トキヤがレンに引き取られて、年が明けた。年末から年が明けて三日までの五日間、近くのどこの街でもお祭り騒ぎが繰り広げられている。
港でも漁を終えて帰ってきた船を迎える人手が多いし、山でも猟師が獣を仕留めて帰ってくる。だから市場もいつもより多くの人で溢れているし、レストランや酒場、屋台はかき入れ時で張り切って商売をしていた。
活気が溢れる街を眺めるのはわくわくする。こんなにたくさんの人、大人から子どもまで、どこから湧いて出てきたのだろうと思うほどだ。この時ばかりは寒さを忘れるのかもしれない。
そういえばレンはあまり料理をしない。賑やかな酒場の一角に座ったレンにさまざまな豆が入った濃い味のビーフシチューをもらいながら、彼をじっと見つめてそんなことを考えていた。
「……どうしたんだい、そんなに見つめて。俺の顔に何かついている?」
「いえ、……レンは料理をあまりしないなと思って。どうしてだろう、って」
「ああ……」
そんなことか、とレンは笑う。あまり重大なことではないようだ。
「料理は作れるんだけど……オレが作ると普通の人には辛すぎるみたいでね。普通の人が辛くない料理も作れるんだけど、ずっとひとりだったから自分のためだけに作るのは面倒だなって思って。だから外食ばかりだよ。イッチーにずっと辛いものを食べてもらうわけにもいかないし」
舌が馬鹿になる、と言われたこともあるとまで言われると、どれだけ辛いのか気になりもするが、きっと止めておくのが正解なのだろう。何か重い理由でもあるのかと思ったが、少しほっとした。同時に、彼の料理は食べる機会はないのかなと思うと、少し淋しい。いつか作ってくれるといいのだけれど。
その日レンが飲んだのは林檎のブランデーだった。トキヤが飲むのに合わせてくれたのかもしれない。林檎の香りと味がブランデーにうまく合っていて、レンはジンジャーエールで割ったものをくれた。ストレートだとキツいだろうから、という選択だったようだが、辛味のあるジンジャーエールにどこか甘さを感じるブランデーは相性がいいらしい。
「どうだい?」
「美味しいです」
「そう、良かった。……あまりぐびぐび飲んじゃダメだよ? アルコール度数はけっこう高いんだから」
その言葉をちゃんと聞いて「はい」と返したはずなのに、加減を見誤ったらしい。食事を食べ終える頃には、トキヤはすっかり酔っ払ってしまっていた。
良い気分というのはこういうことを言うのだろう。
ふわふわとした思考、足下。暑くてだらりと瓶の中に転がる。少しひんやりしている気がして、気持ちいい。
「ああ……飲ませ過ぎちゃったね。……気持ち悪くないかい? 吐き気は? 大丈夫そう?」
レンが気遣わしげに構ってくれるのも嬉しい。だいたいこの店に来る時は七割くらいの確率で女性と夜を共に過ごす。それが最初の頃はあまり何も思わなかったのだが、近頃だと少し気になり、胃のあたりがなんだかもやもやするようになってきた。
今日は予想外のアクシデントだったが、レンと共に夜を過ごすのは、できれば自分だけがいいなとトキヤは思う。
そうして、この頃ぼんやりと思っていたこと、「外に出られたらいいのに」と思うようになった。
「〜〜♪〜〜♪♪」
調子っ外れの鼻歌を、レンは笑わなかった。それに、いまだに音痴は治らないのでトキヤが何のうたを鼻歌で歌っているのか当てるのは至難だろうに、正解してくれた。
樹木に咲く春の花が川にかかるのを歌った明るい歌。春の喜びに溢れたうたを素敵だと思ったし、凍てつくような寒さの今、たしかに春が恋しいと思える。
ねぐらに着くまでの間に、自分にとっての春はこの人なのだろうか、とレンを見上げていた。
翌日のことだ。
トキヤはレンに引き取られてから初めて、レンの料理を食べることになった。
「二日酔いの後は胃に優しいものがいいと言うからね。おかゆを作ってみたよ」
何しろ初めて作ったから、食べられないと思ったら残してね、とレンは言う。
