今年のトキヤの誕生日は、彼の家で祝う。一ヶ月ほど前から決まっていたことだった。
「今年はどんな風に過ごしたいとか、要望はあるかい?」
その要望通りにするかは別にして、とは胸の中にしまっておき、レンは目の前でゆっくりサンドイッチを食べているトキヤに問いかけた。
大声で話すことは憚られる、落ち着いた雰囲気の喫茶店。『カフェ』というより『喫茶店』と表現したほうが、この店にふさわしい。店主も落ち着いた雰囲気の六十過ぎの男性で、カウンター席が少し広め、その分テーブル席は少し少ないかもしれない。そうして店内には猫がいる。しつけられているのか、テーブルに上がることはないが、たまに客の膝の上にはいる。猫を目当てに訪れるリピート客もいるというが、その猫は今、トキヤの隣で丸くなっていた。この猫は雄猫である。
そんな優しい空間だから必然、レンとトキヤの会話も抑えた声で行われていた。
「……そうですね……私の部屋でも構いませんか?」
「イッチーの? 構わないけれど……」
翔が子供の頃、友達を自宅に招いて誕生日パーティーをやったことがある、と言っていたような気がした。祝う相手の家に行くというのも、なんだかそれっぽくていい気がする。
「じゃあ、プレゼントは持って行けるものにしなきゃね」
「身ひとつで来てもらえれば充分なんですが」
「祝いたいって気持ちを無碍にはしないでくれよ?」
「それは、もちろん」
野菜とチーズのサンドイッチの皿をカラにしたトキヤに合わせるように、レンも野菜たっぷりのナポリタンをカラにした。ソースがよく絡んで、甘みがあって美味しい。ここのナポリタンでは辛みを控えめにするのを好んでいる。
頷いたトキヤにホッとした顔を見せる。
「よかった。……実のところ、オレだって楽しみにしてるんだよ」
内緒話をするように言うと、トキヤはくすりと笑う。
「私も、あなたの誕生日の時は同じ気持ちでした」
「ふふ。おそろいみたいだね」
立ち上がった後で伝票をどちらが持って行くかで多少もめたが、そんなやりとりもレンは好きだった。
八月六日。長針と短針がテッペンを回って一周もしない間に、レンはトキヤの部屋にいた。
いくつかのやりとりの後、シャワーを浴びてベッドを共にして。目が覚めた時にはトキヤはいなかった。代わりにキッチンから音がする。もう一度シャワーを浴びてすっきりするにしても、キッチンの隣を通る。当然朝食、いやこの時間だと兼昼食を作っているのだろう。
「マメだよねえ……」
自分の誕生日なのに。
プレゼント以外はほとんど身ひとつで来ていることを棚に上げて、そんな風に思う。いつかは、自分が朝食を作ってもいいか。喜んでくれるだろうか。
ベッドから床に足をつけると、自分が裸だったことに気付く。とはいえシャワーを浴びる前に何かを着るのも面倒だ。裸のままぺたぺたとバスルームへ向かう。
「イッチー、おはよ」
「おはようございます、……何か着たらどうですか」
言われるだろうなと思っていたので朗らかに笑う。
「どうせ脱ぐのに? それより、いい匂いがするね」
「作っておきますから、浴びてきてください。上がった頃にはちょうど食べられますよ。シャツは新しいものを置いてありますから」
「わかったよ」
夜の名残を落とし、髪や肌や顔を洗ってさっぱりする。繭が剥がれたような気がした。目覚めも悪くない。トキヤと一緒に寝て、悪かった時は――ほんの最初の頃だけだ。安心して眠れるから睡眠の質も良い。
肌や髪の手入れを簡単に済ませ、トキヤの部屋に置いていたシャツと下着やグレーベースのタイダイ柄のサルエルパンツを履く。裾がすぼまってフィットしているサルエルは、少しやわらかな素材で、部屋着としてもこのまま外に出てもいい。皆の思う神宮寺レン像とは少し離れているから、良いカモフラージになるはずだ。とはいえ、今日外出するのかはわからないけれど。
トップスはゆるっとした薄茶のチャイナボタンのシャツ。首元から脇のほうまで斜めにボタンで留めていくタイプだ。いっそボトムも合わせればよかったのに、そうしなかったのはなにか意味でもあるのか。そしてこのシャツはレンが買ったものではない。
「祝われるほうがプレゼントしてくれるってどういうことだい……?」
苦笑のひとつも浮かぶのは仕方がない。けれどありがたく貰っておく。
バスルームから出ると、料理のいい香りがした。
「ちょうどいいところに。カップ、持って行ってください」
そう言ってキッチンから差し出すのはトキヤのカップで。彼が持っているのはレン用のカップだ。
互いが飲むカップを、互いが持って行くのがなんだか相手のためっぽくていいね、と話して以来の恒例。受け取ると、リビングダイニングのいつもの席へカップをおく。トキヤもカップを持ってきてレンの前に置き、それからもう一度戻ってプレートを持ってきてくれた。
「ワオ、豪勢だね?」
プレートは、ちょっとしたランチプレートあるいはホテルの朝食と言って差し支えない。
ベビーリーフとサラダ菜、玉ねぎのサラダ。さらりとしたドレッシングは自家製だろう。スープは根菜がたっぷりのコンソメ。パンはさすがに買ってきたものだと思いたいバゲットとロールパン。ジャムは苺と果実の形が残ったマーマレード。スクランブルエッグ、それからおそらくラムチョップ。ソースは香りから察するにバルサミコを使っているか。
「朝から珍しいね?」
