レンはうつくしい顔をしている。
一番うつくしいと思うのは笑っている時だが、最近はどうにも曇りがちの憂い顔だ。憂い顔もうつくしいけれど、やっぱり笑っている顔が一番だと思う。
――憂い顔の理由はわかっているから、なんと声を掛けていいのか悩んでしまう。
(笑って、と言っても無理な笑顔を作らせるだけですし……)
かといってコミカルなひとり芝居など出来るものでもないし。トキヤにできることと言えば、歌うことと、最近覚え始めた楽器を演奏することだった。
楽器といっても籠の中に入れられるような、バイオリンやハープ、笛、アコーディオンの類。試してみればどれもそれなりに演奏ができたから、レンには「器用だね、じょうずだよ」と褒められた。悪い気はしない。
ふたりきりの部屋を無音で過ごすより、何か音があったほうが安らぐのではないか。幸いレンは楽譜をいくつも持っていたし、譜面の読み方も教えてくれたから、演奏する曲に飽きることはなかった。
それに、本のページをめくるレンが手を止めた時、ふと優しい表情をするのが好きで。その顔を見たいがために演奏しているようなところもある。
その日、レンが書物をめくる手を止めたのは、じきに昼になろうという頃だった。
「……食事をしに行こうか」
近頃ではトキヤが時報のように昼を知らせていたが(レンが書物に夢中になって時間を忘れることがしばしばあったので)、トキヤはほっとしつつ頷いた。空腹をちゃんと感じてくれているなら健康な証拠だと思ったから。
「イッチーは何か食べたいものはあるかい?」
「朝昼はしっかりしたものを食べたほうがいいと言いますし……お肉料理はどうです? 最近ラムは食べていないでしょう」
「ラムか……いいね。パイ包みが美味しい店があったな……」
そこにしよう、とすぐに話がまとまる。
身支度を調えると、トキヤはレンの定位置に収まった。以前切れた魔法のチェーンは新調され、細いけれど丈夫なチェーンになっている。目眩ましの魔法も厳重にかけられた。
家を出て魔法の絨毯を広げ、乗り込む。
「外での仕事は大丈夫ですか?」
最近あまり外に出ないが、以前は行っていた街や村での仕事は大丈夫なのだろうか。トキヤの問いかけに、レンは頷く。
「大丈夫。代理を頼んだりしているからね。問題があれば魔法院のほうから連絡が来るし……それに、どちらかといえば今は疑問を早く解いてしまいたくてね」
感覚でなんとなくはわかっても、それを言語化するのが難しいのだとレンは言う。
「ランチが終わったらバロンの所に行ってみようか」
「西の街の初夏の果物のタルトが美味しい時季では?」
「いいね、お土産に持って行こう」
頷くレンは、どこか疲れて見える。特にここのところは根を詰めて書物を読んでいたようだったし、何か書き物をしている様子もあった。トキヤは魔法には疎いからよくわからなかったが、魔法の計算式だとか構造、魔方陣の読み解きだろうと思う。
自分に関係のあることだが、だからといってあまり根を詰めすぎないでほしい。レンの体調やレン自身が損なわれるのが一番イヤだし心苦しい。訴えてもきっとじょうずに誤魔化されてしまうのだろうけれど。
食事の時は彼の雰囲気が緩む時だ。食事には彼をリラックスさせられるだけの力がある。自分が料理を作れないのはやむを得ないことだが、もしこの『籠』から出られたなら、料理を習って彼に食べてもらいたいと思う。
たくさん世話をしてくれた彼を、癒したい。誰かのおかげではなく、自分のすることで。そうして今度は自分が彼の世話をしたいと思う。――瓶の中のサイズと違い、彼と同じようなサイズになった自分を、彼がどう受け止めるかはわからないけれど。
昼食のラムのパイ包みはレンはマスタードをベースにしたソース、トキヤはタマネギをベースにしたソースを選んだ。一口ずつ交換したが、どちらも羊独特の肉の味にしっかりマッチして、うまみを引き立てている。他にも海鮮のカルパッチョや空豆のスープ、ソルベはビワ、単品で豚肉の紫蘇とチーズ巻きやはまぐりの酒蒸しも注文し、いつものことだが二人できれいに平らげた。
わりと濃いめの味付けの料理が多かったから、買っていく季節のタルトはさっぱりしたものが良いのではないか。ケーキ屋にそうそう思うとおりのものがあるかはわからなかったが、ちょうど小夏のタルトがあった。ほんとうは実をそのままで食べると苦みと酸っぱさでなかなか食べられないが、皮を剥いて塩を振って一日以上おいておくと甘くなり、それだけで美味しく食べられるようになる。けれどタルトは食べたことがない。レンも興味を示し、結局小夏をたっぷり使ったタルトを手土産にした。
絨毯で飛んでいると、レンの周りをくるりと小鳥が飛んでくる。頭から尾羽にかけて、瑠璃から濃い紫へとグラデーションになっている、きれいな小鳥だ。レンの腕に留まり、ぴちゅぴちゅ、と何事かさえずる。
