「ねえイッチー、来週の水木は休みだろう?」
レンがそんなことを言い出す時はだいたい何かある時だ。けれど何があるのか見当もつかないので、大人しく頷いておく。腕を伸ばしてきたレンに、頬を撫でられた。
「良かった。じゃあ、オレのために空けておいてくれるかい?」
なんでそんなに可愛らしく聞いてくるんですかと問いたかったが、ぐっと我慢して頷いた。
「わかりました」
「良かった。これで来週まで仕事を頑張れるね」
「楽しみにしていますよ」
何を企んでいるのか、いま訊くより来週を楽しみに待っていたほうがいいだろう。自分のためでもあるし、驚かせるのが好きなレンらしくもある。
安心したらしいレンが小さく欠伸をする。抱き寄せて、優しく頭と背を撫でる。レンは絶対に認めないだろうが、こんなふうに撫でられながら眠るのが好きらしいとは、なんとなくトキヤは知っている。訊いても認めないだろうし、トキヤの勝手な思い込みかもしれない。けれど互いの熱を分け合って寝落ちる前には、いっそう優しくしたいという気持ちが届いているようで嬉しく思っているのだ。
レンの寝息が穏やかに、一定のリズムになってもしばらく撫でて。腕に抱いた愛しいひとの温かさに惹かれるように、トキヤも眠りに落ちた。
そうしてやってきた休み前、火曜日の夜。
その日最後の仕事はラジオの収録だったのだが、レンはわざわざ車で迎えにきてくれた。十八時頃のことだ。
「車で来たけどね、これは駅までだから」
「駅?」
「そう。電車に乗ろうと思って」
「電車……?」
車はレンタカーだから駅の支店に返せばいいんだって、とトキヤが聞きたいことと微妙にズレたことを教えてくれて、トキヤは要領を得ないままレンが乗ってきた車の助手席に乗り込む。
鼻歌でも歌い出しそうなレンが音楽をかける。これはレンのスマホのプレイリストだ。歌のない、おそらくゲームのBGM集か。
「それで、行き先は教えてもらえるんですか?」
「後で切符を渡すからね。それで行き先はわかるよね」
「……駅名だけなら、まぁ……?」
トキヤは首を捻る。
その先は内緒、ということだろうか。ということは土地というより、目的地自体を内緒にしたい、のかもしれない。あまり詮索すると野暮になるか、楽しみが半減するかもしれないと思うと、それ以上の追及は止めておいた。レンの画策することが悪いことだとは思えないし、驚きも含めて楽しんで欲しいのだろうと思う。
昔ならどこに連れて行かれるのか、不安しかなかったとは思うが、驚かせて喜ばせるのが好きな男が、悪いことを考えるはずがない。
駅についてレンタカーを返すと、切符を渡された。
が。
肝心の切符に、駅名は書かれていない。
「……なんだか騙された気分ですが?」
「新幹線と違って、行き先までは表示されないものなんだねえ……」
知らなかったらしいレンが心の底から感心したように自分の切符を見ている。それからハッとしたようにトキヤの手を掴んだ。
「こっちだよ。お弁当を買っていくから」
「お弁当? 駅弁ですか?」
「そう。美味しいって評判の駅弁があるらしくてね」
改札を何年振りかで切符でくぐり(下りる時は忘れそうだなと思いながら)、レンが場所を把握しているらしい弁当屋に寄ってからホームへと連れて行かれる。
「……宇都宮線?」
あまり馴染みのない路線だ。北のほうに向かうのだなということはわかる。
宇都宮ということは栃木だ。けれど、と先ほど渡された切符の券面を思い出す。金額表示では三千円以上あった。JRは距離賃だから、手近なわかりやすい駅同士との運賃を考えると、割高すぎる。
では、宇都宮が最終目的地ではない。
「イッチー、難しい顔してないで。ほら、乗るよ」
急かされて慌てて意識を引き戻す。レンに引かれるまま順番に車両に乗り込み、車両の端の方の席、ボックス席(クロスシートというのだとは後で知った)に座る。時間が時間だから混雑し始めていて、一応目立たない格好をしてはいるものの、一緒にいる相手はレンだからどうなるかとひやひやしたが、自分とレンのそれぞれ隣に座った初老のサラリーマンはこちらに関心がないようで、ホッとした。
もちろん話し声でバレることも考えれば、目の前にいる相手とはSNS経由で話すという滑稽なことになる。
ーー一応聞きますが、どこで下りるんですか?
ーー二回乗り換えるよ。どちらも終点まで。この電車の終点までは二時間近くかかるから、それまで寝てても大丈夫だよ。
終点なら、たしかに乗り過ごす心配もない。とはいえ今日は朝早かったわけでもなく、と思って正面のレンを見れば、窓の外をじっと見つめている。その瞳がどこか輝いているように見えるのは気のせいではあるまい。
夏だから、この時間でもまだ外は明るい。車窓の眺めは、都心から離れるにつれ、彼には興味深いものになるようだ。
これがもっとずっと小さい子供だったら、窓に張り付くようにして外を眺めていたのだろう。なんとなくその様が想像できて、笑いを堪えるのが少し大変だった。番組の企画か何かでレンの子供の頃の写真を見たことがある。控えめに言わなくても天使だった。あの天使が窓の外を一生懸命眺めていたら、……いや、何をしてもかわいかった。考える必要なんてなかった。
ふるりと手の中のスマートフォンが震える。目の前の男からのメッセージの着信。
ーーにやにやしてるんじゃないよ。何を考えていたんだい?
