「手を出すなよ。これは、オレとこいつの戦いだ」
麦わら帽子の下で不敵に笑む顔の凶悪さ。禍々しさに、目が離せない。
(――あれは、)
自分だとすぐにシャンクスは悟った。二十五歳ではないかもしれないが、今の自分ではない。麦わら帽子をかぶっているのが不思議だった。
どこかの船の上、自分と誰かの戦いを、別の人間の視点で見ているのだ。
シャンクスの剣は敵に対しあまりに圧倒的である。技量も何もかも、はるかに敵を上回っている。剣に慣れぬ今の自分が見てもそうなのだから、他人が見ればいっそう明らかだろう。
しかし。
(――違う)
直感だ。根拠などない。
(こんな風には戦わない……)
それとも、こちらが本当なのか。
疑問を否と打ち消す。そうではない。これが本来であるはずがない。しかし自分以外の周囲は熱狂してシャンクスと男の私闘を応援している。
(誰も気付かないのか?)
こんな風に戦う男ではないだろう。自分自身が一番良くわかっている。あの男になら、それがわかるはずなのだが――
(……あの男?)
自身でそう思ったはずなのに男の姿は曖昧で、明確な輪郭は思い描けない。
黒髪だった。
瞳は黒に近い濃紫紺だった。
背は高かった。
けれど姿はどのようだったか。
どんな男だったか。
(知っているのに)
歯噛みする。ぎりぎりと食いしばるその音が聞こえたわけではないだろうに、そのタイミングで甲板のシャンクスが顔を上げた。――目が合う。口元に反して目は笑っていない。心臓が、ひときわ強く脈打った。
「 」
彼の唇が象った音を聞いた。聞こえるはずがない。それでも聞いた。
そんなことも忘れていたのだと、シャンクスは動けず目を見開いた。
眠っているシャンクスが魘されているのに気付いた。シャンクスが森へ子供たちと出かけた夜のことである。
帰ってきたシャンクスはやや自失しており、シャツには血が飛んでいた。怪我をしたのかと思ったが、彼自身の体にはどこも怪我を負っていない。何事があったのかと問うても、返事はなかった。とにかく体を洗ってやり服を着替えさせると、倒れるように寝入ってしまった。事情は聞けないままだった。
眠るシャンクスの額には汗が浮き、眉は苦しげに寄せられている。躊躇したが、ベンは彼の肩に手をかけ、揺すってやった。以前にもこんなことがあったなとベンは思い出していた。もっとも、あの時は起こさないままだったが。
「シャンクス。――シャンクス。起きろ」
数度揺すった所でふと目蓋が開かれる。瞳はどこか虚ろで、まだ夢の中をさまよっているかに見えた。
「シャンクス……大丈夫か?」
茫洋とした瞳は、この世の何も映していないかのよう。不安になり、彼の顔を覗き込む。途端、腕を掴まれた。強い力に眉を顰める。
「シャンクス?」
怖い夢でも見たのか。それにしては様子がおかしい。掴む力は増している。痛みを感じるほどだ。
瞬きしたシャンクスがベンを視界に捉える。口元がにやりと歪んだ。知らず、ベンは息を飲む。見覚えのある笑み方だった。ただし、今のシャンクスは絶対にしない。
「――思い出したか?」
「な……何を」
「あの時も、おまえに言った。けれどおまえは思い出さなかった。……『よくも、オレを苦しませてくれたな……?』」
「!」
戦慄がベンの体を貫く。
それは、このシャンクスは決して知らぬこと。カウラーとの一騎打ちの最中、シャンクスがベンに言った言葉。いや、その前にも。
額に汗が浮かぶ。鼓動は知らぬうちに忙しさを増した。
それはシャンクスとベンしか知らぬこと。シャンクスが言うのに不思議はないが、今の、十四の彼が知っているはずがない。このシャンクスにとっては未来の話だからだ。
いやしかし。
ベンは口元を覆った。
知っていてもおかしくはない。シャンクスはシャンクスだ。記憶を失ったからといって、己でとった行動の全てがなかったことになっているわけではないだろう。それはベンが一番良く知っている。脳の奥に沈んでしまっているだけだ。
改めてベッドに横たわるシャンクスに視線を落とす。
何故それを知っているのか。記憶が戻ったのか。
問いかけた時には、シャンクスは目を閉ざしていた。再び寝入ってしまったようだった。
ベンがギーフォルディアに昨晩のことを打ち明けたのは、朝食後のことだった。シャンクスはまだ眠っている。起きる気配はない。
「あの時、確かにシャンクスは『お頭』だった。あれは俺とお頭しか知らねェことだ」
相談を持ちかけられたギーフォルディアには判断がつきかねた。結局は本人に訊くしかないのだ。それが確実である。結論に頷くと、ベンは細い葉巻を吸い始めた。
