「レン」
局の廊下で見慣れた背中を見つける。声をかけてから誰かと話していたのではないかと気付くが、相手はどうやらスタッフだった。ちょっと待ってね、という手振りの後でスタッフとさらに言葉を交わし、スタッフもこちらに挨拶をしてから改めてこちらへ向いてくれる。スタッフには挨拶と会釈を返しておいた。
グレーのクロップドパンツ、黒の革靴と黒地に襟や袖に白とグレー、ライトブルーのストライプが入ったポロシャツは、彼にしては軽装だ。クラッチバッグは某ハイブランド。財布とスマホ、もしかしたらハンカチ程度しか入っていないのだろうなと思わせられる。自分の大きなバッグとは大違いだ。
「やあイッチー、お待たせ」
「いえ……邪魔してしまいましたか?」
「大丈夫だよ。趣味の話をちょっとね、してただけだから」
「趣味ですか?」
「そ。ドライブの穴場スポットをね」
なるほど、車を持っている人間ならではの話題か。頷くと、レンに促されて駐車場へと向かう。
「こっちに来ちゃったけど、良かったよね?」
「ええ……お願いします」
「イッチーこの後予定はある? なければ食事でもどう?」
「特にはありませんが……」
「大丈夫、有機野菜が美味しいっていうお店だから」
「…………」
それならいいか、と頷いて、助手席に乗り込む。バッグは膝の上に置いた。
「後ろに置いてもいいんだよ……って、あれ? そのバッグ……」
レンの視線が膝の上のバッグに注がれる。どうやらレンのほうも何かに気付いたようだ。
「……覚えていますか?」
「てっきり……捨てたかと」
使ってくれてたんだねぇ、と嬉しそうな顔に、訳もなく照れてしまう。それを隠すのに言葉は愛想のないものになってしまった。
「あなたね……高価なプレゼントはそうそう簡単に捨てられませんよ」
「だってイッチー、あの時すごい剣幕だったから……」
「どこの世界に学生同士のプレゼントで二桁万円するような高級ブランドバッグをプレゼントする男がいるんですか……」
相手が女性ならまだしも、トキヤは男だ。いくら誕生日のプレゼントとはいえ、度というか金額が過ぎている。
「……男の友人なんて初めてだったんだから、少しくらい浮かれたって仕方ないだろう?」
「…………」
おや。
今度はトキヤがレンを見た。ふい、と正面を見たレンはどことなく――たぶん――照れていた。
かわいらしい、と歯の裏まで出かかった言葉を飲み込むのは苦労した。きっとレンは嫌がる。それくらいは短くない付き合いの中でわかっている。実のところ美人なのにかわいげのある男だとは思っているのだけれど。 沈黙をどう受け取ったのかはわからないが、レンがアクセルをゆっくりと踏んだ車はなめらかに駐車場から出て行く。女性扱いと同じなのか、車の運転は丁寧で不安がないので安心して任せられる。
視線を手元に落とす。
「……実のところ、ずっとしまい込んでいたんです」
上質な革の持ち手は、使い込まれていくうちに色が変わっていくはずだが、今はまだ新品に近かった。
「引っ張り出したのは最近のことです」
「……気が変わったのかい?」
「いえ……これを私にくれたのは、最初は喧嘩でも売られているのかと思ったのですが、もしかしたら『このバッグが似合うくらいのいい男になれ』というあなたからの挑戦状みたいなものかと思って……使う自信や、使ってもいいと思えたら使おうと思っていたんです」
レンが小さく笑ったのが空気の震えでわかった。大笑いされるのではないかと思ったが、どうやら勘は外れたようだ。
「じゃあ、今は自信があるんだね」
「それなりに」
「イッチーらしいな、その顔。……手入れもしてたんだね?」
「いざ使おうと思った時にボロボロでは目も当てられませんし……あなたからのプレゼントですからね、それくらいは」
「贈って良かったよ」
イッチーならきっと大切にしてくれると思った、と機嫌良さそうな顔は好きな顔だ。
背もたれに身体を預け直す。
道中が短いのか長いのか聞いていないが、夕食にはほどよい時間ではある。レンとの食事は、店舗の味の保証もあるし彼の食事の仕方がきれいなこともあるし、気に入っている。それこそ学生時代から。
機会があれば、いやなくても機会を作りたいくらいにはレンに会いたいこともある。
言い訳は色々作れるのだろうけれど、今は理由については目を逸らすことにしていた。いつか、苦しくなった時に対処しようと。トキヤにしては珍しく、この件に関しては問題を先送りしていた。
それまでは一緒にいられるこの時間を楽しみ、愛そうと思い、ちらりとレンの横顔を見て微笑を浮かべた。