敵襲を知らせる鐘は、未明に鳴り響いた。澄み、冴えた空気の中で音は町にも届く。染み付いた条件反射で飛び起きた者が大半だ。それはハンモックの上だろうと宿のベッドの上だろうと同じである。すぐに敵襲を告げる夜番の者が船内を駆け回っていた。
船長と副船長がいない海賊団を彼らの代わりにまとめてきたヤソップも、船内のハンモックで鐘を聴いた。勢いよく寝床から下り、素早く身支度を整えて甲板に上がった時、数人の仲間が武器を携えていた。おそらく夜番だった仲間だ。それを確認しながら見張りに声をかける。
「ご同業か?」
「はい、マストには星印と剣のぶっちがいです」
「知らねェな……」
しかしタイミング的にスウィーズ海賊団以外はありえまい。考えたくはなかったが、向こうに乗り換える仲間がいるのかもしれない。その者たちによってこの場所が知らされたということは、考えたくもないが十二分に考えられる。
「――ったく! ボーナス二割増じゃ足りねェぞ!」
船に戻ってきている仲間の姿もいくらかあるようだ。渡架橋を出すように指示し、さらに船内の仲間へ迎撃を指示しながらヤソップは残りをルゥに任せて砲列甲板へ降りる。本当なら沖へ出て戦いたい所ではあるが、町にいる仲間すべてが戻っているわけではあるまい。彼らのために今しばらく、一刻ほどは港に繋留せざるをえない。だとすれば、町に被害を与えないように戦うしかなかった。
何も知らぬ仲間たちに動揺を与えないよう、船へ戻る指示は出さないでおいたが――裏目に出ただろうか。
威嚇をこめて砲弾を放つ。狙い通り、敵船の進路真正面に飛沫が上がった。
「よし、弾はいつも通りに撃てばいい。正確に狙え!」
砲撃主たちに喝をくれると再び甲板に上がる。敵は一定距離を置いているようだ。威嚇が効いたわけではない。こちらが港から出られないことを察し、大砲でじわじわ嬲るつもりだろう。
どうする。
小船で討って出るのは危険か――
「おう、ヤソップ。船出そう。このままじゃ狙い打たれて穴だらけになっちまう」
巨体を揺らしてルゥが言ってきた。確かにその通りだ。迷っている暇は、ない。ヤソップは決断した。
「帆を張れ! 沖まで出るぞ!」
甲板にいた者たちはルゥの指示で既に準備していたらしい。滞りなく帆が降ろされ渡架橋が外されて錨が上げられると、船は滑るように動き出した。
敵の砲弾が船の右側で弾け、傾ぐ。敵の甲板が肉眼でも見えるほど近付いた頃には、互いに白兵戦の用意が為されているのを知る。
「おいルゥ、アディスンとリックはどうした?」
「見てねェ。町かもな」
あの二人が遅れを取るなど今までにあっただろうか。しかし海の上で、まして敵を目の前にしていつまでも考えている暇はない。特にお頭の姿をしたリックがいないことは痛手だが、いない者に文句を言っても詮無きことだ。
ヤソップは小さく舌打ちすると、全員の士気を確かめた。九割以上の仲間が揃っていることに、そこで初めて気付いた。訝るヤソップに、ルゥが笑いかける。
「昨晩のうちに戻れる奴は戻って来いって伝令を出しておいた」
「はあ?! 聞いてねェぞ、おれは!」
「幹部全員戻ってきたほうが怪しまれるだろ」
澄まし顔のルゥに、ヤソップは感服した。確かに昨日のうちに敵が間近にいたならもっと早くに仕掛けてきたかもしれないし、さらに卑怯な手段をとってきたかもしれない。結果だけを見るなら、ルゥの判断は正しかったことになる。
「まぁ問題はそんな所じゃあねェだろうが」
ヤソップは苦く笑い、銃撃戦の始まろうとしている甲板を見回す。どうにも士気が低い。
リックがシャンクスの姿をして彼らの前に立っていれば、もう少し違っただろうか。再び舌打ちすると、ヤソップは頭を苛々と掻いた。
「ああもう、頭使うのなんか専門外だ畜生! 敵がいたらぶっ潰す! それしかねェ!」
号令をかけると、計ったかのように互いの船へロープや梯子が行き交う。
敵のボスはどうやら、黄色のキャプテンコートを着た髭面の男らしい。曲刀を突き上げ、ある意味海賊らしい下品な声で何やら吼えているのがヤソップにも聞こえてきた。
「ウハハハハハ! おれたちの仲間になりてェって奴らを迎えに来てやったぜ! 今なら誰でも歓迎だ!」
頭もいねェ船よりゃ楽しめるだろうよ!