「ああ、よかった。バロンは店にいるんだね。これはお礼だよ」
懐から木の実を取り出すと、小鳥に差し出す。小鳥は上機嫌(に見えた)で木の実を受け取ると、またレンの周りをくるりと回り、それからどこかへと飛んでいった。
「今の鳥さんは……?」
「バロンが店にいるか教えてってお願いしていた子だよ。速かったから、頑張ってくれたんだね」
木の実は一番甘いのをお礼にしたよ、と笑う。木の実の類はいつでも何種類か持っていて、鳥や小動物にお願い事をするときのお礼にするのだという。
「もちろん鷹や鷲にお願いする時もあるけれどね。内容によって変わるのさ」
彼らの場合は肉食なのでお礼も変わる、とレンは言う。
そうして話をしているうち、カミュが店を出している街が見えてきた。ふわりと絨毯を店の前で降ろし、指を鳴らして小さくしてしまうと店へと足を踏み入れる。
「バロン、いるんだろう?」
ためらいなく店の奥まで入ってしまうと、やってきたのはまず細身の大型犬だった。カミュの愛犬アレキサンダーだ。
「店の中でしばし待て」
アレキサンダーはたしかにカミュの声でそう言った。トキヤは驚いて彼を見るが、レンは「わかったよ」と普通に返す。そのことにも驚いた。
「レン、アレキサンダーは……」
「たまにね、バロンはああやってアレクに伝言を預けるのさ。知らない人にはやらないと思うけど……そうか、イッチーが見るのは初めてだったっけ」
慣れるとなかなか面白いよ、とレンは笑う。そうして店内をゆっくり歩き、商品をじっくりと見ていく。
以前と比べていくつかの商品は見覚えがなく、いくつかの商品はなくなっている。入れ替えがあったということは、適度に客が来ているらしい。魔法の道具が必要になる人もいるものだね、とレンは呟くが、同じ道具でも少しでも便利ならそっちを買いたくなるのが人の情ではないだろうか。言うと、なるほどと頷いてくれた。
「何をしに来た」
奥から現れたカミュが姿を見せるなり溜息を吐く。
「ご挨拶だね。……手土産も持ってきたんだけど、お茶くらい淹れてくれるかな?」
「……いいだろう」
来い、と店の奥にある客間へ通される。
違和感に気付いたのはレンが先だった。
「ねぇバロン、お客は面倒な人だったかい?」
「面倒といえば面倒な相手だったな。……何故そう思った?」
「香りがね」
「香り?」
「残り香が……魔法院の人間が好んで使う香の匂いと同じだったから」
「……ずいぶんと鼻がきくものだ」
否定はなかったので、きっと合っているのだろう。レンがケーキをそれぞれに切り分け(カミュの分が明らかに大きかったのは、彼のために買ってきたものだからだろう)、カミュは紅茶を淹れてくれる。
「それで、今日はどうした」
「お願いしていた、調査の進捗はどうかと思ってね。あと、魔法院の人間が何をしに来たのかも気になるかな。バロンは魔法院指定の魔法道具屋じゃないだろう?」
「以前から下位の連中は、俺の店のほうがいくらか安いからと来ているがな」
「オレが上位と下位の人間を間違えると思われているなら、心外かな」
真顔と、にこやかな笑み。見えない何かがふたりの間を走っているように見えて、見ているトキヤのほうが緊張する。
根負けしたように溜息を吐いたのは、カミュのほうだった。
「……本当に、おまえの勘の良さには時々呆れる」
「そこは感心してくれるところじゃないの?」
「時と場合による。……おまえの言う通り、たしかに先ほどの客は上院の魔法使いだ。来た理由は……」
カミュと視線が合った、気がした。気がしたものが当たったとわかったのは、数秒後のことだ。
「おまえの籠中鳥のことだ」
「トキヤの? なんでまた……いや、どうしてトキヤのことを魔法院が知ってるんだ」
「まあ、そうだろうな。正当な疑問だ。……紅茶が冷める。話しながら説明するぞ」
カミュが気にしたのは紅茶よりむしろケーキだと思うが、レンは頷いた。トキヤにもケーキと紅茶は振る舞われていたから、ありがたくいただくことにする。
魔法院、という言葉、機関は、聞いたことがあるような気がする。もちろん以前からレンとカミュのやりとりで聞いていたが、それより以前。ずいぶん昔のことだったような、そこまででもないような。記憶がないというのは、存外不便だ。
「わざわざ魔法院の上院の人間が来た理由は……結論から言えば、おまえの籠中鳥だ」
「は? なんだってまた……、……まさか」
「頭の回転が速く、察しがいいのはおまえのいいところだな」
紅茶にたっぷりと砂糖を落とし込み、蜂蜜まで入れたカミュがティースプーンでカップの中をかき混ぜる。
自分のこと、と、トキヤはにわかに緊張した。
