I don't mind, If you forget me.

3

 我侭を言い、その夜はレンブラントとベッドに入った。普段広く感じるベッドも、――今までそんなことを感じたことはなかったが――二人で入っているせいか奇妙に狭苦しく感じた。
 それでも別々に眠る気にならないのは、またあんな夢を見るのは絶対に嫌だったからだ。
 薄ら香る煙草の匂い、傍らにある体温。
 いつもより早く寝つけたのは、安心したからだろう。
 
 そうしてまた、夢を見る。
 
 見覚えのある庭は、レンブラントと二人で住んでいた家の庭だ。春の花がそこここで咲き、夢にもかかわらず甘い香りに包まれそうな錯覚に陥る。
 周りを見回したが、レンブラントの姿はなかった。代わりのように、枝垂れ桜の下に男が立っている。シャンクスと同じ、赤髪の男だ。シャンクスが声をかけるより先に、男はこちらを振り向いた。
 目が合うと、シャンクスはひどく驚かされた。彼は自分に良く似ていたからだ。ただし少年のシャンクスよりずっと背は高く、左眼の目蓋より上から頬にかけて三本の傷があり、口の周りや顎には髪と同じ色の髭が薄く蓄えられていた。
「痛くないのか?」
 思わず訊くと、彼は微笑して己の傷に指で触れた。目の上を走る傷のことを言ったとわかってくれたらしい。
「昔の傷だ。痛くない」
「本当?」
「ああ。触ってみな。血も出てないだろう?」
 男に近寄り、恐る恐るその傷へ手を伸ばす。傷は額から目蓋の上を走り、頬へと到達していたが、男の言う通り、指先に触れるのは傷の凹凸ばかりで、血など流れていない。眼球にも傷はいっていないらしく、空より深い色の瞳がじっとシャンクスを見つめていた。
「痛かった?」
 シャンクスの言葉の意味を掴みかねたのか、男は微かに首を傾げた。シャンクスは言葉を継ぐ。
「怪我した時、痛かっただろう?」
「そうだな……でも痛いとか言ってる場合じゃなかった」
「どうして?」
「戦いの最中だったから」
 それに、と男は笑いながらシャンクスの頭を撫でてくれる。その手は荒れて硬かったが、これが夢であるにもかかわらず、確かに暖かいと感じられた。
「こんな怪我より痛ェことは、他にもある」
 だから泣き言など言っている場合ではなかったのだ――戦場では。
 言い切る表情には、相手を引き込む魅力がある。シャンクスはじっと彼の顔に見入った。
「守るものがあるから、夢があるから、ただ前に進まなきゃならねェ。迷ったり躊躇ったりしている暇はねェんだ」
「守るもの? 夢?」
「ああ。――おまえのことも、守ってやるつもりだったんだけどな」
「オレのことも?」
 シャンクスは目を瞬いて男を見上げた。何度改めて見つめても、この男のことは知らない。顔や髪の色があまりに同じなので、あるいは血縁者かしらとも思ったが、血の繋がりがある人間は一人もいないと、母親が生前に言っていたことを思い出した。
 では、レンブラントの友人だろうか。シャンクスはすぐにその考えを否定した。彼の友人ならば一人知っている。その男はレンブラントと同じ黒髪だった。彼以外に友人はいないのだと、レンブラントは自分に言った。
「おまえは、誰だ? オレのこと知ってるのか?」
「よく知ってる」
 シャンクスは男の瞳が自分と同じ色をしていることに今更ながら気付いた。ただ、彼の瞳の奥はわずかに昏い。言い表しようのない悲しみが湛えられているように思えた。
 この人は一体誰だろうと想像を巡らせるより先に、男が解答を与えてくれる。
「オレはおまえの知らないおまえの痛み、おまえの悲しみ、おまえの苦しみ、おまえの傷、おまえの弱さを抱えている。おまえはオレ、オレはおまえだ。この姿は、本当の今のおまえの姿さ」
「?……よくわからないよ」
「おまえは事実から、現実から目を逸らし続けている。そうさせたのも望んだのもおまえだし、オレだ」
 それほど衝撃が大きかったんだな、とシャンクスにわからぬことを言いながら、また頭を撫でてくれた。
「何の話だ? わからない」
「わからない? それは見るべきものをあるがままに見ていないから。真っ直ぐ見てみな。目が覚めた時、おまえの傍にいるのは、一体誰なのか……」
「え?」
「きっと本当のことがわかる時が来る。おまえが嫌がっても必ず来るんだ。それは嵐よりも避けられない事実さ。今はその時じゃねェから、何を言ってもおまえはきっと忘れるだろう。忘れてもいい。その時が来るまでは」
 謎かけのような言葉の真意を問おうとしたが、できなかった。視界は再び、闇に閉ざされてしまった。
 
 
 
