風吹く屋上

 屋上が好きな理由は様々だ。
 突き詰めると結局、一人の時間が欲しいからという理由に行き着く。
 女性たちに囲まれたり、友人たちといる時間が嫌なわけではない。楽しいし気持ちが明るくなる。けれどなんとなく一人の時間を作っては屋上に来て、ぼんやりと風景や空を眺める時間も作っていた。
 今も、授業を自主的に欠席して屋上に居る。空の蒼と吹き抜けていく風が心地良いからだと自分に言い訳し、校舎の外へと目を向けた。
 何もかもすべてがどうでもいい。投げ出してしまいたい。
 ──と思っていた自分は、今はいない。
 こんな風になるとは思っていなかった。一番驚いているのは自分自身なのだけれど。

 どれほどの時間そうしていたのか、不意に自分のものではない靴音が響く。レンはあえてそちらを振り返らず、景色か物思いに気を取られているフリをする。
 ほんの少しの期待。でもそれは表に出さないのが主義だ。
「やはりここにいましたか」
 予想したより間近からの声にようやく振り返れば、思っていたより至近距離に顔がある。期待が裏切られなかったことに喜ぶよりも驚かされて、反射的に軽く身を引いた。
「イッチー。……何かあったのかい?」
「別に、何もありませんよ」
「何もなくて授業中にこんなところに来るのかい? 優等生が?」
 軽く揶揄したつもりだったが、
「では貴方は何かあるからここに来るんですね」
 と言い返されてしまった。
 咄嗟に上手い言い訳が浮かばず、どうだろうねと嘯くと、トキヤは口の端だけを笑ませて「そう言うと思いましたよ」と軽く肩を竦める。
「貴方のその曖昧な対応は、他者を許容しているようで拒絶している。日頃から柔らかい対応ですから、問題はないのでしょうね。そして誰も疑問に思わない」
「……何が言いたいのかな?」
「貴方の傍はいつも誰かがいる。好んでそうしているのでしょうが、そうでない時もあるでしょう。多分、意識的に。今がそうなのかと思っているだけです」
「そこまでわかっているなら、訊く必要はないと思うね」
「推測ですから」
 涼しい顔でそう言うと、すとんとレンの隣に腰を下ろす。目線が近くなったせいでひどく居心地が悪い。
(……イッチーってこんな近くに来るヤツだったかな?)
 距離が近すぎて落ち着かない。少なくともトキヤのパーソナルスペースが狭くないことは知っている。知っていてわざと踏み込むのはレンの常套手段で、トキヤからこんな風に近付いてくることなどほとんどなかった。
 居心地の悪さは距離が近いせいばかりではない。少なからず気まずいからだ。それが何故かと言えば、昨夜に由来する。
 夜遊びの帰り道、トキヤに遭遇するのは珍しいことではない。どうせ目的地はほぼ同じなのだし、他愛のない話をすることもあった。
 けれど、昨日は。
 話ではなく──キスをされた。
 直前のことを考えれば、脈絡がなさすぎると思う。
 巧拙などまったく考えない、唇を合わせただけの口付けは、触れてすぐに離れて、後は何事もなかったかのように日常の話題に逸らされた。
 気のせい、で済ませるには体験として印象が強すぎる。冗談、で済ませるにはトキヤの性格を考えると頷きがたい。いっそ何かの罰ゲームだったとでも言ってくれれば、まだ納得できた。
(どういうつもりだった? なんて)
 まるでレディのようだけれど。
 理由がないならないでトキヤの口から聞かないと、据わりが悪い。とはいえ、どういう理由でも聞くのが恐ろしいとも思って、訊けずにいたのだが――。
(……聞こう、か)
 深い呼吸を二度三度して、隣を窺う。平然とした表情からは内心が窺えない。
「昨日のは、」
 まずい。声が引っかかった。焦りつつ、唾液を飲みこむ。
「──どういうつもりだったのかな?」
「昨日の?……あぁ」
 取り繕ったレンへと視線を寄越したトキヤがふと笑む。
「機微に聡い貴方の言葉とも思えませんね」
「どういう意味かな」
「わからないのですか?」
 挑発的な言葉は、つまり真っ当に答えるつもりはないということか。
 レンは黙ると、指を顎と唇に宛てて思案する。
「……少なくとも俺の幻っていう線は消えたね」
「良かったですね」
「イッチーは冗談でああいうことをするタイプじゃないし……罰ゲームかい?」
「私が何に負けるというのです」
 強気な発言はいっそ小憎らしい。
(まぁ、確かに大抵の勝負なら負けないだろうけど……)
 じゃんけんやくじびき、アミダクジなど自分の実力以外で勝敗が付くようなゲームならわからないが、だとしてもそんなゲームの罰ゲームでするようなことでもないか。
 半分だけ納得して、レンは肩を竦める。
「冗談でないとするなら、本気かい? 正気を疑うけど」
「残念ながら正気でしたよ」
 トキヤの目がすっと細められる。
 良くない兆しだ。
 腰を浮かして後ろに退こうとしたが、背に柱がぶつかる。どうやら行き止まりだった。
(しまった)
 レンが内心で舌打ちしたことなど知らないトキヤは、膝でいざってレンとの距離を詰めてくる。
 口元は笑んでいるのに、眼が笑っていない。気付いてぎくりと背が強張った。逃げるべきだと本能が警鐘を打ち鳴らしているが、逃げ場のない状況でどうしろというのか。
「──そして、本気です」
「…………目を見ればわかる」
 いっそ舌打ちのひとつもしたいくらいの気持ちでそう返した。
「それはどうも。……逃げないのですね?」
 言葉も目許も優しく和らげられる。
 けれど。
(……騙されないよ)
 その奥の瞳。
 鋭く凶暴な爪、感情の高ぶりを隠さない色を、レンは見逃さない。いっそ気付かないフリで突き飛ばしてでも逃げ出してしまった方が良かった。そうしてしまうにはレンは聡すぎたし、遅すぎた。
 逃げる機会など、また作ればいい。
 そう思えば、腹も据わる。
「逃がす気もないくせに、よく言うよ」
「心外です。本当に逃げるつもりなら、そうすれば良いだけの話でしょう」
 吐息だけで笑うと、顔を間近に寄せてくる。
 互いの吐息がかかる。
 そんな距離で何かを測るようにじっと見つめ合った。
 何故自分なのか。
 いつから。
 どうして。
 聞きたいことは山のようにあったが、今レンが取るべき行動は一択だった。
 トキヤの本気がどこまでのものなのか。
 本当に逃げるのは、まずはそれを量ってからでも遅くはない。
「じゃあ、逃げるとしようか」
 レンが腰を浮かせるよりほんのわずか、トキヤが迫る方が早かった。
「逃げるのは貴方の自由ですが、」
 夜色の瞳がレンを捉え、
「追うのは私の自由です」
 唇を塞がれた。
(やっぱり逃がす気なんてないんじゃないか)
 心中で溜息を吐き、さてどのタイミングで切り上げさせようかと思案する。口中を弄ってくる舌は熱くて、普段からこんな風に熱ければもっとわかりやすかったのに、などと感想を抱く。
 吹き抜けた涼やかな風は、とても熱を冷ましてくれそうにはなかった。
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