「探りも入れつつ話をしていたのだがな。魔法院はどうやら、籠中鳥の研究と、ひとりの籠中鳥のことを秘密裏に探しているらしい」
「……その秘密裏に探されているのが、トキヤってことかい?」
「そうなる。当然、何故こやつが、と疑問に思うだろう。好奇心を装って訊いたが……上院よりさらに上の人間の意向だということはわかった。だが院長ではないらしい」
「上院より上で院長より下? そんなの……」
ひとりしかいないじゃないか。
魔法院に登録している魔法使いなら、考えなくてもすぐわかる。
副院長だ。
「なんだって副院長が、そんな……」
「俺にもそこまではわからん。判断材料が少なすぎるからな。だから少し、副院長について調べてみようと思う。とはいえ……院長よりわからぬところが多いとも噂されている男だ。少しばかり時間がかかるやもしれぬ」
「…………西の街で、たしかパイの新作が出るって聞いたなぁ。南の街の桜の蜂蜜は、今年は特に出来が良かったって聞いてるし……北の村は林檎が豊作で、少し酸っぱいほうがジャムにはいいって聞いてるし、紅茶に入れてもすごく美味しいって聞いたことがあるね。もちろんパイも絶品だって。それに秋になれば質のいい木の実のタルトが美味しいって聞いたなぁ……黒スグリのジャムとも相性がいいみたいだし……」
つらつらとレンがスイーツの評判がいいところを挙げていく。もちろんカミュの好みを踏まえた上で言っているに違いなかった。
そのカミュはと言えば、無関心を装ってレンの挙げたスイーツのことをよく吟味しているに違いなかった。
「……季節がそぐわぬものもあるようだが?」
「一度に揃えるのは難しいだろうね。けれど季節折々でそういったスイーツを食べるのも、季節を感じられていいんじゃないかな? 紅茶だって旬はあるだろう? 上質なものと上質なものを一緒に楽しめるのは、季節が移ろうこの世界での利点だと思うけれど」
つまり、いま挙げたスイーツのすべてが旬を迎える時にはこの店にやってくるし、レンのことだから他のスイーツも買って持ってくる可能性が高い。
それを利点・報酬として充分だとカミュが判断するかどうか――。
カップを優雅に取り、紅茶を一口飲む。そうして花柄のソーサーに戻すと「いいだろう」とカミュが言う。
「場合によっては追加を要求するぞ」
「もちろん。魔法院にはバロンのほうが顔が利くからね。骨を折ってもらう見返りは、正当に用意させてもらうよ」
「ならば良い」
尊大な息を吐くと、カミュは満足そうに口端を持ち上げる。
たぶん「金銭以外に」ということなのだろうが、割り増し報酬がスイーツでいい人間がいるというのは、まったく変わっていると思う。少なくともトキヤの読んだ本の中に、そんな人物はいなかった。
「期限は三ヶ月くらいかい?」
「バカにするな。二ヶ月で充分だ」
「さすが。頼もしいね」
「貴様はこちらの心配などせず、別の心配をしたらどうだ」
「? 別の?」
「そこの籠中鳥にずいぶん心配をかけているだろう。以前より痩せたようだぞ」
「え」
カミュに指摘され、はじかれるようにトキヤを見る。
日頃から顔を合わせているレンは気付かなかったようだが、たしかに自分の体重が少し減ったような気はしていた。動くと以前より身体が軽かったからだ。けれどそれはこの籠の中で少し身体を鍛えようと思っていて、その効果が出たものとばかり思っていたのだが。
ちらりとカミュを見る。カミュもこちらを見ていて、少しだけ、含み笑いをしているように見えた。
あ。
カミュの意図するところに気付いたが、これは何も言わないほうがいい。
「……ごめん」
レンのしょんぼりとした様子には胸が痛むものがある。
「いえ……このところ根を詰めていましたし、仕方ありません。ですが、また仕事に出かけたり、遊びに出かけたり、しましょう? たまにお日様の光を浴びないと、植物だってすぐに萎れてしまうんですから」
「うん……そうだね。今は文献や書物からわかるところが少ないし……バロンの調査を待ったほうが効率的かもしれないし。そっちは少しにして、外に出るとしよう。食事以外で、ね」
レンの優しげな表情を見、ちらりとカミュのほうへと視線を走らせる。カミュは澄まし顔でほんのわずか、浅く頷いてくれる。
体重が減ったのはレンのほうだ。傍目にも明らかだし、頬は軽く削げたと思う。トキヤが見てもそうなのだから、久々に会ったカミュが気付くのは当たり前の話だ。レンの体調を心配するからこそ、トキヤが痩せたと言ってレン自身にも休息と適度な運動をさせようとしてくれたのだろう。レン自身の身体を気遣うより、そのほうが効果的だと思って。
(付き合いが長くなれば、そんな風に気遣えることもできるのでしょうか……)
自分もそうなりたい。
強く思い、少し明るさを取り戻したレンの顔を見上げた。