 レンブラントと一緒に眠って、悪い夢は見なかったが寝覚めは良くなかった。おまけに朝食後、レンブラントは食料を買いに少し離れた街へと出て行ってしまったのだ。
 せっかく剣の稽古をしてもらおうと思っていたのに。シャンクスの調子は狂ってしまった。
「ご機嫌斜めかい?」
 ダイニングテーブルで読書をしていると、五十を幾らか過ぎた男がマグカップを渡してくれた。立ち上る湯気の匂いを嗅ぐと、ほんのり甘い。素直に礼を言うと、大きな手で頭を撫でられた。ふと既視感に捕われたが、どういう類のものか口で言い表すことができなかったので、シャンクスはそのまま黙ってマグカップに口を付けた。
 中身はミルクたっぷりの紅茶だった。船ではとてもじゃないが味わえない贅沢品さと男は笑った。彼は海賊船の船医なのだ。シャンクスもそれを知っている。紅茶の中身が甘いのは、砂糖ではなくどうやら蜂蜜らしかった。飲むと、ささくれていた心が落ち着くようだった。
 隣に腰掛けた男を見上げる。がっしりとした体格に精悍な顔、短く刈り込んだ髪には白いものもだいぶ混ざっている。初めに会った時、彼はギーフォルディアと名乗り、船医なのだと教えてくれた。彼の仲間は彼のことを敬愛をこめて『ドクトル』あるいは『ドク』と呼ぶのだ、ということも。豪快でレンブラントとはまた違う優しさを持つ船医に、シャンクスは懐いていた。だからこの日の憂鬱をドクトルに話すことを躊躇ったのは、ほんの数秒だっただろう。
「……変な夢、見たんだ」
「変な? 怖い夢じゃないのかい?」
「うん」
 シャンクスは頷くと「あんまり覚えてないんだけど」と前置きし、説明を始めた。
 夢の中で自分と良く似た人物――ただしその人物は十四の自分より背が高く、顔に傷や髭があった――と遭って驚いたこと。「おまえはオレ、オレはおまえだ」と告げてきたこと。真実から目を背けていると言われたこと……。
 シャンクスが話し終えると、ギーフォルディアは難しい医学書を読んでいるような表情をした。
「おまえさんは、どう思ったんだい? 夢の中の自分と思われる人物にそんなことを言われて」
「……正直、よくわかんなかった」
 夢に現れた男が、大人になった自分なのだということは、なんとなく理解もしたし納得もした。しかしあの男の姿が今の自分だといわれたことは、にわかには信じがたい。
「オレが、オレじゃないって。どういうことなのかな。今のオレは、偽者なのかな」
 マグカップを包み込むように持ち、俯いて呟くと、勢いよく頭を撫でられる。危うく椅子から落ちる所だった。
「ドクトル?」
 見上げると、予想外にも真剣な表情で船医はシャンクスを見つめていた。咄嗟の言葉も出ず、船医の鳶色の瞳を見つめ返すしかできない。「もし、」
「おまえさんが本当に本当のことを知りたいと思って、その覚悟ができたなら、色々なことを教えてやれる、と思う」
「……オレは、オレじゃないの?」
「おまえさんが『シャンクス』なのは間違いない。容姿も間違いなくな。ただ――前にも言ったが、おまえさんは覚えてないようだな――おれたちの知ってる『シャンクス』って男は、二十五歳なんだ。本来二十五歳であるはずのおまえさんは、記憶喪失で十四から二十五までの記憶をさっぱり無くしちまったってわけさ」
「記憶喪失……?」
 頷くと、船医はシャンクスの左手を取った。そして左眼の上、額から目蓋、頬のあたりを触れさせる。シャンクスの指先に、なにか皮膚にひっかかるような感触があった。それは夢の中の自分に触れた時と同じ――
 事実を掴みかねるシャンクスに、船医は優しい口調で言う。
「十四のおまえさんには、そこに傷はなかっただろう? その傷は、おまえさんが二十になる前についた傷だと、おれは以前聞いたことがある」
 シャンクスの耳には届いたが、脳は処理しきれていなかった。船医はシャンクスの様子でそれを察し、暫くは何も言わず赤い頭を撫で続けてくれた。
 足元から、自分の何かが崩れていくような錯覚に、シャンクスは襲われた。
 
 レンブラントが帰宅したのは、夕食より少し前だった。それからずっと、シャンクスはレンブラントの傍を離れずにいる。目の前にいるレンブラントが、本当にレンブラントではないのかを確かめるためではない。『レンブラントではない』ことを否定するために彼の傍にいて、彼を観察しているのだ。
(レンが、レンでなかったら)
 現実はどうなっているのだろう。
 二十五歳の自分の傍に、レンブラントは居てくれていないのだろうか。居ないのなら、彼は一体どこにいるのだろう。当然、記憶をなくす前の自分なら知っているはずだ。
 自分の身に起きた出来事だから、知りたくないわけがない。しかしそう思えば思うほど、知りたくない気持ちも高まってゆく。
 船医もあれ以来、何も言ってこない。シャンクスの中で決心が固まるのを待ってくれているのだろう。
 それがいっそう、恐怖を増させた。
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