九月二十三日、曇。
この静かな山村へやってきて約一週間。回復の兆しは現在のところ、見受けられない。とはギーフォルディア船医の談。
この村へ逗留してから、悪夢にうなされている様子が何度かあった。夢の内容は本人が話さぬため不明。一人で眠ると見るようだ。情緒不安定か。
彼は相変わらず俺のことを「レン」と呼ぶ。彼が物心つく前から同居していた男らしいが、彼との詳しい関係は不明。この件に関しては、鴉が勝手に調べている。調査は難航している模様……
ペンを置くと、ベンは深く息をついた。己の書いた文章を読み直す。航海日誌はヤソップに預けてきたので、代わりの、いわゆる普通の日記のようなものを書き留めていた。後に残すことは考えていなかったが、少しでも何かに吐き出さねば己の体がもたないだろう、と船医に勧められて始めたのだ。
「おれに言えねェようなことでも、紙になら書けるだろ」
無論お互いにだぞと四十半ばの船医は豪快に笑ってくれた。万一シャンクスに見られることがないようにと、鍵付のノートをくれたのも彼である。
気遣いに再び心の中で感謝しつつ、ぱらぱらとページを捲った。二センチほどの厚さのノートは、既に二十ページ以上が文字で埋まっていた。愚痴を吐くと言うより、日誌のように日記を綴っているから長くなるのだろう。細かい変更も書き留めていた航海日誌の癖は、なかなか抜けないものらしい。
航海日誌で、ふと仲間を思い出す。ヤソップに託したは良いが、彼はきちんと書いてくれているだろうか。存外細かいことを面倒がる男なので、もしかしたらリックあたりに押し付けているかもしれない。ベンとしては、読める字で明瞭に記してくれてさえいれば、誰が書こうと気にしないのだが。
「こっちのことはおれたちに任せて、あんたはお頭の面倒だけを見てろよ」
シャンクス、ベンという海賊団のNO.1とNO.2が一時とはいえ仲間から離れることを決めた時、仲間のまとめ役を買って出てくれた狙撃手は、肩を叩いて笑ってくれた。同じように、 ルゥは肉をかじりながら、リックは海賊旗と同じマークを刺繍した帽子をかぶり直しながら、アディスンは薄く色の付いたサングラスをわざとらしくかけ直しながら、それぞれ後のことを請け負ってくれた。
長く苦楽を共にした仲間だ。加えて彼らは仲間の心を掌握するのが上手い。とはいえ荒くれた男たちが大人しく何十日もただ待つことができるはずもないと承知している。そのための打ち合わせも、二日をかけて行った。
彼らの元を離れた今は、彼らを信頼し、続けるしかできない。おそらく彼らも同様で、シャンクスがまた無事に戻ってくることを願い、ベンを信頼しているからこそベンと船医にシャンクスを預けることを了承したのだ。
ところが現実には、ベンにできることなどほとんどない。怪我のリハビリに剣の相手をするというのならばともかくも、記憶は当人の問題だ。下手に外野が刺激して間違った過去を捏造してしまうのは避けねばならない。だからベンは自分が積極的にしなければならないことは何もないと、結論付けてしまった。初めから想像がついていたことだが、実際に直面すると身に堪えるものだと、七日日の間に深く実感した。
自分に何ができるのか。
村に着いてから毎日、ベンは己に問うていた。
ベンがシャンクスに呼ばれたのは、夕方前のことだった。
本日は一日中ずっと読書に励んでいたらしく、ソファに座る彼の足元には数冊の本が積まれている。村に入る前、船を停めた港で買い入れた本と、船から持ってきた蔵書だ。村に滞在する間、気晴らしにと思ったが、シャンクスがはまり込んだのには驚かされた。元来本を好んで読むような性質の男ではないと思っていたからだ。
実際、船ではシャンクスが本を読む姿をほとんど見たことがない。それでも思い返してみれば、昔は本を読んでいたらしい会話の幾つかを思い出すことができるのだが。
