夢はいつも水彩画のように、どこか境界を曖昧にしていた。そして唐突に始まる。夢に規則性を求めても詮無きことだが、近頃見る夢は、大抵同じようなものだった。
大好きな人がいる。
二人で、庭で遊んでいる。
散歩している時もある。
剣の稽古も良くしていた。
この日は、問われた。
「シャンは、どんな人になりたい?」
「強くなりたい」
穏やかな青灰の瞳は、驚いたように軽く瞠られた。シャンクスは彼を見上げたまま言葉を重ねる。
「強くなれば、レンを護れるから」
子供の言葉に、今度は口許を綻ばせる。レンブラントが微笑んだのを見、シャンクスは安心した。
大好きなレンブラントを護りたいというのは、物心ついた時から強く願っていることだった。
レンブラントはいつも風のない晴れた午後のように穏やかで暖かく優しかったが、シャンクスを屋敷の外へ出そうとはしない。普段はレンブラントの言うことを良く守るシャンクスではあるが、好奇心の強い子供は、一度だけ言いつけを破って屋敷の外へ出たことがある。その時はレンブラントのただ一人の友人で、よく屋敷へ遊びに来ていた青年に見付かり、直ちに連れ戻された。そして事態を把握できていない幼いシャンクスに説教をくれたのだ。
「まったく、おめえはレンの努力をまったく無駄にする気か。レンは理由も無くおめえに外へ出るなって言ってるわけじゃねえぞ。遊びたい好奇心旺盛なガキだから気持ちもわからんでもし、家の外で遊べねえのは可哀想だとも思うが、おめえが勝手に外に出ることでレンがどれだけ心配すると思ってんだ」
不意に冒険を止めさせられたことと、その青年に叱られたことには少しばかりの反発心を抱いたが、屋敷へ戻ってレンブラントの前に立たされると、その心も霧散した。
家を出ていたのはたかだか数時間だったが、その間にレンはすっかり憔悴しきっていた様子だった。体調を崩したのかと問いたくなるほどやつれたように見える。眉間には深い皺が刻まれ、すぐに声をかけるのは躊躇われた。
レンブラントが声を荒げて怒るところをシャンクスは見たことがない。ぶたれたこともなかった。それはレンブラントが過保護だからではなく、シャンクスが言いつけに背いたことがなかったからだ。しかし今日、シャンクスは言いつけの中でいつも厳しく言われていることのひとつを、破ってしまった。
叱られるのは間違いない。それは最初からわかっていたはずだ。少なくとも今自分がしなくてはならないことは、レンブラントの前に立ち、言いつけを破ったことを謝罪し、叱りを甘んじて受けた上で彼の許しを請うことだとわかっている。それでも、そのための一歩が踏み出せない。――レンブラントの友人という男も、シャンクスを急かす真似はしなかった。
ややあって、レンブラントは顔を上げた。そうしてリビングの入り口を虚ろな目で見――シャンクスと目が合ったと思った瞬間には立ち上がって、大股にやってくる。ほとんど走っていたが、俯いていたシャンクスには見えなかった。
「良かった……!」
息ができないほど強く抱きしめられ、「苦しい」と抗議しようとしたが、言えなかった。レンブラントが泣いていることに気付いたのだ。
これまでに彼が泣いた姿など、ただ一度しか見たことがない。その時はシャンクスも彼以上に泣いた記憶があるし、誰でも泣くものだと本を読んで知っていたので当たり前だと思っていたし、人生の中でも特別な日だった。
今日はあの日のように哀しいことなど何も無いはずだ。それなのにレンブラントは泣いている。レンブラントの友人が言ったように、自分のせいで泣いているのだとしたら、全面的に自分が悪い。
「ごめんなさい、レン! ごめんなさい……!」
だから泣かないで。
彼の背を抱きしめ返す。彼を守りたいと思っている自分が、彼を泣かせてどうするのか。レンブラントの涙は、平手打ちより遥かに効果があった。シャンクスは勝手に敷地の外へ出たことを猛烈に後悔した。
やはり、外には彼に害を成す悪いものがあるのだ。今のシャンクスでは到底それには敵わないのだろう。だからレンブラントはシャンクスを屋敷から出そうとしない。
いつか、それに勝てるほど強くなれば。屋敷からも出られるようになるし、レンブラントもこんなに悲しむことは無くなる。
だから強くなりたい。
――不意に、世界の色が変わった。
つい今までシャンクスを取り巻いていた明るい色彩は失せ、代わりに色は濁り、重く暗い色調へと変化する。
腕の中の人は、力なく崩れ折れてゆく。
「レン……?」
抱擁したまま床に崩れたレンブラントの顔を覗き込んだ。瞳は閉ざされ、顔色は蒼白。何事が起こったのかと彼の体を起こそうとした。止めろという声が頭の中に響いた気がする。
「レン!」
彼のシャツ、胸のあたりはおびただしい血に塗れている。レンブラントが既に事切れているのは明白だった。血の染みは徐々に広がり、シャンクスの足元に血溜まりを作る。そして、シャンクスの手には血の滴る剣が。
この剣がレンの命を奪ったのか。まさか――自分が?
「レン……嘘だッ!」
死ぬわけがない。これが死体であるはずがない。つい先ほどまで強く自分を抱いてくれていたではないか。
だがどれだけレンブラントの体を揺さぶろうとも、彼は目を覚ましてくれない。穏やかな青灰色の目は、シャンクスを映さない。暖かな声音が名を呼ぶことも無い。優しい指はシャンクスに触れもしない。
嘘だと強く思えば思うほど、情景は現実味を帯びる。
どこかで下品な高笑いが聞こえたような気がして――シャンクスは初めて身の内に殺意を覚えた。
高笑いとは別に、「嘘じゃないよ」と囁く声も聞いたように思うが、視界が朱に染まり脳内が白に染まったので定かではない。
目を覚まし、すぐに体を起こした。世界は赤ではなく黒に染まっている。いや、黒ではない。闇だ。
「……レン……」
腕の中に、呼ばわった人の姿は無い。これは先ほどの続きなのか、それとも現実なのか。
「レン、どこ……?」
声も体も震えている。言い表しようのない不安と恐怖に駆られる。まさか今見ていたものが本当のことで、だからレンは居ないのか。
泣き出しそうになった時、誰かに抱きしめられた。慌てたが、
「シャンクス」
硬直しかかった体が、その声でほぐれる。聞き慣れた、大好きな人の声だと気付いたからだ。腕を回して力いっぱい抱きつき、大きな体の温かさ、血の巡る鼓動に安堵する。
「怖かった」と漏らすと、優しく頭を撫でられた。
「怖い夢を見たのか」
穏やかな声音に頷く。そうして「やっぱりあれは夢だったんだ」と己に言い聞かせた。本当にレンブラントが死んでしまうなんていうことはないのだと。
そうしてシャンクスが落ち着くまで頭を撫でてくれていた手は、今度は寝かしつけてくれる。
「まだ朝まで時間がある。眠るといい」
「傍に居てくれる?」
暗闇に慣れた目で見上げれば、レンブラントはシャンクスによくわからない笑みを浮かべた。
「……ああ。いるから、眠れ」
こくりと頷くと、シャンクスは再びベッドに身を横たえ、目を瞑った。次に見る夢はきっと、あんな夢ではない。レンブラントが傍に居て、あんな夢を見るはずがないからだ。