「困ったな……」
「困りましたね……」
腕を組んだ翔とトキヤが難しい顔を突き合わせている。ふたりの視線はトキヤの足下、いや脚に注がれていた。
トキヤの右足には、そこにぎゅっと抱きついて離れない小さな子どもがいる。
「どうしてこうなったのか、まったく理解できません」
「まあ、理解できない存在の塊が学園長だったり社長だったりするくらいだから……」
お互いに早乙女のことが頭をよぎる。そう思えば理解はできないが、納得はできる。
それにしても問題は、この幼子のことだ。
「どうします、これ」
「どうしますって言ったって……他の連中や先輩たちにホントのこと言ったって、信じないか面白がるかのどっちかだろ?」
「……そうですね」
面白がる筆頭ふたりが脳裏をよぎり、苦々しく頷く。
「こういうののお約束って、一晩経ったら元に戻ってるってやつだから……がんばってくれよな」
「はぁ?! 私ですか!?」
「しょうがないだろ、おまえの脚から離れないんだし」
「それはそうですが……」
「それに、小さくたってレンだし」
「…………」
再び視線を脚に落とす。ぎゅうっとしがみついたままの幼子が、上向いた。満面の笑みを見せる顔は、控えめに言って天使のようだ。
「ほっとくと変なヤツに攫われるだろうし」
「それは……そうですが……」
「なんかあったら電話かメールくれればいいから」
「…………」
というのが、つい2時間ほど前のできごとだ。
外にいると目立つかもしれない、という理由で、ひとまずトキヤは小さなレンを連れて自分の部屋に戻ってきた。
本来ならトキヤと翔とレンで、ショッピングと食事を楽しむ予定だったのだが、こればかりは仕方ない。
「あなたに罪も非もないのは理解しているのですが……」
どうしてこんなことに。
思ってしまうのは仕方がないと思ってしまうのも、仕方がない。
小さな、おそらく二歳〜三歳と思われるレンは、ソファをよじ登って、今度はトキヤに抱きついてくる。
撮影でもここまで小さな子どもと接する機会はなかなかない。だから扱いに迷うし、レンだと思えばなおさら迷った。
「ああ、ほら……転がり落ちますよ」
腕を回して落ちないようにしてやると、トキヤの脚に座ってご機嫌な笑顔を見せてくれる。
言葉は片言になってしまうようで、それを本人もわかっているのか大きな時の記憶はあるのか、あまり喋ろうとしない。それがいいのかどうかはわからなかったが、少しでも離れると不安そうにするものだから、手の届く範囲にレンを置いておくしかなかった。
抱きついてきたレンがやけにおとなしいな、と思って顔をよく見てみれば、どうやら眠っている。小さい頃からこんなにかわいい、と息を吐くと、抱き直して頭を撫でてやった。
「かわいいですが……早く戻るといいですね……」
スキンシップを取るにも何をするにも、ふにゃふにゃの身体では緊張してしまう。
触れている場所から伝わる体温が、どうにも心地良い。空調の温度は適温を保っているが、温かいレンを抱いていると、なんだか眠気がやってくる気配がある。
昨晩もちゃんと眠っているし、睡眠時間が足りないということはないはずだが――。
「……少しだけ……」
目を閉じるだけだから、と言い訳して、レンを抱いたまま眠りに落ちた。
「……ッチー、イッチー。起きて」
「…………ん……」
ふ、と意識が浮上したことで、トキヤは自分が寝ていたのだと気付いた。今は何時だろう。腕時計を見たところで、ふと違和感に気付いた。
「やっと起きたね、イッチー」
「…………」
顔を上げると、レンがいた。
子どもサイズだ。小学生くらいだろうか。
「……育ちましたね……」
呆然と、それしか言えない。
ぶかぶかのTシャツを着ているレンは、トキヤの前で胸を張る。
「これでちゃんと喋れるのはありがたいよ」
「まあ……先ほどまでに比べれば、そうかもしれませんが」
喋れずカタコトになるレンもたいへん愛らしかったが、言うと拗ねるか怒るかするかもしれないので黙っておく。
ふと、視線を落とす。ぶかぶかのTシャツから覗く脚は、素足だ。
「……レン、下は穿いてますか?」
「サイズが合わなくてね……」
ということは、Tシャツ1枚だけの姿ということか。
「……問題があるのでは?」
「オレには特にないけど……?」
「いえ……、いえ、お腹を冷やすとか色々あるでしょう。私の情緒にも良くありません」
「でもきっとこのペースだと明日には元通りだろうし……それより大事なことがあるよ」
「なんです?」
「……お腹すいた」
大変現実的な「大事なこと」に、トキヤはがくりと項垂れ、小さく溜息を吐いた。あまり思い悩みすぎても良くない。
「…………何か作りましょう」
「オレ、あれ食べたい」
「なんです?」
「うどんで……すごく熱々で……卵が絡んでて、ネギが入ってる」
