剣の稽古などができず、体を動かすことが少なかった日の夜は、寝付きが悪くなる。半月のその夜も、シャンクスはベッドの上で何度も寝返りをうっていた。
明日は近頃ひょんなことで仲良くなった村の子供たちと、山へ遊びに行く約束をしている。今まで自分以外の子供と知り合ったことも遊んだこともなかったシャンクスにとって、彼らは未知なるものだ。未読の本を読むように、新しい刺激に興奮させられる。もしかしたら寝付けない理由の何割かは、翌日の探検に思いを馳せているせいかもしれない。
レンブラントは、今までのように家の敷地から出ても怒りはしない。それが今までと一番の違いだと、シャンクスは思っている。屋敷から遠く離れた土地だからだろうか。それとも、いつもレンブラントが言っていた「こわいもの」が、もういなくなってしまったのだろうか。それとも――レンブラントが、レンブラントではないからだろうか。
ギーフォルディア医師に「事実を知る決意ができたら訊きに来ると良い」と言われ、すでに十日ほどが過ぎている。シャンクスはまだ決心がつきかねていた。十四の自分には負いきれるものではないように思う。それでもシャンクスなりに事態を重く見ていたし、自分が間違っているなら正そうと、一人になった時には自分の体を観察した。
体は自分の記憶より大きく、左眼の上には覚えのない傷がある。この体の本当の自分自身が今こうして物を考えている自分のものではないことは理解したつもりだ。医師の言う通り何らかの事故があり、その結果十一年分の記憶を失ってしまったのだろう。その原因まではわからなかった。探ろうとすると厚い壁にぶつかるように、記憶に拒否されてしまう。
今の自分では駄目なのだろうか。
正直、真実を知るのは怖い。自分の傍にいるのががレンブラントでないなら、居場所を聞いて会いに行けば良い。それだけのことをどうしておびえてしまうのか、まったく説明できない。真実を聞いても記憶が戻る保証はないと医師は教えてくれた。そのせいにしてもいいのだろうか。
いや、とシャンクスは自分の考えを否定する。おそらく二十五歳の自分は、レンブラントがどこにいるのかを知っている。それがわかっているから、今の自分は知りたくなくて目を逸らす。
このまま、ここで暮らしていたいと思うのは、罪であり悪なのだろうか――。
悪ではないが、罪かもしれない。
二十五歳のシャンクスを待つのは、きっとギーフォルディアだけではない。あの海賊船に乗っていた人たちもそうなのだろう。そしてレンブラントだと思っている人物。あの男もまた二十五歳のシャンクスを待つ者のひとりなのだろう――本当にレンブラントではないなら。
シャンクスは深く溜息を吐いた。
――自分の傍にいるのは一体誰なのか。
レンブラントでないなら、居場所はない。ここに居るべきではない。疑いを持って彼を見ていると、たまにシャンクスの知らぬ表情をしている。表情だけではない。考えてみればレンブラントには喫煙の習慣はなかった。意識してみていると、彼は良く細い葉巻を吸っているのだ。自分が長く眠っている間にそんな習慣を持つようになったと考えられなくはない。むしろそう思いたい。自分が見ているレンブラントが別人なのだと認めるより楽だからだ。
楽にばかり逃げていてはいけないと思っていても、認めてしまえば崩壊してしまう。予感ではなく確信だった。そんなことは怖くてできない――。
ふと窓の外に目をやると、月はだいぶ傾いていた。少し考えごとをしていたと思ったが、予想に反して時間は相当流れていたらしい。
喉の渇きを覚え水を飲もうとしたが、生憎水差しの中は空だった。台所に行こうとベッドを抜け出し、ドアを細く開けたところで、人の話し声がするのに気付いた。わざと抑えた会話は内緒話を連想させ、会話のないように興味を引かれる。息を潜めて二人の会話に聞き耳を立てた。幸い、二人がシャンクスに気付いた様子はない。
「そんなに早く来れるもんなのかい?」
「あの男が言うんだから、来るといったら来るだろう。俺としては調べが早く終わったことのほうが意外だ」
「早いほうがありがてぇけどな。他には何か言ってたかい?」
「『目を背けたいほどの真実というのも、この世にはあるものだと知った。他人が思うのだから、体験した彼自身がどうなっても不思議はない。』あの男にしては珍しく抽象的で長い文章だな」
「そうなのかい? まぁ、細かいことは来てから話すってことだァな……」
「そういうことだ。問題は、その後どうやってお頭に話すか、か……」
「下手を打つと錯乱するかもしれねェな。まぁそのあたりも、まずは報告聞いてから決めようや、ベンさん」
今日はもう遅いから眠ろうと二人が席を立つ気配を感じ、シャンクスは慌てて静かにドアを閉めてベッドに戻る。
今、二人が話していたのは何のことだろう。近々来る予定の客は、どんな人なのだろう。レンブラントとどうう関係があるのか。目を背けたいほどの真実とは、いったい何なのか。自分に関係があるのだろうか。
考えながら、シャンクスは眠った。今すべきことは明日のために睡眠をとることだと、自分に言い聞かせながら。
翌日、シャンクスは森へ出かけていた。村で仲良くなった村の子供たちと一緒である。
シャンクスは外見だけはとうに大人だったから、子供らにしてみれば「子供だけで行ってはいけない」と戒められている森に入るにはうってつけの同伴者であった。もっとも子供らが懐いている理由は、それだけではない。
「何暗い顔してるんだよ、シャンクス」
子供三人を連れた中、その中でも一番年長の子供がシャンクスの顔を覗き込んだ。ケントという少年だ。現在のシャンクスにしてみれば彼のほうが年長だが、少年のほうはそれを知らない。