木の大きな器、両手になんとか収まるくらいのサイズの器に三分の一ほど盛られた粥は、白米と押し麦のようだった。くたりとした米たちに、卵らしい黄色、魚の身らしいピンク、散らされているのはネギだろうか。色合いがどことなく華やかな気がする。
瓶の中、布団から体を起こして器と木の匙を受け取ったトキヤは器とレンを交互に見つめた。そんなトキヤの様子をどう受け取ったのか、ふいと横を向いてしまう。
「……、……」
改めて匙を握り、ほこほことした湯気を立たせる粥を掬う。ふぅふぅと息で少し冷ましてから、ぱくりと口の中へ入れた。
「……! おいしい……」
思わず漏れた声をレンは聞いたらしく、トキヤのほうを見た。少しそわそわした雰囲気だ。
「魚に塩気があるから粥自体の味が薄くても調整できますし、卵は甘めでとろりとしているのが良いですし、ネギも押し麦も好きです。……私のために、すみません。ですが……ありがとうございます」
美味しいです、と言いつつ二口三口と食べていく。嬉しさもあって、ついおかわりまでしてしまった。
そんなトキヤを、レンは嬉しげに眺めていた。
「どうして急に料理を?」
出来合いのものではないだろうと思いつつ、食べ終わってから聞いてみた。味も量もちょうど良く、とても美味しかったことは伝えられたのは良かったけれど。
レンはテーブルに頬杖をついてトキヤを見た。
「気が向いただけだよ。それに、」
「それに?」
「…………いや、なんでもない。たまには料理をしないと腕が鈍るかもしれないからね」
トキヤを見てにこりと微笑んでくれる。これで誤魔化されるのでトキヤもいいかげんチョロい。
そうして午後になって元気を取り戻し、うたの練習をしようとしていたトキヤにレンはある提案をしてくれる。
「バロンのところに行ってみよう」
「? 店主の?」
トキヤがいた店の主人のことをレンはバロンと呼ぶ。行くとすれば久しぶりだが、ずいぶん唐突な決定だ。
今日は何か用があっただろうか。絨毯はまだまだ使えるし、杖も長持ちしている。意外と丁寧に扱っている短外套だってほつれもない。
とはいえレンが行くというのなら決定だし、お互いに慌ただしく身支度を調え、菓子の店へ立ち寄ってからあの店へと飛ぶ。
「やぁバロン、いるかい?」
店は幸い開いていた。入店するなりのレンの声に、店主は呆れた顔をする。
「いるから店を開けているのだ。……今日は何の用だ」
「聞きたいことがあるんだ。イッチーのことなんだけど」
それだけで何か察することがあったのか、店主は深い溜息を吐いた。
「……中に入れ。店の中で立ち話するのも営業妨害になりかねん」
「ああ……ごめんよ。店番は?」
「アレキサンダーが代わってくれる。……こっちだ」
店主に案内されるまま奥の部屋へ通されるとソファに座るよう手振りで示され、レンはコートを脱いでソファに座る。トキヤはその隣に置かれた。
しばらくして店主は銀のトレイに紅茶で満たされたカップを三つ持ってきた。林檎の香りがする紅茶だ。
「それで? そやつの何が訊きたいと?」
「そう……色々あるんだけれどね。イッチーに魔法をかけたのはバロンかい?」
トキヤは驚いてレンを見上げる。レンは冗談を言っているふうではなかった。店主にもそれは伝わったのだろう。
「どれのことを言っている?」
「それが色々あるんだけれど……まず、歌についてだ。イッチーは本来音痴ではないだろう? おかしなハズレ方をしていたよ。魔法で歪めたせいだろう?」
「察しがいいな」
「何故そんなことを?」
コンプレックスにさせてしまうなんてひどいじゃないか。
レンが店主を見る目は睨むような勢いがあった。トキヤはなるべく平静でいようと努めるのに精一杯だ。
「……もともと、そやつには何重かの魔法がかけられていた」
「なに?」
「最初の魔法は眠りから覚めない魔法。次に声を出せない魔法。歌えない魔法はこの次だな。あとは過去を忘れる魔法……他にもあった気はするが、まぁそんなところだ」
