この世界で「幸福」「幸せ」という言葉は死んだ。というのも、常に幸福であり続ける状況が続けば、それが「普通」になってしまったので、わざわざ「普通」を「幸福」と形容する者がいなくなってしまっただけの話だ。
死語になってから百年以上過ぎたある日のこと。
「ねえT、キミが他の人より博識だと思うから訊くんだけれど」
イヤな予感がしたのは当然で、そんな風に彼・Rが切り出した時はろくなことを訊いてこないからだ。
「キミ、『幸福』って感じたことがあるかい?」
「誰かしらがそう感じたことがあるのなら、死語になっていないのでは?」
「一理あるけれど、オレはTに経験があるかどうかを聞きたいんだけどな?」
にこにこときれいな顔で笑むRから、なんとなく圧を感じる。Tは深く長い溜息を吐いた。まるで肺の奥、肺胞からしみじみと出すような溜息だ。
「……人の部屋を訪ねてくるのに、窓から入ってくるような男を友人に持つ人間が幸福であると思いますか?」
「なかなか可愛くない返しをするようになったじゃないか」
「いつまでも可愛かったら困るでしょう」
「オレは困らないけど」
「……それで? どうして死語字典から引っ張り出してきたような言葉を?」
たかだか一年も歳が違わないのに、この男は相変わらず年上ぶる。
けれど笑顔は誰よりうつくしく、もっと見ていたくなる。
「昔の本を読んでいたらたまたま見つけた表現でね。知っているならTかなって。どんな気持ちなんだろうって思ったんだよね」
「私だって味わったことはありませんよ。……ですが……」
ふと、思いつく。
賭けのようなものだ。彼が、Rがその賭けの内容を知ることはないが。
「あなたが『幸せだった』と思えるようなことは、体験させられる可能性はあります」
「……ずいぶん不確定だね?」
「私はあなたではありませんから。あくまで可能性ですけれど」
どうします?
問いかけると、Rは少し黙って考える。
乗るか、反るか。
きっとRなら乗るだろう、と思っていると、彼は小さく頷いた。
「興味はあるから……Tの案に乗ろう」
「そうですか。では、明日の同じ時間にここへ来てください」
「明日? 明日までお預けってこと?」
「こちらにも準備がありますから」
「わかったよ。楽しみにしてる。……そうだ、今日の夕食なんだけど」
「……また私にたかる気ですか」
「人聞きが悪い。ひとりよりふたりで食べたほうが美味しいだろうってこと」
「構いませんよ」
やった、と喜ぶRを見、Tは目を細めて優しい表情をした。
喜んでくれるといい。
幸せだったと思ってくれればそれでいい。
惜しむらくは、彼の幸せそうな顔が見られないということ。
目を閉じると、Tの意識は黒に塗りつぶされていった。
翌日、Tの部屋を訪れたRが見たものは。
きれいに整頓され、ほとんど物がない部屋と、ベッドの上で目を閉じているT。そして、
「人を呼びつけておいてお休みかい……? ん?」
Tの傍らに置かれた一通の封書。表書きは「親愛なるRへ」とある。
呼びつけておいて、と不思議に思いつつ、自分宛のその封書をRは開いた。
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「……、レン……レン?」
よく寝ている人を起こすのは心苦しかったが、今はやむを得ないから、とトキヤは自分に言い訳をする。
レンが魘されているのを見るのは初めてではなかったが、魘されながら泣くのを見たのは初めてだった。イヤな夢を見ているのはわかるから、せめてそのイヤな夢から一秒でも早く引き離してやりたい。彼の夢の中に直接出向くことなどできはしないから。
頬を緩く叩き、何度か呼びかけると、レンの蒼の瞳がぼんやりと開かれる。何度か瞬きし、少しばかり時間がかかりはしたが、ようやくトキヤと目が合った。
「…………」
「まだ寝ぼけてますか? 大丈夫ですか、レン」
目尻から零れた涙をくちびるでそれぞれ受け止め、瞳をじっと見つめる。薄明りの中、視線は合っているのにどこか頼りなさを感じる。
「レン? 本当に……」
「……こんどは、」
おいていかないでね。
「は? いったい何の……、」
それだけ言ってまた目を閉じてしまったレンを腕に、トキヤは黙して考え込む。
きっと寝ぼけていたのだろう。トキヤがレンを置いてどこかに行くことは、考えられない。
「……ずっと一緒、ですよ」
抱きしめ直すとトキヤも目を閉じる。夜明けまではまだ時間があった。
どんな夢を見たのか、起きた後もレンが覚えているようなら訊いても良い。何か不安にさせるような出来事があって、それが原因でイヤな夢を見せてしまったのだとしたら、不安は取り除いてやりたかった。
好きな人には笑顔でいてほしい。
幸せにしたい。
心からそう思っているし、そうするつもりがある。
トキヤ自身に由来する不安は自分自身が許せそうにない。
はぁ、と溜息を吐くとレンの頭を撫でる。今宵この後は、優しい夢が彼を癒しますように。