「死ぬか仲間になるか、選ばせてやるぜ!」
その台詞に、驚愕ではなく怒りが込み上げた。
「雑魚の癖に言いたい放題言ってくれやがって……! てめえみてェな三下に、うちのお頭が自ら出張るのすら勿体ねェってんだ!」
しかしヤソップの怒りと裏腹に、戦況は始まったばかりだというのに分が悪い。
人数に負けているからといって士気まで下がるような赤髪海賊団ではなかったはずだ。――これまでは。
やはりシャンクスがいないというだけでこうも脆くなってしまうのか。あんな男の一言に、仲間が浮き足立ってしまうほど。
副船長がいれば、あるいは立て直せたかもしれない。あの男の言葉は、不思議な重みがある。仲間の混乱も、きっとまとめてくれただろう。
しかし今は二人ともいない。だから自分たちだけで何とかするしかないのだ。『赤髪』の連勝記録に自分たちで泥を塗るのは、ヤソップには我慢がならなかった。
「確かに頭は今いねえがな! てめェらみてェな三下相手に、うちの頭がわざわざ出てやって相手するまでもねェってんだよ! 雑魚が好き勝手抜かしてんじゃねェ!」
ヤソップの剣幕に、敵の頭は表情をさっと変えた。怒りで顔が赤くなったのが見て取れる。
「抜かせ! 『赤髪』が居ねェのは事実だろうが! 『赤髪』の居ねェてめえらなんぞ、我がスウィーズ海賊団の足元にも及ばんわ!」
この程度の挑発に反応するのがいっそ小物らしくて笑いが浮かびそうになる。
こんな雑魚にやられていいはずがない。自分たちの頭は世界一の剣豪とも対等にやり合える男だ。それは船員たちの誇りである。その誇りを自ら地に落とし、泥に塗れさせていいはずがない。
歯軋りしたヤソップの視界の隅に、黒い影が風のように過ぎった。目を凝らすが、混戦の中ではどれがそれだったのか見分けもつかない。大袈裟な声を上げて斬りかかってきた男を利き手に握った剣で薙ぎ払う。ルゥの短銃から発射された銃弾が別の男の腹を突き抜けたのが見えた。
その時だ。
「じゃあ、物の数に入れてもらうとしようか」
敵の頭の傍で、幹部らしき男が声を上げて倒れる。
決して張り上げたものではない声は、喧騒の中でもたしかに聞き取れた。
周りにいた者たちは一斉にそちらを振り返った。無論ヤソップやルゥも例外ではない。
「うちの狙撃手を、あんまり怒らせるんじゃねェよ。早死にしたらオレが困る」
聞き覚えのある、人を食った口調。
剣に滴る血を払ったのは、黒の外套に麦わら帽子をかぶった男。
赤髪海賊団の人間ならば見慣れた男の姿。ただし、その中身は――幹部のひとりだったはずだ。とはいえ、今までこんな『お頭らしい』登場の仕方をしたことはなかったが。
「リ……リック?」
「呼びましたか?」
「うわあっ!」
ヤソップの後ろからひょっこり顔を出したのは、紛れもなくリック本人だった。トレードマークの海賊旗のシンボル入り帽子をかぶっている。てっきり町にいると思っていたアディスンも一緒だった。
「お、おまえら、どうして……」
「置いていかれたから、追いかけてきたんですよ。町で小船を借りてね」
「風はあったけど、漕いだりしたからけっこう疲れたッスよ」
苦行のような山登りは楽しんだくせに、街からここまでの船漕ぎは疲れるのか。場にそぐわぬ感想をヤソップは抱いた。
「そりゃ、ご苦労さん……じゃなくて、」
――リックがここにいるなら、あれは誰だ?