本の山から、シャンクスは二冊の本をベンの前に示した。『三国演義』と『反三国志』である。古代に東の海で栄えて国の歴史小説だ。ベンも随分以前に読んだ記憶があった。膨大な人物たちのドラマと、繰り広げられる知略を尽くした戦争に、少年だった頃は胸を躍らせたものだ。その数年後に読み返した時には、別の感想を抱いたのだが。
「面白かったか?」
「面白かった。でも、わかんないことがあって」
「なんだ?」
「『反三国志』の作者は、自分が書いたことのほうが正しいと思って書いたわけじゃないんだよね。『三国演義』とか正史の話が気に入らなくて、これを書いたんだよね?」
「そうだな」
『三国演義』は正史を基盤に書かれ、勢力の弱かった西国を善玉として判官贔屓気味に興亡を悲劇的に書いているのに対し、『反三国志』は判官贔屓も極まれりといった展開で、歴史的には一番有力な北国に滅ぼされた西国が、北国・南国を打破して天下統一を為す。当然『三国演義』での西国の涙をそそる見せ場はなくなり、快進撃のみが続く。西国贔屓は溜飲を下げるのかもしれないが史書を知る者から見れば失笑ものでしかない。『反三国志』の作者が熱烈な西国贔屓とあれば尚更だ。
荒唐無稽な話ではある。読み物としては面白いだろう。
シャンクスは二冊の本に目を落とした。
「どうしてなんだろう、って思ったら、レンに聞きたくて」
笑う顔は確かにベンの知るシャンクスなのだが、笑い方は記憶のそれより幼い。当然といえば当然か。彼は今、外見はともかく――中身は十代半ばなのだから。
ベンはシャンクスの前に腰を下ろすと、本の表紙を撫でた。
「『反三国志』の作者は、『三国演義』の西国が好きだった。両方の本には、作者が好きな国が善、最終的に残った国を悪と捉えて書いているから、善の国を好きになるのが一般的だろうな。けれどもその国は、三国の中で一番早く滅んでしまう。これっはその国が好きだった作者には耐え難いことだった。普通の人間なら悪い国を憎み、好きな国を贔屓にするだけに留まるだろうが、『反三国志』の作者はそれに留まらず、皆に同意を求めたかったんだろうな。あるいは、認めたくなかった」
「どういうこと?」
「俺たちの好きな国がこの三国を統一するなら、こうなっていたはずだ。あんな国に負けて滅ぼされるなんて冗談じゃない、ってな。極端な言い方をすれば、事実から目を逸らして、自分の都合の良いことを他人にも押し付けたかったんだろう」
自分の発言に、ベンはどきりとした。自分が彼に言いたいことを言っているかのような錯覚を受けたからだ。
事実から目を逸らし自分の都合の良いことを他人に押し付ける――。
それはまさに今のシャンクスの状態ではないか。
(いや――)
違う、と即座に否定する。シャンクスは記憶を失っている。外見はどうあれ、中身は十四歳の少年でしかない。だからベンとは出会っていないし、知らないのだ。そう考えれば、ベンと誰かを取り違えても仕方がないのかもしれない。
(違う)
仕方ないわけがない。
シャンクスは故意に――彼がそうと意識しなくても無意識下で――ベンをレンブラントと取り違えて認識しているからだ。
しかしシャンクスはベンの内心を他所に納得したように頷いただけだった。その様子にほっとしつつ、苛立ちを覚えたのはきっと自分の身勝手なのだろうと、ベンはシャンクスに気付かれぬよう深く息を吐いた。
質素ながら船医が腕をふるった夕食をとった後、自室に戻ると細巻きの葉巻を一本吸った。
一軒家にいい年をした、それも堅気には見えない男が三人で住むのは奇妙で目立つ。田舎であればあるほど目立つことを覚悟しなければならないが、この村の人間は温暖で安定した風土のせいか、誰もが気さくで善人が多い。目立っているには違いないが、ことさらそれを詮索する人間はいなかった。
