シャンクスが昏睡して二日が過ぎた。
夜半になってから涼を増した風が吹くようになり、ギーフォルディアは音を立てぬように気を配りながら窓を閉める。
暗くしたまま明かりを灯さぬ部屋の主は今、ベッドに無表情で横たわっている。幼さの見えぬ顔は、彼が良く知る『赤髪』だった。
「お頭……」
呟いて歯噛みする。
無力だ。
まったく無力だ。
患者がここで横たわっているというのに、医者であるギーフォルディアにはまったく為す術がない。何もない。これが重傷を負った者なら医師として治療に手を尽くせる。消毒もできるし縫合もできる。薬の処方もできる。しかし記憶には手を出せない。記憶喪失の特効薬などありはしない。ただ仲間たちと共に待つしかできない。待つ者たちを励まし、患者の話を聞く。
それだけだ。
医者の意味があるかどうか、ギーフォルディアにはわからなくなっていた。気休めでしかないと思う。添え物でしかない。それでも医師という立場を投げ出すわけにはいかないのだ。そんな自分を道化者だと自嘲したこともある。
「皆、あんたを待ってんだぜ……?」
暁の空より赤い髪。風を孕んで翻る外套。敵陣の中をくるくる回る麦わら。――勝利の笑顔と、それを告げる声。
どうしてあんなに惹きつけられたのか。理由も理屈もわからぬ。しかしそれはそのままで良いのだろう。もっともらしい説明など誰も求めてはおらず、ただ赤髪と共に在りたいと望み、同じ船に乗っている。それだけでいい。
「早く目ェ覚ましてくれや」
きっとベンも同じことを思っているに違いない。口には決して出さないだろうけれど。仲間の誰より強く願っている。
「ベンさん、本当はあんたに一番に言いたがってたはずなんだ」
彼も失っていたものを取り返したのだと。
「待ってるぜ」
立ち上がった時、ドアが勢いよく開いた。
「ギィ!」
「おう、どうしたベンさん。血相変えて」
ベンらしからぬ慌てぶりを見るのは二度目か。ギーフォルディアはシャンクスを振り返ると、手振りで声を落とせと示した。頷き、ベンは声を落とす。部屋を出てから話を聞いても良かったはずだが、ベンの勢いはそれを許さなかった。
「船が――襲われているらしい」
リックからの連絡が届いたと、ベンは紙片を見せてくれた。紙とベンとを交互に見、ギーフォルディアは首を傾げる。
「船? うちの船か? その程度は心配するこったねェだろうが」
「ああ、いつもならな。しかし今回は……」
内通していた者がいないとも限らない。ベンの言葉にギーフォルディアははっとした。
何しろ他船からのあからさまな引き抜きがあったという報告も受けている。シャンクスとともに下船するにあたり、船の現在位置はできる限り伏せるように工作し、あるいはロイを使って偽りの情報を流した。現在赤髪海賊団が逗留している港町は本当にちっぽけな町で、近くに大型の港町があるとか、海軍の支部があるなどということもない。かえって目立つにしても、噂が他の町にいる海賊たちへと伝播するにはもう少し時間がかかってもいいようなものだ。
「多分、お頭が出られればそれだけで片がつく話なんだ」
ベンが苦々しく吐き捨てる。その点に関してはギーフォルディアもまったく同感だった。シャンクスが船にいた頃にはこんなことで揺らいだ覚えなど一度もないのだ。
張り詰めていた弦が、断ち切れようとしているのか。悲劇というものはいつも雪崩のように襲い掛かってくる。
ベンの説明によれば、敵はシャンクスの不在を知っている節があるという。一刻の猶予も許さない事態のようだ。ギーフォルディアはベンの肩を叩いた。決断は早い。いや、ベンも同じことを考えているはずだ。
「お頭は生憎叩き起こすことはできねェが、あんたは行ったほうがいい」
それだけで士気が上がるし、浮き足立つ仲間も減るだろう。
「ついでにお頭は快方へ向かってるとか言ってきてやれ」
「いいのか?」
「ああ。おれは神なんてもんは信じてねェが、言霊ってのは信じるほうなんだ」
そのためには勝たなければならない。
ベンの肩をしっかり掴むと、正面からその目を見据えた。濃紫紺の瞳は揺らいでなどいない。
「あんたがうちの船で一番の指揮官さ。――お頭の次にな。皆知ってる」
だから行ってこい。
ベンは力強く頷くと、一度部屋に戻り愛銃を腰に下げてから家を出た。町までの道程は、馬が駆けてくれる。
「お頭のことは任せた」
「おうよ。心置きなく戦ってきな」
頷くと、すぐに馬上の人となる。
町までの道は整えられて日はそろそろ昇ろうかという時刻ではあるものの暗闇である。片手に松明を掲げ、ベンは馬を駆った。後姿はすぐに闇に溶ける。
ギーフォルディアはその後姿を見送ると、家の中へ戻った。戦いが起こったなら負傷者も出る。戦場から離れていては何もできないが、せめて薬くらいは後で届けられるように準備をしておきたかった。
仲間が大変な時に何もしないで構えていられるほどの度量も薄情さも持ち合わせてはいないのだ。それに、シャンクスに何もできていないという悔恨がある。小さなことでも何か役に立ちたかったし、じっとしていられるわけがない。
「……?」
ふと、物音に気付く。シャンクスが眠っているはずの部屋だ。
まさか船を襲った賊が、ここを探り当てて襲ってきたなどということはありえるだろうか。ありえない話ではない。船の居場所を突き止めてきた連中だ。最悪の事態は充分ありえる。
室内の空気を慎重に窺いながら息を殺す。シャンクスにもしものことがあっては、仲間の誰にも顔向けできない。リビングに置いていた非常用の短銃を慎重に手に取る。弾は一発限り。確実にこれで仕留めねばならない。剣の変わりにメスを手に取った。間合いは取れなくとも、投げることは可能だ。それにメス投げなら百発百中の自信がある。目に突き刺されば、敵は戦意喪失するかもしれない。
しかし敵が複数だったなら、どうすれば良いか――
(ああもう……戦闘は専門外だってぇのに!)
ままよ、と薄くドアを開く。途端、見たものに驚愕し、目を一杯に見開いて大声をあげた。