「ラム肉を頂いたので……せっかくですから」
「……イッチーも食べるんだ?」
量こそトキヤのほうが少ないが(サラダとスープの量は多い)、肉までちゃんと載せられている。
「朝ですからね。夕食にするよりは抵抗がありません。それに……一緒のほうがいいでしょう?」
澄まし顔で言うが、もちろん嬉しいに決まっている。
「同じものが食べられるのは、すごく嬉しいよ」
「……そんなふうに喜んでくれると思ったからです」
では食べましょう、とトキヤが促すのに頷き、「いただきます」を言ってからフォークを手に取る。まずはサラダから。これはトキヤの真似をしてのことだ。
「ん……ドレッシング、すごくいいね。さっぱりしてるけど、酸っぱすぎなくて……レモンではなさそうだけど」
「すだちとかぼすと、少しだけライムを混ぜました。わりといい味になりましたね」
ベビーリーフはフォークが刺しにくいから、掬うように食べる。苦味は柔らかく、酸味がキツくないドレッシングとの相性は良い。
それから、温かなスープに手を伸ばす。大根、人参、ひよこ豆、レンズ豆、じゃがいも、蓮根に生姜。生姜のおかげでさっぱり食べられて、胡椒を挽けばピリ辛になる。なるほど夏向きか。具が多いのは、なんとなくトキヤらしい。
スクランブルエッグはほんの少し甘い。マヨネーズを入れるといいと聞いた覚えだけはあるが、それが卵料理にどんな効果をもたらすのかまでは忘れてしまった。とにかくこの卵は火の通り加減もふわふわとして好みだし、ケチャップをかけても美味しい。肉と一緒に食べるのも、サラダと一緒に食べるにも向いている。
半ばほど食べたところで、ほう、と息を吐く。箸休めの意味で口をつけたコーヒーは、トキヤが挽いて淹れてくれたものだから、当然美味しい。胃と口中が幸せに満ちていた。
「イッチーはほんとに料理上手だねえ」
「もともとは上手と言われるほどではありませんでしたよ?」
「え? そうだっけ……」
「ひとり暮らしで不自由ない程度にはできていましたが……凝り始めたのは、あなたのお陰です」
「オレ?」
パンを食べようとした手を止めて、小さく首を傾げる。身に覚えはない。けれどトキヤは笑いを堪える顔で答えを教えてくれた。
「美味しそうに食べてくれる人がいれば、その人のために美味しいものを作ろうと思うものでしょう?」
「……なるほど?」
それはつまり、レンのためだと言っているようなものではなかろうか。
たしかに、いわば恋人という名前がついた関係になってから、トキヤの手料理を食べる機会は増えた。初めの頃はねだり倒した記憶もあるようなないような。
けれどそれによって恋人の心持ちを変えることがあるなんて――。
「……何故赤くなるんですか」
「気のせいだよ、オレ肌の色濃いし」
「耳まで赤いようですが?」
「もう! ……たいした男に育ったものだね」
こちらの揶揄に狼狽えていた一ノ瀬トキヤはどこに行ってしまったのか。もはや懐かしさすら感じる。
こんなふうに育ってしまうなんて。
「いつまでもウブではいられないということです。……恋人がいい男なので、並ぶ努力は惜しみませんが」
「……負けず嫌い」
「向上心と言ってください」
「まったく……」
普段ならともかく、こういう話でトキヤの口に勝てたことがない気がする。勝つ気があるのかと問われると、微妙だけれど。
ふかふかとしたパンの食感も楽しみ、マーマレードも載せる。いつだったか、誰だったかが寄越したジャムを思い出すが、すぐに記憶に蓋をする。今度はリンゴのジャムを。甘すぎず、軽い酸味も感じ、果実もそのまま残っているのが良い。
どこのジャムだろう。これなら家でも食べたい。思って瓶を見たが、ラベルは剥がされている。マーマレードのほうは貼られているのに。
「ねえイッチー。もしかして、ジャムもお手製とか……?」
「よくわかりましたね」
「凝りすぎじゃない……?」
「乱暴に言えば、切って少量の水で煮込んで砂糖を入れるだけですから、凝っているというほどでは……」
市販品のリンゴジャムは香料が苦手で、と肩を竦める。そんな理由で手作りしてしまうのはマメだなあとレンは思う。自分ならあれこれ色々なところのリンゴジャムを試すほうに走ると思うからだ。
「これからはこの美味しいジャムが食べられると思うと嬉しいね」
「手作りですから、毎回同じ味になるとは限りませんが……努力はしましょう」
「それも手作りの醍醐味だろう? 楽しみにしているよ」
機嫌良く返し、ロールパンにかぶりつく。少々の行儀の悪さも、トキヤといる時だけだ。トキヤもそれを喜んでくれるものだから、レンもついつい自分に甘くなってしまう。
そろそろプレートもカラになり、小さく息をついてコーヒーを一口。外のカフェのコーヒーも美味しいが、トキヤのコーヒーはまた特別なコーヒーだ。
「おかわりはいかがです?」
「……誰の誕生日か忘れてないかい? 貰うけど。オレからのプレゼントも、受け取ってくれるね?」
「もちろんです」
「じゃあ、飲みきった後にね」
「はい」
トキヤの機嫌が良さそうなのを見て、レンも嬉しくなる。恋人を幸せにできるなら、これ以上のことはない。
持ってきた包みの中身を思い出してからトキヤを見る。どんな反応を見せてくれるのか、楽しみだ。
こうして誕生日はほのぼのと始まり、隙あらばいちゃいちゃと触れ合い、過ぎていくのだった。