「……釜玉うどんでしょうか。うどんなら冷凍のものがあるので、いいでしょう。あなたにはそれでも足りないでしょうから、何かおかずも付けましょう」
「やった」
嬉しそうにするレンをチラリと見て、さて冷蔵庫に何があったかと思いを馳せる。
そうでもしなければ、この小さくてかわいいレンを存分に甘やかしてしまいそうだった。きっと、すぐに戻るとわかっているから余計かもしれない。
食事の後は一息ついて、風呂に入ることにした。各自で入ることにしたのは、なんとなくそのほうがいいと思ったからだが、別々に入りましょうと言った時のレンの顔を見て、別々にして良かったと心底から思った。双方合意だとしても、犯罪行為に及ぶわけにはいかない。
普段よりずっと短めに風呂を切り上げると、レンと交代した。まさか風呂の間にまた育ってはいないかと思ったが、それはなかった。ホッとしたような、ガッカリしたような。
「上がったらちゃんと髪を乾かすんですよ」
「はいはい」
返事だけはいつも通りで、ひらりと手を振ってバスルームへ行ってしまう。
そう、姿こそ子供の姿だが、仕草はトキヤがよく知るそれだから、戸惑ってしまう。
何が起こったのかは正直まったくよくわからないが、社長が何事かの魔術を行ったのかもしれない。なにしろ前例があるのだ。そう思えば、目的はともかく無理矢理納得できる。
「レンはレンですね……」
少なくともトキヤを知らない他人と見られるよりはずっとホッとしているが、あんなかわいい生き物が目の前をちょろちょろと動くのは、気がどうにかなりそうだ。
昔、何かの番組でレンの子供の頃の写真を見たが、あんなに可愛かった――いや、可愛かった。可愛かったが、それ以上だとは聞いていない。見ると動くとでは大違いだ。
それが、今のレンのあざとさを持ってトキヤに接してくるのだとしたら、気がおかしくなりそうだ。
少なくとも犯罪者になるつもりはない。
それだけは強く自分に言い聞かせてある。理性が弱すぎるわけでもない。きっとなんとかなる、はずだ。そう思いたい。
レンが余計なことをしなければいいだけだ。
「……イッチー?」
呼びかけられ、肩に触れられてハッと我にかえる。
「あがったよ。イッチーもシャワー浴びておいで」
「え、ええ……行ってきます」
のろのろと立ち上がり、今はまだ少し自分より背の低いレンを見た。
「……少し育ちましたか?」
浴室から出て、髪をドライヤーで乾かしていたレンを後ろから眺めて呟く。
「そう、かな? 自分ではよくわからない」
シャワーを浴びる前は自分より少し小さかったと思うが、今は同じくらいだ。育ったとしか言いようがない。
「この分なら明日には元通りだね。なかなか楽しかったけど」
「こちらは胃を壊すかと思いましたよ……私も髪を乾かしますが、乾かしたら寝ましょう」
「まだ早いんじゃない?」
「早く寝てしまえば明日が来るのが早いでしょう?」
レンは納得しかねる顔をしていたが、この家ではトキヤが王様なのだから、イヤでも従ってもらう。
トキヤが髪を乾かすのを眺めていたレンが、終わると手を繋いで寝室へと誘う。まるで彼の家のようだが、勝手知ったる、というところだ。
「う、わっ?!」
繋いだ手から、ぐるりと遠心力を使うように振り回され――ベッドへ背中から着地した。
「いた、……何をするんですか、いきなり」
トキヤを振り回した本人・レンは実に楽しそうな顔で、トキヤの腰のあたりに馬乗りになっている。悪い予感しかしなかった。
「せっかく久しぶりにイッチーと会ったのに、シない手はないだろう?」
「言っておきますが、犯罪者になるつもりはありませんよ」
「何を、言ってるのかな。明日になれば証拠は残らないよ」
「そういう問題ではなく……」
「たぶん、今は高校入学当初――早乙女学園に入学する前くらいかな。ほんとはもう少し前のオレが良かったけど」
案外イッチーの理性って頑丈だよね?
笑う顔は悪魔のようだ。
「放しなさい」
「ヤダね。イッチーだってこんな珍しいシチュエーション、逃したくないだろう? 犯罪部分はクリアするんだし」
それはそう、たしかにそこを充分懸念していたのは否めない。
「それにオレの同意もあるし。問題はイッチーの理性だけだよ」
「……そう、言われても……」
「単純に考えて。オレと、シたくない?」
「そんなことはありません」
「じゃあ、オレのワガママに付き合って」
顔を寄せてきたレンが、トキヤの頬にキスをする。次いで、くちびるに。
「……そんな子どものキスではその気になりようがありませんが?」
理性の糸を焼き切りながら、挑発的にレンを見つめる。「いいね」と笑うレンも、挑発的な笑み。
「いつ寝かせてもらえるかな」
「あなた次第ですね」
「寝られない可能性もあるって?」
「否定はしません。……挑発したのはあなたですから、文句はいわせませんよ」
「言うもんか」
笑うと、すぐに笑みはトキヤに飲み込まれた。