spiritual uplift

 夜更けになってからそこを訪れたのは、多分に気恥かしかったせいだ。
「館の奥には、かの大戦で使われたナルシルの剣がありますよ。ご覧になりますか?」
 にこやかにボロミアを迎えたエルフのひとりが歓迎の言葉とともにそう言った。
 都の古老や詩に歌われ、あこがれた古代の伝説の証。それがこのエルフの――裂け谷に住まうエルフ達の王の館にあるのだ。かの大戦の物語を、どれほど胸をときめかせて吟遊詩人らから聞き、あるいは話をせがんだことか。
「いや…まずは休ませてもらえないだろうか」
 逸る心を押さえて断った。しかし彼らは気を悪くもせずに言ったのだ。
「では、お好きなときに御覧なさいませ。館内では、騒ぎを起こされなければ自由にして下さって構いませんから」
 その言葉を真に受け、夜の拝観と相成った。部屋を出てから時間を食ったのは、この館が広い所為であろう。どこが奥でどこが入り口なのかで迷った所為ではない、と思う。
 ようやくそれらしい場所を見つけた時、正直ボロミアは初めて恋を知った少年のように胸が高鳴ったのを自覚した。
 緩やかなカーブを描く階段を、踏みしめるようにゆっくり上る。手すりに手を置きながら上ったのはおそらく、何か確かな感触がないと夢でも見ているのではないかと思ったからだ。それと、少し緊張していた所為。
 2階に着いたボロミアを迎えたのはまず、大きく立派な、それでいて繊細な、エルフの匠が仕上げたらしい額に収められた絵であった。照明はなかったが、幸い月明かりが味方してくれているので、目を凝らす事無く眺める事が出来た。
 絵は、かの大戦のクライマックス――悪しき王・サウロンと、たった今父の剣を握ったばかりのようなイシルドゥアの対峙を見事な技で描き出していた。
 月の蒼い光の下でも色鮮やかなのは、劣化のたびに補修しているのか、または人の知らぬ調合で作り出した絵の具を使っているからなのか――。吟遊詩人たちの歌が脳裏に蘇ってくるようだ。いや、確かに耳には彼らの歌が聞こえる。そして、彼らが歌う話は、多大な誇張と過分な脚色があるにせよ、事実だったのだと教えてくれる。絵が、それを裏付けてくれる。
 冒険譚に心躍らせる少年の気持ちのまま、ふと何かに惹かれるように後ろを振り向いた。
(これは…)
 美しい女神像は、その両の腕に楕円の盆をこちらへ差し出すように持っている。そしてその盆には、神に御器を捧げるように差し出された盆の上には、木っ端に折れたる剣が一振り、厳かに置かれていた。
 ボロミアは知らずのうちに、その剣の名を呟いていた。
「…ナルシルの剣…」
 その呟きは大きな感動と、また多くの憧憬に満ちて溜息に混ざった。
「サウロンの手から指輪を切り落とした剣…」
 魅かれ、あるいは子供のような好奇心から剣の柄へと指を伸ばし、触れ、握った。その手が構えになったのは、根っからの武人気質によるものだろう。
 両手で顔の正面に構え、かのイシルドゥアもこの剣に手をかけたのかと思いを馳せ、その後で刃に指をゆっくり走らせてみた。これも子供っぽい好奇心だったのだが、その所為でボロミアは指を切った。
「まだ鋭い…」
 三千年以上も昔に作られ、使われたものであるのに。
 信じられぬ思い出半ば呆然とまた剣へ視線を戻しかけ――気配を、いや視線を感じた。
 右手を咄嗟に振り返ったのは武将としての勘だったのだが、果たして、そこに何者かはいた。
(…見られた!)
 大の大人が――それも栄えある白の塔の大将が、少年のように心中ではしゃぎ無防備でいる様を、見知らぬ者に見られた。
 真白になった頭でボロミアに出来た精一杯の事といえば、
「壊れた剣にしか過ぎない」
 捨て台詞のように言い捨て、剣をもとの盆に返し、その場から立ち去る事だけだった。
 早くこの場から立ち去ろう。
 決まり悪さに踵を返した時、背後で重い音がした。おそらく剣を台へ返し損なったのだ。音で少しばかりの理性を取り戻した頭は再び剣を戻すようにと言っていたが、これ以上その黒ずくめの男の視線を受けるのは我慢できなかった。
>>> next