しばらくはこの村にいられるだろう。しかしあまり長居はできまい。近くに海軍支部のない土地を慎重に選んだが、人の口に戸は立てられぬ。いつか町へ行く村人の口から、左眼の上に三本傷がある男のことが漏れ、海軍に届くとも知れない。気休めにシャンクスの髪は染料で変えたが、果たしていつまで保てるだろう。
(それまでに記憶が戻ってくれるのが一番良いんだが)
紫煙とも溜息ともつかぬものが、唇から漏れる。期待して楽観する気には、とてもなれなかった。気分を変えて酒でも飲もうと、部屋からリビングへ出た。
「よぉ。ベンさんも飲むかい?」
ギーフォルディアが気安い調子で片手を上げ、グラスを用意してくれる。礼を言ってグラスを受け取ると、なみなみと注がれた。黄がかったアルコールの正体は、ジンのようだ。すっきりした苦味が口中に広がる。つまみは炒った木の実のようだった。
「残りの連中は元気かねえ」
顔をほとんど動かさずに、グラスのジンを呷る。ベンは頷いた。
「ヤソップたちがうまくやってくれてるさ」
「だァな。羽目外してなけりゃ良いが……あんまり長くかかると、待ってるだけの連中も焦れるだろうなァ」
「……俺も、連中と変わらねェよ」
ベンの言葉に船医は怪訝な顔で首を傾げる。ベンは自嘲を口の端に浮かべた。
「待ってるだけだ。何もできねェ」
船医は顔を顰める。
「それを言うなら、おれも似たようなもんだ。医者だからって、何ができるわけでもねえ。……ベンさんらしくねェ弱気だな」
「そりゃ、弱気にもなるさ。ドクと話さねェと、俺は俺自身を疑う。俺は本当にベン・ベックマンなのか、ってな」
「全部を丸々失ってるわけではない、ってあたりがまだ救いだとは思うがね」
今度は船医が苦笑する番だった。しかし笑い事ではないことは、船医も承知している。『赤髪海賊団』の副船長が心身ともに頑強な男であるのは周知の事実だ。頭であるシャンクスが行方不明になった時ですら、決して誰にも弱音を吐かず、仲間を叱咤激励してきた。
その男が、弱気になっている。
無理もない話なのだ。
もしベンの立場が自分であったなら、と置き換えてみる。自分を自分として認識されないのは、己の存在を全て否定されるようなものだ。故意ならば良い。話し合うなり喧嘩するなりで決着がつけられるだろう。
シャンクスが故意にベンを他人と取り違えているはずはない。そうする理由がないし、無益だからだ。無益どころか、害ばかりである。だから故意ではありえない。
「丁度良い、わかってることをおさらいしてみようか。見落としがねェか確認するぞ」
グラスを置くと、船医は太い指を折った。
一。シャンクスは記憶喪失である。
二。彼自身の言によれば、彼は現在十四になりたての少年である。
三。十四〜二十五(現在)までの記憶がない。
四。記憶喪失の原因は、薬物もしくは心因性あるいはその二つの乗算による。
五。シャンクスはベンをベンとして認識していない。
六。ベンのことをレンブラントという人物だと認識している。
七。その他の人物に関しては誤認していない。
「疑問点は二つかな?」
一。レンブラントとは何者か。
二。ベンをレンブラントと誤認しているのは何故か。
「何度かお頭には『あの男はレンブラントじゃなくベンだ』とは言ってみたんだがな、どうにもわかってもらえてねェんだよなァ」
溜息をつき、手酌でジンを注ぐ。ベンも無言で酒を呷っていた。
「いくらベンさんがレンブラントって奴に似てるにしても、一卵性双生児でもない限り、間近で見りゃ違いはわかるはずだしなァ……視力や色覚に異常もなかったし」
レンブラントという人物の写真でもあれば相似性がわかるだろうが、無理な話だ。当人が強く思い込んでいるのを正すのは難しい。
「一番いいのはレンブラントって奴を実際に引き合わせることだろうが……ベンさんはそいつについて、何か知らねェのかい?」
「一緒に暮らしてる――いや、暮らしていたということくらいか」
「父親かい?」
「いや、そうではないらしい。養い親、というのが近そうだが……」