店主が把握しているだけで最低四つの魔法がかけられていたことになる。
「……なんでまたそんなに」
「オレが知るわけなかろう。そやつを籠中鳥にしたやつにでも聞いたらどうだ」
「誰なんだい?」
「オレも知らん」
「ええ? じゃあどうしてバロンの店にイッチーがいたんだい?」
そこでふっと、店主がごく真面目な顔をしてトキヤを見つめた。アイスブルーの瞳に見つめられると緊張する。
「……話を聞かせたままでいいのか」
「イッチーにだって知る権利はある」
「望んだのか? そやつが」
「それは……」
う、とレンが言葉に詰まる。
「レンが何を考えて私をここに連れてきたのかはわかりません」
咄嗟にトキヤが答えていた。
「ですが、私に関わることであるなら、私は知っていてもいいのではないでしょうか」
「良くない話でもか。……傷付くかもしれんぞ」
「……はい」
そう前置きされるのであれば、きっと店主が語ろうとしている話はトキヤにとっては嬉しくない話なのだろう。
けれど。
トキヤは隣を見る。心配そうな目を向けてくれるレンがいた。そう、レンがいるなら。……いてくれるなら、ひとりではないなら。なんとかなるような気が、するのだ。
強い決意を秘めた目でレンを見つめれば、やがてレンはひとつ瞬きし、頷いてくれた。店主はふたりの様子を見て口許で笑む。
「よかろう。そもそもの話からするが……貴様ら、籠中鳥の作り方を知っているか?」
「……作り方……?」
「魔法を使って作る、ということは知っているよ」
「籠中鳥は自然現象や狼や雀や龍のように自然に存在するものでも、魔法使いのような突然変異でもない。……分類で言えば、今飲んでいるティーカップ、座っているソファ、それと同じだ」
そのたとえはものすごくイヤな予感がする。トキヤはぎゅっと拳を握る。
「……どういうことだい……?」
「わかっているのだろう、神宮寺。……半分くらいは一ノ瀬も理解しているようだぞ」
ティーカップやソファは自然の中で自然が作ったものではない。誰かが作ったものだ。
それと同じであるというのなら。
「……私は……誰に作られたんですか……?」
がらになくくちびるが、声が震えた気がした。おそろしいことを聞いているようで、シャツの胸元を掴む手が冷たいのに汗ばんで、小さく震えている。
心臓の音はこんなにやかましかっただろうか。血液が身体を流れる音が聞こえる。
「籠中鳥は、禁呪を使って作られる」
「禁呪?」
「ああ。二級禁呪だ」
一級禁呪は術者及び広範囲の生命活動に対して甚大な被害をもたらす。破滅の魔法など。
二級禁呪は術者の生命と引き替えに正負の影響をもたらす。神がかった力の付与魔法、恐怖支配魔法など。
一級は国家クラスでの問題になるため当然の禁呪だが、二級はやや境界が曖昧だ。
「自分の命を絶ってまで籠中鳥を作ろうって? ナンセンスじゃないか」
「だから今まではおとぎ話だと思われていたのだ」
「……今までは?」
「今日まで、オレは四つの籠中鳥を扱った。……ここ一年の話だ」
トキヤとレンは顔を見合わせる。
籠中鳥はたしかに珍しいもので、歌声が美しい個体ばかりなのが特徴だ。だから売っていれば好事家やお偉いさんが大金を叩いて買うのが常だったらしい。最後に記録が残っているのは百年前らしいが。
「百年前の前はさらに六十年は前だ。その前は八十年前。いずれもひとつかふたつずつ。……四つ、一ノ瀬を入れれば五つだが、多いと思わんか?」
「たしかに……ペースに対して倍以上だね。籠中鳥を作る魔法は、一回しか使えないんだろう?」
「命と引き替えだからな」
「ああ……なるほど、二級禁呪」
いくら魔法使いであっても、すべての魔法使いが使える呪文ではない。格が低い魔法使いや魔女では、格が高い魔法に対して構築法が理解できないのだ。だから呪文を唱えられない。
