レンという魔法使いに最初にかけてもらった魔法は、「移動中でも籠の中で安定していられる魔法」だった。これはなかなか快適な魔法で、たとえばレンがトキヤを連れてどこかに出かける時、揺れに酔うことがないのだ。
それも、レンの家に連れてこられた日、後でぐったりしたトキヤを見て慌てたレンが色々と調べ、乗り物酔いという結果が出たから。ごめんね、と謝ってくれた彼を、トキヤは不思議な気持ちで見つめたものだ。
だってトキヤは籠中鳥(カナリア)だ。いつからそうだったのかなんてちっとも思い出せないけれど、籠中鳥は籠、瓶から出られない。魔法が掛けられていて、蓋をされているわけではないのに瓶から抜け出ることは出来ないのだ。だから飼い犬や鳥と同じ。
それを嘆いた記憶はない。気が付いたらこうなっていて、他に比較対象がないからだ。だから店でぼんやりしたり店主から与えられた本を読みふけったり気ままに眠りについたり店主のアフタヌーンティーに付き合ったり、たまに入れ替わる店内の商品や訪れる客を見たり見なかったり、穏やかといえば穏やかな生活をしていた。
それなのにレンときたら。
「今日はどこに行くのですか?」
「そうだな……今日は海に行こう。イッチーはまだ海を見たことはないだろう?」
「ええ……本の挿絵でしか」
「実際の海を見たら、ビックリするかもしれないね。じゃあ、支度したらすぐに行こうか」
レンの支度はあまり時間がかからない。朝起きてから簡単に身支度をととのえて、その時にだいたいととのってしまうらしい。
そうして彼に連れられて外の世界を見るようになり、彼はたいそう女性にモテる男なのだと知った。そうしてレンも女性たちのことが嫌いではないらしく、丁寧に扱うのだ。
「特定の女性と付き合ったりはしないのですか?」
「オレは自由が一番好きでね。誰かに縛られるのは好きじゃないんだ」
と言いつつも夜遊びを止めようとはしないのだ。
何かを紛らわせているのか。――何かを埋めているのか。
そういう時にもレンはトキヤを伴っていることが多いが、いざその段になると彼はトキヤの瓶と耳に魔法をかける。何も見えない、聞こえないようにと。
(どんなことをしているのかは……本の知識でしか知りませんが)
好きな人とすること、子をなすためにすること。行為はちゃんと手順を踏めば気持ちいいこと。
その程度の知識しかないし、レンのほうが多く経験しているのだろうからこの件についてトキヤが彼に言えることは何もない。それに彼のほうがずっと年上だ。――そうとは思えない場面も多いにしても。
海までの道中は、絨毯での移動になった。レンが両手を広げてまだ少し大きいくらいの横幅で、縦はもっと長い。それに乗って寝転んだりクッションにもたれて座ったりして道行きを楽しむ。箒でも移動できるが、近距離にしないと疲れると言っていた。
昼を食べてから出たものの、海で食べるのにお菓子やパン、飲み物も持ってきていた。ゆっくりする予定のようだ。
木々よりさらに高いところは何の障害もない。見える景色は見たことがない景色で、トキヤは飽きずに眺めた。何しろ店ではどこまでも広がる空や森、山や街を上空から眺めるなんてことはなかったから。
レンはトキヤのそんな反応も楽しんでいるらしい。この頃はまだ景色に夢中だったから、彼の様子までは窺い知ることはできなかったけれど。
知らない景色を堪能していると、レンが瓶を手元に寄せた。何があったのかと見上げると、彼は悪戯な笑みを浮かべている。
「ここからはちょっとナイショだよ。……すぐに見せてあげるから」
レンのマントに隠されて、景色が見えなくなってしまう。
せっかく外に居るのに。少し残念に思っていたが、レンは言葉通り、すぐにトキヤに新しい景色を見せてくれた。
「ほら、イッチー。見てごらん」
マントが開かれ、レンが手を差し伸べたほうへ視線を遣る。そこに見えるのは。
「これは……!」
視界一面の碧。空の蒼とも、森の青とも違う碧だ。まるで何かの宝石のよう。
「これが海だよ」
「海……」
船という乗り物が漕ぎ出す大海原というのは、このことか。
池とも湖とも違うきらめき、うねり。
もっと見たい、間近で見てみたい。