ベンは顔を顰め、左のこめかみを指先で揉んだ。以前、どこかで聞いたことがあった。誰に聞いたかなど考えるのも愚かなこと。
問題は、レンブラントに関するどんなことを聞いたのか。聞いたのはずっと前だ。薄ら思い出せるシャンクスは、今よりまだ若い。少年の面影がまったく消えていない。きっと彼の仲間になって早々の頃だったのだろう。
ふとベンは愕然とした。気付いたのだ。何故今まで気付かなかったのかは、気付かなかったからと理屈の通らぬ言い訳をしなくてはならないが――それはともかく、気付いたのだ。それまで海軍将校として海賊の捕縛に血道をあげていた自分が、どのような経過を経て海賊であるシャンクスの仲間になったのか、まったく思い出せぬということに。
軍から賊への転進が、記憶に残らぬ瑣末事であるはずがない。そんな大切なことまでを忘れてしまっていたのかと、己の記憶中枢を呪うしか術はない。思い出せるものならこの場で即刻思い出していた。それほど重要だという確信だけはあった。それとこれは繋がっているのだと、頭の奥が割れ鐘を打ち鳴らすように知らせてくれている。
記憶の引出しの奥に挟まって出てこないそれが、もどかしくて仕方がない。いつかのような焦燥感を、また味わう羽目になるとは思わなかった。
物事の一から十まで――産まれてきた時から今までの記憶のすべてを思い出したいとまでは思わない。必要ないからだ。しかしこの件に関してはどうしても、聞いたはずのことだから思い出したい。シャンクスの記憶の欠落と関係があるから思い出したい。知っていたはずのことだという核心だけがあるのがもどかしい。シャンクスに関することならなんでも、知っていたはずなのに。
記憶喪失は完全に治るものではないのかと、ベンは吐息した。だからといってそれを言い訳に過去を思い出そうとする努力を怠ろうとは思わない。
「……好きだから一緒に暮らしてるんだよってレンが言ったんだよ、と言ってたな」
「母親は小さい頃に亡くなったらしいな。こっちは実の親らしいから、再婚相手って考えるのが普通だよなァ。謎の一つ目はこれで解けたってことにしとくか」
「細かい所は調べて貰っている」
「素早いね。この前世話になったって奴かい?」
「ああ。仕事は速いし口は堅い。信用できる人間だ」
海軍に在籍していた頃の同僚。全身黒ずくめの小男は当時、鴉と渾名されていた。彼が探って知り得ぬ情報はなく、切れ者で上層部の覚えもめでたい男だった。
今はロイという名の彼が軍を出奔したのは、ベンが海賊になるより早かった。今でも縁が続いているのは偶然だが、今の状況のために偶然が引き起こされたのではないかと穿ってしまうのは、おそらく被害妄想だろう。
「あんたが太鼓判押すなら問題ねェな。レンブラントって奴のことがわかれば、あんたを誤認してる問題が解決するかもしれねェし」
手酌でジンを注ぎ、口付けたグラスを舐めるようにした。ベンはじっと船医の指先を見つめながら、決意を言葉にした。
「ギィ。俺も、失っている記憶の幾らかを、思い出そうと思う」
どういうことかと問われ、ベンは暫し口を閉ざした後に答えた。
「お頭の今の状態が、失った記憶の幾つかがあれば説明できると思う。これは調査を信用してないっていうわけじゃあないが」
「あんたはそれを重要なことだと考えるんだな?」
「おそらくは」
ベンの表情は常よりやや硬く、しかるに決意の強さを物語っているように、船医には思えた。この実直な性質の男が重要であると考えたならば、きっとそうなのだろう。もとより、シャンクスの過去に関して手がかりらしい手がかりは今の所まったくないと言って良い。調査の報告次第では進展があるかもしれないが、ただ手をこまねいているよりは良策だと思えたし、必ずしも不要なことであるとは断言しかねた。
「そうか。そんなら、やってみるといい」
お頭の相手は、なるべく引き受けてやるから。
船医が気安く請け負うと、どちらからともなくグラスを合わせ、鳴らした。