日常生活を送るのに便利に使える魔法を七級として、七級魔法しか使えない者が二級魔法の禁呪を使えることは絶対にない。だから二級禁呪を使えるのは二級以上の格を持つ魔法使いになる。
「二級クラスならハイクラスだね。それなりに名は通ってる魔法使いか魔女だろう?」
「一年から三年内に死んだハイクラスの魔法使いや魔女の記録はない。オレの耳にも入っていない」
「情報通のバロンの耳に入っていないんじゃ、みんな元気でいいことだけど……おかしくないかい?」
命と引き換えに作られるはずの籠中鳥がトキヤを含め五つ。少なくとも五人の魔法使いか魔女の命が失われていなければならないのに。
「……この件に関しては、詳しいことがわかったら知らせてくれるかい?」
「まぁいいだろう。ケーキに免じてやる」
重々しく店主が頷く。レンの手が優しく瓶を撫でてくれる。
「イッチーにかけられていた魔法は、バロンがかけたわけじゃないんだね?」
「かかっていたものだ。まあ、眠りからは覚めてもらったし喋れるようにはさせてもらったが。……だから歌に関する魔法は、おまえがさっさと解いてしまっても構わんだろう。そやつは他の籠中鳥と一風変わっている雰囲気だったからなるべく店に置くようにしていたが」
「そもそも男の籠中鳥ってあまり聞いたことがないね」
「過去に例がひとつもないわけでもない。……解除するなら解除していけ」
「……もしかしてバロン、見たいの?」
「減るものでもなかろう」
「……いいけどね」
苦笑すると、レンはトキヤを手に取り、両手で包み込むように持って膝上に置いた。
何をするのだろう。見ていると、レンはじっとトキヤを見、その奧まで蒼で見透かすようで――。
やわらかく紡がれる旋律。ふわりと身体ごと心を持ち上げられたような。
低く、高く。長く、短く。頭の奧から、胸の奥から、何かが湧いて出てきそうだった。
ぱちん。
鳴らされた指に、はっと我に返る。ぱちぱちと瞬きして、それからレンを見上げた。
「大丈夫かい、イッチー?」
「え、ええ……」
気遣わしげな瞳を向けられるが、こくりと頷いて返す。どこも痛まない。
「じゃあ、オレと一緒に歌ってみようか」
「え」
ここで? という気持ちでレンを見る。
第三者がいる前で、レンの歌はともかくお世辞にも上手いとは言えない自分の歌を聞かせるのには抵抗があった。
けれどレンが「かえるの歌にしよう」と強引に話を進めるので後に引けなくなった。
こんなに緊張するのは生まれて初めてではないだろうか。口から心臓が飛び出てしまいそうだ。
練習では何度も歌った、かえるの歌。どうしてもリズムや旋律がおかしくなる。レンが歌い出した。どうだろう。ちゃんと歌えるだろうか。
「…………、……」
こちらを見るレンの表情が、明らかに明るくなる。店主も少し驚いた顔をしている。
トキヤ自身も。
一回歌い終え、二回目を歌い終わってようやく、自分が音を外さなかったことに気付いた。
「やったじゃないか、イッチー!」
「レン!」
レンに瓶ごと抱きしめられる。トキヤはそれで、レンが歌に関するトキヤにかかっていた魔法を解除してくれたのだと理解した。
「貴様ならすぐに解けただろうに、どうして解除しなかったのだ」
「練習して直るなら、それが一番良いだろう? 自分でなんとかしたいって気持ちが強いならなおさら」
「なるほど。……だが結局は魔法のほうが強かったわけだな」
「イッチーに他にかかってる魔法とやらの影響もあるんじゃないかな……声や歌を封じる魔法は、ミドルクラスかアンダークラスでも充分だろう? 複合してたのが絡まり合ってたんじゃないかなぁ……」
「一理ある」
「それでさ、バロン。オレ一個疑問なんだけど」
傍で歌を試していたトキヤが、ふとレンの声が真剣を帯びたのを聞いて黙る。
店主も何か気付いたらしい。態度は尊大だが、レンの出方を窺うふうがある。
「どうした?」
「籠中鳥って、原材料は、なに?」
店の外を飛び交う鳥の声が聞こえた。
それほど店の中は静寂にみちていた。