。縄張りのほとんど端のあたりだ。それと、雨の合間を縫って聞こえる、何人かの男の声。  相手が人間であるなら惑わせて人里に戻すことは容易い。  様子を窺えば、何人かがひとりを探している気配だ。ちらりと見えた姿は、耳と尾に縞がある。虎の者たちだとすぐにわかった。  相手が何者なのかは理解できたが、他族が何故他族の縄張りを犯すのか。静けさと平穏を好むトキヤにしてみれば、それだけで重罪だと思える。 「私の縄張りで、何をしているんですか」  姿を現し、男たちに問う。  虎の一族であるなら、周囲の音や気配に敏感なはずだが、トキヤの存在には気付かなかったらしい。トキヤの姿を見止めると、すぐに後ずさった。 「一族同士の問題にしたくないのなら、さっさと消えなさい。他族の縄張りに侵入したらどうなるか、知らないわけではないでしょう」  低く不機嫌に脅しをかければ、男たちは存外あっさりと身を翻してその場から走り去っていった。 「まったく……、……ん?」  溜息を吐きかけたが、ふと足下の血痕が、先ほどの男たちとは別の方向に伸びていることに気付いた。  まだ誰かいるということか。  今度こそ溜息を吐くと、血痕が点々と落ちている方向の気配を探る。どうやらひとりきりのようだ。じっとして動かないのは、こちらの出方を窺っているのだろうか。  近寄ると、血の臭いが濃くなった気がした。 「……警戒しなくても、食べたりしませんよ。私はどちらかといえば草食なので」  ここか、と思った木には、誰の姿も見えない。ちらりと見上げた。 「怪我人を今すぐここから追い出すこともしません。……この後にあなたが先ほどの連中に殺されでもしたら、寝覚めが悪いですからね」  少しの沈黙。それからガサリと枝葉が揺れ、目の前に男が下りて――いや、落ちてきた。 「いきなり落ちてこないで……」  言葉を切ったのは、男が気絶しているらしいことに気付いたからだ。腹のあたりが血に塗れている。深手なのかもしれない。  行き倒れた男を見捨てることもできず、トキヤは彼を抱え上げた。長い髪が顔を隠し、顔は見えない。  青灰色の衣は質素だが、悪くない生地だ。襟の刺繍は橙で、おそらく絹糸だろう。黒の沓にも刺繍が施され、模様からおそらく虎の一族でも直系に近いところにいる人間だろうと窺える。  そんな男が何故、無頼漢に――いや、考えるのは止めておく。異種族の、面倒なことに巻き込まれたくはない。  家に戻ると、すぐに翔がやってきた。彼はトキヤの乳兄弟だ。トキヤがひとりでいると身の回りのことに気をかけなさすぎることを憂いた乳母が、半ば強引に自分の息子を従者として傍に置かせている。  年下だが面倒見がよく、心根も優しくて度量の広い彼は、乳母の期待通りにトキヤの世話を焼く毎日だ。 「おかえり。帰ったらいないから、どうしたのかと……って、それ、どうした?」  トキヤが抱えている男に気付いた翔が、目を丸くする。 「破落戸に襲われていたようです。馬鹿は追い払いましたが……目の前で気絶されたので」 「へえ……珍しい。怪我してるなら、まずそっちをなんとかしないとな。客間の寝台に寝かせろよ。そんでおまえは着替えな。俺はひとまず湯を沸かすから」 「わかりました」  トキヤも看病できないわけではないが、こういったことは翔のほうが手慣れている。森で怪我をした動物たちの世話も焼いて回っているからだ。  家――一般的にちょっとした『屋敷』と言われる程度に広い家の、奥の区画に設えた部屋を使うことはあまりないが、あって良かったと思う機会もたまにはあった。今日もその中に入る。  寝台に男を寝かせると、ひとまず怪我を負っているらしい上半身の衣服を剥ぐ。清潔な布も用意し、沸くまでの間に衣服の汚れをすっかり払ってしまった。 「湯、持って来たぞ」  翔は炎龍の一族の血も引く。だから火を扱うのが上手く、料理に才がある。湯を沸かすのも早かった。  少し熱い湯に布を浸し、絞ってから男の顔や身体を拭いてやる。