歩みを止めず、シャンクスは吐息した。少年が「悩みがあるなら聞くぜ?」と言葉を重ねる。大人びた口調は、兄弟の年長だからか。
話してみようと思ったのは、他に心置きなく話せる相手がいないからだ。考えてみれば、レンブラントや船医以外に相談するという方法があることも忘れていた。何か違う意見が聞けるかもしれない。
「……どこから話したらいいのかな」
「わかんねェ時は、思いついたことから話すといいぜ」
腕を組んでもっともらしく言う言葉になるほどと頷き、
「ええとね、驚かないで欲しいんだけど……オレは今十四なんだけど、本当の歳は二十五なんだって。ええと、つまり、十一年分の記憶が吹っ飛んじゃってるみたいなんだ」
「……なんだそりゃ」
わけがわからない、という表情でシャンクスを見上げる。たしかにそうだろう。言い方も悪かったかもしれない。
「えーと……本当はオレ、二十五歳らしいんだけど、今こうやって喋ってるオレは十四歳なんだ。十五から二十五歳までの記憶が、事故か何かに巻き込まれて、なくなったらしいんだ」
「キオクソーシツってやつか?」
「そう。で、十一年分の記憶がないから、オレは自分がその間に何をしてたのか知らなくて。今一緒にいるレンがレンじゃないってことを遠回しに、医者に教えてもらったんだけど……どうにもわからなくて……」
深い溜息は足元に落ち、天気に似合わず陰鬱に澱んだ。ケント少年は気遣わしげにシャンクスを見つめている。
「そりゃあ……大変だよなあ。オレなんか、昨日のこと忘れただけでも母ちゃんにぶっとばされちまうぜ」
「大変なのか、実感はないよ。目が覚めた時に周りにいたのが知らない大人ばっかりで、それはびっくりしたけど」
「じゃあ、その人たちに聞かなかったのか?」
「そういえば……聞いてない」
レンブラントがいないことだけが不安で、レンブラントを見つけてからは彼のことだけでいっぱいになってしまって、満足してしまったから。本当の自分が二十五だというのも、つい最近までわからなかったくらいだ。船医が教えてくれなければ、今でもわからなかったに違いない。
とはいえ、知らない人間に自分のことを聞くというのは、なかなかできることではない。それに今は離れている。ケントもその点には納得してくれたようだった。
「他にほんとのシャンクスのこと知ってる奴、いねェの? 友達とかさ」
「うーん……聞けば、教えてくれるって人はいるけど」
船医――ギーフォルディアは、シャンクスが覚悟を決めれば彼が知る限りのことを教えてくれるという。十五から二十五歳までの記憶。知りたくてもいまだに勇気がもてない。
「なんで?」
先ほどと同じように、少年は不思議そうな目で見つめてくる。
「シャンクスは自分のこと、知りたくないのか?」
真っ直ぐな眼差しを受け止めきれず、俯いた。
知りたくないわけはない。何しろ自分のことだ。二十五に至るまで自分が何をして生き、海へ出たのか。海に何を求めたのか。どうして陸を離れたのか。――レンブラントの傍を離れたのか。
それを知れば、おそらく今一緒に暮らしている男がレンブラントではないということの説明はつく。けれどもそれは――
「怖いんだ」
「怖いって、何が?」
多分自分は彼がレンブラントではないと、本当はわかっている。認めたくないのは、レンブラントが自分の傍に居ない理由を知りたくないのだ。
理由を知るのが、怖い。
「わっかんねェなァ」
まあおれはシャンクスじゃないから仕方ないけどとケントは言葉を足し、頬を掻いた。
「そしたらさあ、本当のレンって人が可哀想じゃん」
「……え?」
少年の言葉に、シャンクスは彼を見た。
「だから、今一緒にいるのがレンって人じゃないなら、本当のレンはどっかの町で暮らしてるのかもしれねェだろ? シャンクスに会いたがってるかもしれねェじゃんか。忘れてたら会いにいけねェままだろ。おれはそっちのほうが嫌だな」
驚きに目を見開き、真面目くさった表情をしている少年を見つめる。そんなこと、考えたこともなかった。
「それにさあ、今一緒に暮らしてるやつがレンじゃないなら、そいつも大変だと思うぞ。おれ、前に向かいのおばさんの赤ん坊の子守りしたことあるんだけど、その赤ん坊、あれを母ちゃんと間違えておっぱい吸おうとしたがったんだよな。おれは母ちゃんじゃねェのにさぁ。結構困ったぞ。
そいつも、もしかしたら困ってんのかもしれねェじゃねえか。おれが言えた義理じゃねェけど、誰かに迷惑かけるくらいならさっさと本当のことを聞くなり、思い出せるもんなら思い出したほうが……」
少年は言葉を止めると身を強張らせた。シャンクスの海より深い青の瞳からぼろぼろと涙が零れていたからだ。昨日自分が弟を泣かした時に父親から食らった鉄拳制裁を思い出し、取り乱す。
シャンクスは今十四だというが、周りはそう見ないだろう。だとしたら、鉄拳以上のどんな制裁を食らうか知れたものではない。日頃から母親に「あんたはいつも一言多い」と叱られていたことが頭をよぎる。弟を泣かせた言い訳も父親への文句も、そのために制裁を重くしてしまったようなものだ。意識してのことではないが、言い過ぎてしまったかもしれない。弟妹はともかく、シャンクスを泣かせるつもりなど毛頭なかったのに。
「わ、悪かったよ。なあ、シャンクス――」
前方から悲鳴が聞こえたのはその時だ。
少年ははっと我に返り、周りを見回す。連れて来ていた弟と妹の姿が見えない。
「あいつら! 兄ちゃんの目の届かない所には行くなって言ったのに……!」
反応はシャンクスのほうが早かったかもしれない。急がなくてはと思うより先に、二人とも駆け出していた。