そんなトキヤの心の声が聞こえたわけでもないだろうに、レンは絨毯の高度をぐっと下げてくれた。そればかりか、傍の砂浜に着地してくれたのだ。
「海水浴シーズンには少し早いから、まだほとんど人がいない。のんびりするにはもってこいだろう?」
そう言いながらレンは絨毯を杖の中にしまいこみ(魔法による収納術らしい)、波打ち際をトキヤと歩く。
ざざん、ざざざ。
聞こえる波の音も新鮮で、トキヤは食い入るように海や寄せてくる波を見つめた。細波が砂浜で小さく弾けるのも新鮮で、砂が波に連れ攫われては寄せる波に戻される。
小さな赤い生き物はおそらくカニだ。砂の上をかさかさと歩いていく。
そのうち歩き疲れたのか歩くのに飽きたのか、レンはまた絨毯と大きなパラソルを杖から出すと、海を眺めるのに良さそうな場所で寝転がり、トキヤはその傍らで一段高い台の上に乗せられて海を眺める。
空ではカモメが鳴き、そよ風がレンの髪を優しく撫でる。
穏やかに流れる時間を楽しみ、レンが持ってきた食事を楽しみ、夕暮れ時になって赤く染まる海面を見て感動して。後で思えば子どものようだったと赤面モノではあったが、産まれて初めて見るものに興奮してしまうのは誰しもあることだろう。
夕食は近くのレストランでふたりで食べた。明るい、青を基調とした内装の店で、海の近くにある店としては満点、自慢の魚介料理も舌鼓を打つほど美味しかった。そのせいか、普段はあまり飲まないワインも一杯だけ飲む。
ふわふわとした気持ちでいるのは、ワインのせいだけではないだろう。
帰り道、絨毯の上で夜空を眺めていると、レンが話しかけて来た。
「ねえイッチー」
「はい」
「イッチーは……歌うのは嫌いかい?」
「…………」
当然来るはずだったのだ、この問いは。
何しろトキヤは籠中鳥、本来は歌って当たり前の存在なのだから。
望まれれば歌い、望まれなくとも勝手に歌う。籠中鳥の性質はそういうものだ。けれどトキヤは歌うより読書を愛している、ようにレンには見えただろう。
「……私は……歌は」
「うん」
「…………得意では、ないので」
俯き、レンから顔を逸らす。
たまにはこんな籠中鳥がいると思いたい。世界中の籠中鳥の中で、自分だけ歌が不得手だなんて思いたくなかった。
レンは「そっか」と小さく呟いて、少しの間沈黙が流れた。いたたまれなさを感じていると、またレンが口を開く。
「ねえイッチー。提案なんだけど」
「……?」
「オレと一緒に歌おう」
「……え?」
「歌っていくうちに、どうにかなるかもしれないよ。もちろん、オレの知っている魔法の中で、歌が上手になる魔法もあるけれど。そんなものを使わないほうが素敵だろう?」
「……一緒に?」
「そう、一緒に。そうだ、楽器を覚えるのもいいね。その中でピアノは邪魔だろうから、弦楽器とか笛かな。一緒にセッションできたら素敵じゃない?」
トキヤはレンを見上げて瞬きした。
それはとても素敵な提案のように思えた。ただ、自分が音痴である事実を除いて。けれどそれすらレンは気にしなくていいことだと言う。
「誰だって最初は失敗が続くものさ。それに多少調子っ外れでも、楽しければいいのさ」
「では……お手本に歌ってくれますか?」
「もちろん。もう少しで家に着くから…そうだね、子守歌をまず歌うよ。途中で寝てしまっても構わない。子守歌だからね」
レンの声は優しいから、トキヤもとうとうその気になる。
歌え、ではなく、歌おう、と言ってくれたから。それが一番嬉しかった。だから心の底から願った。歌えるようになりたいと。
そうしてその日の夜は寝仕度を調えたあと、レンは彼の言葉通り、子守歌を歌ってくれた。
少し低くて、掠れるところもある、やさしいうた。
彼はいつか誰かにこのうたを歌ったことがあるのだろうか。かつて彼と褥をともにした女性たちの誰か。それを思うと胸がちりちりと痛むような気がした。
いや、今は考えないでおこう。
今この時、この子守歌はトキヤに向けて歌われている、トキヤだけのもの。こんなやさしいうたは聴いたことがない。
うとうととした後、意識を保つのは困難で――気が付いたらうたに包まれるように眠っていた。