誰かのために泣くなんてきれいな涙、自分の中にはないと思っていた。
図書室でトキヤの前で泣いて以来、なんとなくトキヤを避けてしまう。別にトキヤが悪いわけではないのに。
(……どんな顔すればいいっていうんだ)
まるで子供にするみたいにあやされてしまって。不覚にもそれがイヤとは思えなくて。それどころか、撫でる手が優しいと思って、それでまた泣けそうになって。
つまり、恥ずかしい。
自覚があるだけに、いっそうまともに顔が見られなかった。もう絶対に泣かない。
一ノ瀬トキヤは、その日何度目かの溜息を吐いた。
トキヤに溜息を吐かせている原因は、レンだ。最近どうにもレンから避けられている。原因はおそらく、図書室での出来事だと思う。
(困りましたね……)
課題のひとつが必ずグループで行わなければならないもので、トキヤは翔とレンと同じグループだった。
翔からは、
「原因はなんとなく聞いてるけど、おまえたちのことなんだからおまえたちで何とかしろ。そんで、課題は期限までに提出するぞ」
厳命されてしまったため、一日でも早くどうにかしなければならない。なのに、レンときたらいつの間にか教室から消えるのだ。出席しているから休み時間に、と思っても、チャイムが鳴って教師が教壇から降りて振り返れば、彼の姿はもうそこにない。
どんな早業だ。思っても、いないものはいないのだから仕方がない。
(……そもそも、休み時間という短い時間でどうにかしようというほうが間違っていましたね)
どうせなら時間がある放課後に探すべきだ。幸い今日の『バイト』は朝だけで終わり。レンを捕まえるにはうってつけだ。
レンがよく行くところを聞き回り、検討した結果、屋上を選ぶことにした。屋上は人目がないのはもちろん、不意に人が来てもすぐにわかるのが良い。
(木曜の放課後は第三校舎の屋上にいることが多い……と聞いていますが、どうやらその通りになってくれそうですね)
かつん、かつん、と階段を上ってくる革靴の音。ぎ、と微かな軋みを伴い、ドアが開く。現れたのは、予想通りの男。
彼はそのまま、ドアの横にいたトキヤに気付くことなく柵のほうへ行く。しばらくそこで佇んで、壁のほうへ移動しようとしたらしい。
「……人が悪いな。いたならそう言ってくれていいんだぜ?」
「驚かせたかったわけではありませんが、タイミングが掴めませんでした」
すみません、と素直に謝ると、レンの傍に行く。風が、かすかにレンのフレグランスを運んできた。
「あなたが、さっぱり捕まらないので。……課題が進まず、翔と困っていたんです」
「ふたりで適当に済ませればいいじゃないか」
「『グループ全員が必ず参加』して制作しなければならない課題ですから。どんな課題であれ、あなたもグループの一員である以上、逃げることは許しません」
「……お堅いね」
「なんとでも。さあ、翔が待っていますから教室に行きますよ。……それと」
レンとの距離を詰めると、その腕を掴み、歩き出す。逃す気がないのを態度でも示した。
「図書室での件は、……別に誰に言う気もありません」
もしそこを気にしているのなら、晴らしておこうと思って付け足した。
返事がなく大人しく引っ張られるがままになっているな、とレンを振り返ると、トキヤはまた焦った。
「何故また泣いているんですか!?」
「……知るか馬鹿うるさい……」
「誰が馬鹿です誰が」
足を止めると、やむなくレンを抱きしめ、頭を撫でる。たしか小さい子供はこうやって落ち着かせて泣き止ませるのだった、と知識の実践だ。
レンもイヤなら振りほどいて逃げるだろうと思ったが、振りほどかれる様子もないし大人しくしている。どころか、抱きつき返された。知識の実践としては的外れではなかったようだ。
何故また突然レンが泣き出したのか、トキヤには皆目見当がつかない。同じ状況で、翔なら何かわかるのだろうか。翔にわかるのに自分がわからないのは解せない。
いったい、どうして。
今それを問うても、レンは答えないし答えられないだろう。図書室での一件と同じだ。だから泣いた理由を問う真似はしないでおこうと思う。
けれど、この男を泣かせた原因は気になるのだ。
それも何故なのか。わからない。
わからないことは気持ちが悪い。数学の問題なら、方程式に当てはめれば良いだけなのに。現実問題は方程式通りにいかないことだらけだ。
自分の気持ちもそうだ。
どうして同級生に――ライバルに、こんなことをしているのか。今までなら放っておいて教室へ戻っていた。けれど今は戻れない、この男をひとりにしておけない。
変化が訪れている。
そう思った。