「昨日帰ってから様子がおかしかったことと関係あると思うか?」
「気が合うなァベンさん。おれも今、同じことを考えてた所さ」
しかし本人の口からは今聞けない。そうなると同行していたはずの子供たちから聞くことになるだろうか。
「まあ、まだ朝早ェから、」
訊きに行くのなら昼前にでも。
ギーフォルディアの言葉を遮ったのは、玄関のノックだった。誰かと尋ねると、ちょうど話に出ていた子供たちである。ベンとギーフォルディアは顔を見合わせると、ドアを開けてやった。ケント、セーラム、フィリップの三人が立っている。年長の少年がやや緊張した表情で二人を見上げた。
「シャンクスはいますか?」
「いるけど、まだ眠ってるぜ。今日は寝坊してるんだ」
「そうですか……」
俯いたケントの頭を、ギーフォルディアが撫でる。
「ちょうどいい。訊きたいことがあるんだが、教えてくれねェか?」
子供たちが帰った後、ベンはギーフォルディアとラムの瓶をあけた。沈黙を破ったのはベンだ。
「事態は好転していると思うか?」
「何とも言い難ェな」
「医者の言葉とも思えん」
「だからさ」
医者であるからこそ、いいかげんなことは言いたくない。言えない。無責任な言動は、できるだけ慎みたいとギーフォルディアは考えている。ベンにも医師の考えは良くわかっていた。
――悪党をやっつけた時のシャンクスはすげえ怖くて、こいつらなんか怯えて泣いちゃったんだ。でもおれたちを助けてくれたから、お礼を言いたかったんだ。ありがとうって。
ベンの知る限り、記憶を失ってからのシャンクスは剣を持っても以前のような迫を出すことはなかった。しかし子供達が見たのは、どちらかといえば自分たちが知っているシャンクスではないか。賊を相手の立ち回りは、『赤髪』を髣髴とさせる。
だからといって記憶の一部あるいはすべてが戻ったと考えるのは早計だろう。昨夜の言葉がどういう意図で発せられたかにしても、だ。
疑問は山積みである。
ベンは顔を上げた。硬質な、何かを打つ音を聞いたのだ。音源が窓辺だと気付くと、外を覗いた。首に筒を下げた鳥が窓ガラスを突付いていたのだと知れる。
あの男が使っている鳥とは違うなと思いながら筒の中の紙を取り出す。手紙の差出人は、リックだった。意外に思いながら書面に目を走らせる。
「ベンさん、誰からだい?」
「リックだ」
「リック? さては、船で何かありやがったな」
剣呑を隠さぬ医師の言葉通りであった。手紙には短く近況が綴られていたが、船内の雰囲気に不穏があることを明確に伝えてくれている。
「……最悪、船を下りる奴が出るかもしれねェな」
「バカ言うなよ、ベンさん」
「現実的な問題の話だ。ただでさえ二ヶ月以上も頭が不在なんだぞ? 普通の海賊団ならとっくに造反が起こってもおかしくはねェだろう」
憤るギーフォルディアとは対称的に、ベンは落ち着いているように見えた。
ここまで造反が起こらなかったのは、ひとえにシャンクスという人間に惹かれた者たちが彼の帰りを慎ましく待っていられたことと、幹部の手腕だ。それも限界が訪れているということだろう。無理もない。ベンにしてみれば、よく保ったほうだと思う。
手紙は悲しい声を上げ、ベンの掌に潰された。理性と感情は別物だ。
誰も責められない。八つ当たりとわかっていても、誰かを責めることができたならもう少し楽になれただろうか。いや、きっとそうではあるまい。
「一度、船に戻りてェ所だが……」
「逆効果になることもありえるな」
元気付けたり様子を見るためだけであっても、シャンクスの具合に進展がないとわかれば、燻っている火は炎と燃え上がってしまうかもしれない。それは避けたい。
「実際、皆良くやってくれていると思う。よく耐えてるよ」
「あんたもな、ベンさん」
グラスを持った手でベンを差し、愛嬌とばかりにウインクまで寄越す。
「副船長のあんたも相当頑張ってるぜ。それこそ最初に造反起こしても不思議じゃねェ立場なのに、こうしてお頭が戻ってくるのを待ってる。よっぽどお頭に惚れこんでなきゃ、できねえよな」
勿論ほかの連中も同じさとギーフォルディアは言葉を継ぐ。
「ちょっとでも変化の兆しが見えたんだ。これを足がかりに解決の糸口を掴もうじゃねェか。連中だってお頭が戻りゃ変な気だって消えらぁな」
暗く考えても仕方がないから、前向きに考えよう。
いくらでも悲観的になれる状況だが、船医がそういった発言をしたことは今までにない。それに救われたことは何度もある。
船医の言にベンは深く頷いた。
二人とも、この後に事態が急転するとは、まったく予想をしていなかった。