「…………」
マスクまでしているのに、まさかバレるとは。五秒ほど反省した。次はバレないようにしよう。
「……まさか合計三時間以上電車に揺られるとは思いませんでしたよ……」
伸びをすると、首や腰がごきりと鳴った気がする。少し体を動かして、固まった筋などを動かした。
それにしても、と頭上を見上げる。駅名を記した看板は『新白河』だ。記憶に間違いがなければ福島県ではなかろうか。一抹の不安がよぎる。
「お疲れ様、イッチー」
「レン。……ひとつ訊きますが、ここからどうやって家まで帰るつもりですか」
「帰らないよ?」
こともなげに、明瞭な返事が返される。二回目に乗り換えた時から、なんとなくそんな気はしていた。
「……泊まるのはこのあたりですか?」
「いや、もう少しかかるよ。お迎えが来てくれる手筈になっているんだけれど……ああ、いたいた」
こちらの追及をそれ以上は許さない、というよりは聞いていない様子で、レンが一台の車から降りてきた人に手を振る。
「遅い時間に、ありがとうございます。よろしくお願いします」
「……よろしくお願いします」
何がなんだかわからないが、かろうじてそれだけ言ってぺこりとお辞儀をする。ようは、目的地まではこの人物が目的地まで送ってくれるということだろう。
そうして車に乗り込みーー次に降りたのは、約一時間後だった。
「お疲れ様、イッチー」
同じ台詞を一時間前にも聞いた気がする、と思いつつ、トキヤもまた体をうんと伸ばす。途中でちょっと寝落ちたせいで、現在地がまったくわからない。周囲は真っ暗で、どうやら山の中のようだ、ということだけわかった。何かの音がするのは、もしかして川が流れているのだろうか。
「ようやく……到着ですか?」
「うん、到着したよ。ほらほら、ちゃんと目を覚まして。こっちだよ」
こっち、とレンに手を引かれて連れて行かれた場所で、目を瞠る。
森の中、開けた場所に広いウッドデッキがあり、その上にはいつかテレビで観たような、遊牧民族の移動式居住のような円形の、パオとかゲルとか呼ばれるものに近いものが鎮座している。開かれた入口の奥は暖かい色のライトで照らされて、ベッドの他に床にクッションがいくつも置かれていた。
「これは……グランピング?」
「そう、当たり。まずは中に入ろう?」
「え、ええ……」
呆然としつつ、またレンに手を引かれて中へ入る。入口を入ったところで幕を引き、さりげなくドアになっているらしく鍵をかけて。中に入れば左右にあるベッド側の壁は窓になっていて、カーテンも引ける。
そうして天井はなくてーーないわけはない。透明だった。夜空がよく見える。
「…………」
「イッキとおチビちゃんが以前、休みの時にふたりでグランピングに行ったって言っててね。すごく楽しそうに話すから、羨ましくて……」
なるべく近場の良さそうなところを探したよ、と照れたように言う。これをわざわざ一週間以上前から画策して、楽しみにしてくれていたのなら。この人はなんてかわいい人なのだろう。
トキヤはしみじみとレンの可愛さについて噛み締めると、ぎゅう、と抱きしめた。
「ありがとうございます。……すごく環境もいいですね?」
「うん。今日は晩ご飯は食べてきちゃったけど、明日の朝ご飯から晩ご飯も、ちょっと期待してるんだよね」
「期待? 何かあるんですか?」
「夜はね、もちろんバーベキューになるんだけど。朝昼も、地元の魚や山菜、野菜を使ったものを出してくれるんだって」
本当なら朝昼は外で食べるのかもしれないが、食材はひとまず用意してくれるのだとレンは教えてくれる。
食材は。
そこが引っかかった。
「……つまり、私に料理しろと?」
「オレがするよりイッチーに任せたほうが危なくないし、単純に美味しいからね」
しれっと答えるあたり、そこは織り込み済みだったのだろう。
まったく、この人は。
「……まぁいいでしょう。ですが、着替えなどはどうすれば?」
仕事終わりに拉致られたも同然で、スキンケア用品も服の替えも用意していない。
が、そこでレンが手ぬかりするはずがなかった。
「もちろん、一式用意しているよ」
そこ、とベッドのそばに置かれたバッグを指差す。中を確かめてみれば、下着から何から本当に全部入っている。化粧水や保湿の類もだ。
「……本当にこういうところに気が回りますよね」
「兄貴がどうせなら試供品を使って欲しいって。感想を聞きたいらしいよ」
そういうのはオレよりイッチーが向いてるから、と少し素っ気なくレンは言う。相変わらず神宮寺兄弟は不器用らしい、と思うと少しおかしい。こんな大きな瓶に入った試供品があるものか。あるなら製品はどんな大きさだというのか。
苦笑しつつ頷いた。そういうところはわかっているのか、本当に気付いていないのかはわからないが、気付いていないのならレンが自分で気付かなければ意味はないだろう。
「どうしたんだい?」
「いえ……、そういえばここの施設はいくつのテントがあるんですか?」
どのくらいの広さがあるのかもわからないが、いま外にいた限りでは他のテントの明かりは見えなかった、と思う。入口などの角度を変えているにしても、広さは相当あるのではないか。問いかけると、レンは少し困った顔をする。
「十か十五か、それくらいあるらしいんだけど」
「意外に数がありますね……そのわりに他の明かりを見ないのは、敷地が広いんでしょうか」
「うん……この山全体らしいよ」
「……は?」
山ひとつがグランピング施設?
聞いたことがない規模だが、それくらいのことをやりそうな企業に心当たりがあった。
「……レン、くれぐれもお兄さんにお礼を言っておいてくださいね」
本当に、まともに泊まったらいくらかかるやら。浮かびかけた苦笑を飲み込んで、渋い顔をする恋人の頬へ代わりのキスをした。