近頃のトキヤの楽しみは、レンとうたを歌うこと、楽器を演奏することだった。
譜面を読むところから教えてもらったが、コツを覚えれば理解できたし、奏法を教えてもらえばある程度は楽器も演奏できた。
時間がかかっているのは歌だ。
「……不思議だね……」
レンの歌う通りに歌っているつもりだが、どうにもズレがあるらしい。何度歌ってみてもダメだった。
「楽譜も読めるし楽器も譜面通りに演奏できる、のに歌だけ……歌の外し方が特徴的……」
思案げな顔をしたレンが、じいっとトキヤを見つめる。居心地が悪かったが、瓶の中のトキヤに逃げ場なんてない。さらに見つめられると、逆に何かあるのかとちらりとレンを見た。
目が合うとレンはにこりと笑みを見せてくれる。
一日二日でどうにかなるものでもないから、ゆっくりがんばってみよう。
前向きな言葉に、トキヤは不安を抱えたまま頷いた。
いつか、彼に子守歌を歌いたい。
そんな夢を叶えたいと思った。
日中、レンは珍しく仕事をしに行くと言ってトキヤを連れて行った。今の仕事は建築中の大聖堂に事故がないように、また大聖堂に置かれる女神像を彫る職人に神の加護があるようにと、優しい魔法をかける仕事がひとつ。
もうひとつは、産気づいた妊婦の痛みを和らげる仕事。これは別の魔女たちが行っているのだが、たまたまレンが通りかかった時に誰もいなかったから緊急に入った仕事だった。
最後に糸に薄らと魔力を込める仕事。この糸は編まれ、漁師が使う網になるのだという。豊漁と漁の安全を祈願した魔法を掛けるのだ。
小さな杖で優しい魔法をかけるレンは楽しそうで、見ているトキヤも自然と口許が綻んだ。
そうして夜は久しぶりにバーへ行った。そのバーでは月に何度かバンドが生演奏をしていて、レンはそれを聞きながら食事をするのが楽しみのひとつなのだという。その日は弦楽器のバンドが演奏をしていた。
ビオラ、ヴァイオリン、チェロ、コントラバス。
どの音もきらきらと輝いて聞こえて、奏者が楽しそうに弾いているのに見合った楽しげな曲たちは、バーの客たちにも伝わるのか、誰もが楽しげにしている。
トキヤはレンにもらった大振りのソーセージ、ガーリックオイルで炒めて胡椒を振りかけたブロッコリー、ニンジン、タマネギを食べ、赤ワインを飲んでいた。次にはレンが食べていたスパイスがきいたスペアリブをもらう予定だった。が、少しその予定が狂った。店に入ってきた泥酔した男が、ミニステージで演奏中のバンドメンバーに絡み出したのだ。
いや、絡んだだけならまだ良かっただろう。彼らだってこういったところで演奏しているのだから、客あしらいはそれなりにできるに違いない。けれど何が気に障ったのか、男は暴れようとする。近くにいた何人かの客が止めようとするが、酔漢は力の加減をする理性も酒とともに呑み込んでいるのか、ちょっとした騒ぎに発展していた。
「……スマートじゃないね」
せっかくの演奏が台無しじゃないか。
呟くレンはつまらなさそうにその様子を見ていたが、男が奏者のひとりに殴りかかろうとした時、席を立った。何をするのだろう。見守っていると、レンは懐から出した杖でさっと払った。途端、酔漢の動きがぴたりと止まる。何かわめいているようだったが、細かいところまではトキヤには聞こえない。
周囲の客もレンに気付いたらしく、レンが男のほうに近付くと、道を空けてくれた。
「楽しく飲んだのかもしれないけど、あなたの酔い方は他の人に迷惑をかけ、傷付けてしまう。……今日はもう休むといい。明日は今日のことを反省して、飲み過ぎないことだね」
にこりと笑み、くるんと杖を回す。すると男はぐらりと身体を揺らし、床に倒れてしまった。
騒然とする他の客にレンは説明をする。
「とりあえずこれだけ酔っ払っていたら、まともに話もできないからね。眠ってもらったよ。十二時間後くらいに目が覚めるかな。後で誰かこの人を家まで送り届けてあげてほしいな。駄賃はオレが払うから」
その後、無事に他の客が酔漢を送り届けることになり、ほっとした場を和ませるように、奏者たちが音を奏で始める。
「助けてくれた心優しい魔法使いさんへ」
そんな風に言って、席に戻ったレンに手を振ってくれる。演奏が始まれば、場はすっかり戻ったようだった。
「良かったんですか? 魔法、使って」
魔法使いはみだりに魔法を使ってはならない、と店主が言っていた。実際、レンが魔法を使うのは仕事以外ではトキヤに目隠しをする時くらいのものだ。
「まぁ……あんまり良くはないね。けれど、音楽家が手や指、腕を怪我したら取り返しがつかないだろう?」
せっかくこんなに素敵な演奏を聴かせてくれるのにさ。
悪戯っぽくレンが笑う。
たしかにそうだ、とトキヤは頷いた。それに、酔漢を止めなければ奏者たちが怪我する以上にもっとひどいことになっていたかもしれない。だからこれで良かったのだろう。
「美味しい食事が終わったら、帰ろうか」
「……いいのですか?」
今日はなんとなく女性とそういうことをする日なのだろうと思っていたのだが。レンは「帰るよ」と笑う。
「なんだかそんな気分じゃなくなっちゃったのさ。……それよりは、イッチーの演奏を聴かせてもらうか、歌の練習をしよう」
いい演奏を聴いた後だから、とレンは微笑む。