濡れた髪を払い、額や頬を拭いて、この男がひどくきれいな顔をしていることに気付いた。 「トキヤ?」 「……なんでもありません」  翔の声に我に返ると、傷口付近まできれいに拭う。  腹は、大きな獣の爪で掻かれたように裂けていた。かなり深い。 「生きてるのが奇跡みてーな傷だな……」 「生命力が強いのでしょう。とはいえ、ここまでひどいと内臓にも傷があるかもしれません。塗り薬だけでは足りるかどうか」 「おまえの塗り薬でも? 薬湯は?」 「もちろん、普通の塗り薬や薬湯に比べれば相当マシですよ?」  トキヤが作る傷薬は特製だ。知識の限りを詰め込み、様々な動物たちによって効果を試し、効果は十倍くらいは違うだろう。薬湯の効果も同様。こちらの実験台は主に翔だが。  効果が薄かろうとなんだろうと、薬をべったりと厚く塗った布を傷に当て、包帯で巻く。ぼろぼろになった服は下も着替えさせた。トキヤが昔着ていたものだが、上衣はともかく下衣はややサイズが合わない。巻脚絆を着けるなら気にならないかとそのままにした。  髪も洗っておいてやろうと、櫛で汚れを払うように梳く。 「おまえがそんなに面倒見がいいとは思わなかった」 「……面倒見がいい?」 「もちろん、相手が大怪我してるっていうのもあるだろうけどさ。動物以外には対応冷たいだろ?」 「……そんなつもりはありませんでしたが」 「明日、槍でも降るんじゃないか?」 「失礼ですね……」 「悪い悪い」  ちっとも悪いとは思ってない様子で翔が笑う。  失礼な、とは思ったものの、言われてみればその通りかと思い直した。翔や乳母以外の他人は、ことごとく相手をするのが面倒くさい。  なまじ優秀なために、若くして族長に可愛がられて重用されてはいるが、だからといって驕るつもりもない。  時刻を告げる鐘の音。いつもならそろそろ寝台に潜り込む時間だが、客間に寝かせている男のことが気にかかった。  きれいな容貌をしていた。目を閉じてはいたが、造形は晒されていたし身体の隅々まで拭き清めたので身体の形まで理解している。トキヤが今までに見てきた人型の生き物の中で、一番うつくしいと思えた。  濃いハチミツ色の長い髪、通った鼻梁の高さ、くちびるの厚み・形、健康的な色の肌、大きな手のひら、長い指の形。  虎族を見るのは初めてではない。  族長に連れられて種族会議に出た折、虎の王には会った。垣間見たというのが正解かもしれないが。かの王は、重厚な雰囲気と厳しい顔をしており、いかにも一族を担っている雰囲気があった。その息子だという青年は、穏やかで知性的なうつくしさがあったが、彼ともまた違う。  この青年は、繊細や、線の細いうつくしさというわけではない。どちらかといえば芯の通った強靱さとしなやかさを合わせた若竹ようなうつくしさだろうか。  蝋燭の明かりの下、青年の顔色はあまり良くない。  ちらりと、自分が持っている手のひらサイズの小さな瓶に視線を落とした。これは、つい最近調合した薬だ。塗り薬ではなく、飲み薬。いま飲ませても、飲み下すこともできないかもしれない。 「……仕方ないですね」  早く治ってもらうためには必要なことだ。  誰にともなく言い訳をすると、眠っている男の肩に腕を回し、上体を起こさせる。  瓶の口を開けると、自分の口に含む。それから、男の形の良いくちびるとくちびるを触れ合わせると、歯を開かせ、あわいに舌を滑り込ませる。伝わせるように、ゆっくりと薬を移す。 「…………ン……」  男の喉が上下に動き、飲ませることに成功する。すっかり瓶をカラにするまで飲ませると、ようやく離れ、濡れたくちびるを拭ってやる。  ひどく苦い、青臭い薬なのに、甘く感じられたのはどういうわけか。 「…………」  考えることではないと切り捨て、男をまた寝台にそっと寝かせる。その瞳の色がどんな色をしているのかは、気になった。
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