当然の疑問に応えたのは、あの姿だったこともある仲間。
「ヤソップさん、聞くまでもないでしょ」
リックが微笑するのと、敵の頭が吼えたのはほぼ同時であった。
「赤髪の影武者というのは貴様だな! 丁度いい、影武者でも構わねェ、やっちまえ!」
その声に我にかえった敵船の者たちが、麦わらに向かって一斉に斬りかかる。麦わらは――逃げ出すどころか男たちの凶刃を迎え撃った。
「てめェらなんかに、うちのクルーの一人だってくれてやるかよ」
口元を笑みの形に歪ませると、一閃で跳ね除ける。衝撃で飛んだ麦わら。
折しも昇る朝日を受けて輝くのは、紛れもなく紅。見違えるはずもない。その男の仲間は皆、その色を目に胸に深く刻んでいる。他の誰とも何とも違う赤髪は、その名を冠する海賊団の頭でしかありえない。
そうして赤髪の傍らで、飛んだ麦わらを片手で掴んだのは、背の高い黒髪の男。その姿を確認したルゥが「お!」と声を上げる。
「俺にも少しは残してくれよ。こっちだってあんたに付き合って運動不足なんだからな」
「何言ってやがる。てめえの分はてめえで賄え!」
自給自足だと言い捨てると、たちまち剣戟の中へ身を投じる。黒髪の男――ベンも小さく笑いながら、同じように敵に向かった。
戦況はすぐさま混戦の様相を呈した。しかし赤髪海賊団の士気が先ほどまでと違うのは、傍目にも明らかだ。
目の前であっという間に変わった戦況に、ヤソップとルゥは揃って呆然としていた。リックとアディスンは、既に戦列へ加わっている。
「ヤソーップ、ルゥ! てめえら頭だけ働かせて、高みの見物かあ?」
『赤髪』の揶揄で我に返る。
「お……お頭に言われたかねェよ!」
「そうだ! 今まで散々サボってやがったくせしやがってよう!」
「文句あるなら手ェ動かしやがれ!」
「後で覚えてろよ!」
普段のペースを取り戻すと、水を得た魚のように戦いの中へ突っ込んだ。
シャンクスの復活が伝わるのと同時に、士気の上昇はすぐさま全体へ伝播した。
『お頭が帰ってきた』、それだけで鈍かった気持ちは上向き、喜びは力へと変わる。
スウィーズ海賊団は驚いただろう。先ほどまで自身の勝利を当然のものと思っていたはずだ。それが突如として現れた『赤髪』の『偽者』――彼らはあくまでそう思っている――のおかげでひっくり返されたのだから。さすがに不敵な海賊頭も、現れた『赤髪』が本物か偽者かはさておき、戦況の不利は悟らざるを得なかった。
「クソッ、どうなってやがる……!」
「頭ァ、このままじゃもちませんぜ!」
「撤退だ! 引き上げるぞ!」
話が違うと言い捨てたスウィーズ海賊団の撤収と撤退は早かった。潮が引いてゆくように去っていく敵船を、赤髪海賊団は追撃しなかった。実際、船員の誰もがそれどころではなかったのだ。
彼らはまだ、自分の目で見ているものが現実かどうかを疑っていたわけではない。降って湧いた現実を己の中でどう位置付けてよいのか迷っていたのだ。戦闘の士気をそのまま引きずり、高揚していた。叫び出したい者もいたに違いない。しかし奇妙な静けさが船を包んでいた。
自船の甲板へ、自然と赤髪を中心に輪ができる。
「どいつもこいつも、頭が戻ってきたってのにシケた面しやがって……」
一同の顔ぶれを確認すると、シャンクスは口元をにやりと、戦の前や最中によく見せる笑みを見せる。そうして、告げた。
「長い間、待たせて済まなかった! ただいま!」
声を合図に皆が一斉に大声を上げてシャンクスへ飛びつき、手荒い出迎えの挨拶となる。
「おっせーんだよお頭!」
「いつまでもおれたちが待ってると思ってんじゃねェぞ!」
「待っててやったけどな!」
「気合いが足んねェんだよ、お頭は!」
罵倒の言葉も多かった。しかし彼らの表情を見れば、誰もが感極まっているとわかる。その証拠に天を仰いで男泣きする者すらいたのだ。
仲間にもみくちゃにされながらも嬉しそうに、シャンクスは抗議する。乱暴に対してではない。
「おまえらなあ!」
タダイマつったら何て返すんだよ!
シャンクスらしい物言いに、誰もが手を止めて笑う。そうして一斉に、
「おかえり、お頭!」
最高の気持ちと笑顔で迎えたのだった。