小さなハプニングとしては、食事の代金を払おうとして店の主人から「騒ぎを収めてもらったから」とタダにしてもらったことくらいだろうか。
「いいことがあるものだね。……明日はパンを買いに行こうか。イッチーはくるみが入ったパンとかレーズンが入ったパン、ブールなんかも好きだろう? 朝に行けば焼きたてが買えるかな」
「あなたはフーガスなんかが好きですね? ……焼きたては構いませんが、起きられますか?」
パン屋で買うのに焼きたてを買おうとすれば、当然オープン直後が一番だ。昼に合わせて再度焼く店ももちろんあるが、朝に行けばとレンが言う以上、朝食のためのパンが目当てなのだろう。
トキヤの指摘に、レンは視線を泳がせる。はぁ、とトキヤは溜息を吐いた。
「起こすのは構いませんが、ちゃんと起きてくださいね?」
なにしろこちらは目覚まし時計のようなもので、レンの体を揺さぶったり強制的に起こしたりなんて出来ないのだ。声や音だけで起こすなんてなかなか難しい芸当だと、ちゃんと理解していてもらいたい。
ぎろりとレンを見つめると、レンは白旗の代わりに両手を挙げて降参を示す。
「敵わないな、イッチーには。……できる限り、がんばるよ」
バーのある街はレンのねぐらからそう遠くない。絨毯であっという間に到着すると、レンはシャワーを浴びて一日の汚れを落とす。
籠中鳥は汚れないので身体を洗う必要がないしバスルームの中でどんな風にレンが身体を洗っているのかまでは知らないが、シャワーを終えて出てきたレンは、どこか綺麗だなと思う。レンはいつだって綺麗だが、いつもとは違う雰囲気だ。
「……いつも思うんですが、どうして裸なんですか?」
「シーツが気持ちいいしね」
答えとしてそれはどうなのだろうと思うが、綺麗な顔で微笑まれては何も言えなくなる。それにトキヤはなにもベッドで一緒に寝ているわけではないから、レンが裸で困らなければそれでいい。
ただ、シーツの中で丸まって眠るレンのことは抱きしめたいし、改めて子守歌をうたいたいなと思った。
レンの住む場所は、標高千メートルの山に広がる森、大樹の陰にある岩穴の奧にある。
春にレンにもらわれたトキヤはその年初めての冬を迎えることになったが、トキヤは寒さ知らずだ。もちろん暑さも知らない。瓶の中は基本的に温度や湿度は一定に保たれていて、常に春か秋のような気候だからだとも言える。
レンのねぐらは山の上で岩穴だから冬はそうとう寒いはずだが、そこは魔法使い、家の周りの温度は冬ではほんのり温かくなっていた。ちなみに夏は魔法を使わなくてもひんやりしている。
ねぐらにいれば外の気温を忘れるが、外に出れば寒いに決まっている。なのに、レンときたら町人の服装に比べれば、ずいぶんと薄着だ。
「レン。寒くないのですか?」
「寒くないわけじゃないけど、まぁこれくらいなら」
コートは革だからと言うが、革でも毛皮ではないのだから風くらいしか防げないのではないだろうか。マフラーを巻いてもこもことした手袋をしている人とすれ違うたび、トキヤは解せない気持ちになった。
冬はとても寒そうで、もし外に出られるか外の気温を体感できる機会があるなら凍えてしまいそうだが、もしその寒さを味わう機会があるなら、トキヤは食べてみたいものがあった。
「シチュー?」
「はい。ホワイトルーの……ああいう食べ物は寒い時のほうが美味しいと、本に書いてあったので」
「なるほど……鍋やシチュー、カレーなんかはたしかに寒い時のほうが美味しいね」
瓶自体にかかっている魔法を解除するのは難しいだろう、とトキヤは思う。これも本の知識だ。籠中鳥はややこしい高等魔術で作られているから、食事や服を与える以外で中にいる鳥に干渉するのは難しいらしい。だから外に出られるような機会は万が一にでもないに違いないし、瓶の中の気温を下げるといった芸当も難しいだろう。
だから叶わない夢だろう。レンを困らせる気はなかったのだが、余計なことを言ってしまった気がして項垂れてしまった。
「大丈夫だよ、そんなに暗い顔しないで。……今日は西の街に行こう。ホワイトソースに絡めたキノコを添えたカツレツ、イッチーも好きだろう? あれにジャガイモのお団子を添えてソースと一緒に食べるんだ。シチューなら牛肉のシチューがいいね。パプリカや赤ワイン、香辛料で煮こまれたルゥ、それにサラダが添えてある。イッチーは野菜が好きだから、蒸した野菜をオリーブオイルがベースのソースで食べるのもいいよね」
喋りながら仕度を終えたレンが、トキヤの瓶をちょいちょいとつつく。
「……おまえが悲しそうにしているとオレも悲しいよ。根本的な解決にはならないけれど、せめて美味しい食事で気を紛らわせよう? 帰りにはワインを買ってもいいね。見立てはイッチーにお願いしようかな」
トキヤの瓶をコートにブローチのように着けると(これも魔法の力で着いているので落ちない)岩穴を出、西の街まで絨毯で飛んでいく。
店に置かれていた時は考えなかったことを、今になって――レンと一緒にいるようになって、欲が出てきたような気がする。
街に着くまでの間、レンとうたを歌う。ほんの少しだけ上達しているような気がしているが、それでもまだまだ全然音を外しているほうが多い。成長のなさにも凹む毎日で、それでもレンが自分を見てくれるのが救いのような気がしていた。
トキヤの世界は、レンを中心に回っていた。