赤毛と過ごす、二回目の冬。
 日々は貧しくとも暖かく、対照的な色合いの一人と一匹は仲良く月日を重ねていた。いつまでもこんな日が続けば良い。いや、続くのではないか。赤毛と出会うまでは一人ぼっちだった黒猫の願いは、ただそれだけだ。
 
 けれども春の陽射しのように暖かな日々は、いとも容易く崩れ落ちる。
 
 平穏の崩壊は、小さな喧嘩がもたらした。始終を見ていた猫にしてみれば些細なことだったが、赤毛と黒毛にしてみれば重大事らしい。その喧嘩以来、二人の黒毛はすっかり姿を見せなくなってしまった。どちらも週に一度や二度は必ず姿を見せていたのに、ここ一月ほどは電話もない。
 変化は緩やかに訪れる。
「B、おまえはどこにも行くなよ」
 普段決して見せようとはしない弱さを、赤毛は稀に見せるようになった。
 猫としては全面的に赤毛の味方だ。おまえは悪くないよと言う代わりに、手や顔を舐めた。赤毛は少々くすぐったそうにそれを受けたが、表情は精彩を欠いた。
「あいつら、ちょっと過保護すぎると思わねェ?」
 日頃そんな文句をつけながらも今の力ない様子を見るにつけ、やはりこの赤毛にはあの黒毛がいなければならないのだと、Bは理解した。その証拠に、黒毛が姿を見せなくなって以来、赤毛が心から笑う顔をBは見たことがない。
 
 
 
 
 それから数ケ月が過ぎ、赤毛は体調を崩した。今まで風邪すら引かなかったのに、二日もベッドから起き上がれないでいる。
「ごめんな、B。全然相手できなくて……」
 病床にあって、なお猫を気にかける。猫は忸怩たる思いで赤毛の傍らに寄り添った。人であれば看病くらいできるものを、猫たる我が身では彼に食事をとらせることすらままならぬ。もっとも、食料の貯えすらないに等しいのだが。体調を崩したのも、おそらく栄養がきちんと摂れていないせいだ。
 猫は、自分の食い扶持くらいなら外に出れば何とかできる。しかし、赤毛の分はそうもいかない。赤毛は人間の食べ物を食べねばならない。それは猫には到底、調達しえないものだ。
 二匹の黒毛は何をしているのか。
 今まで頻繁に訪れていたのは何だったのか。仲が良かったのではないのか。
 人の心など猫には推し量れないが、ただ黒毛には憤りを感じた。大切な赤毛が弱っている時に現れようともしない、あの雄たちに憤りを覚えた。赤毛に擦り寄って彼の顔や手を舐めることができても、赤毛はかすかに微笑むだけ。笑顔ではない。
 自分では駄目なのだと、猫にはわかっていた。誰なら赤毛を心から笑わせることができるのかも、知っていた。
 
 
 
 
 猫は闇を縫うように走る。走らなければならなかった。一分一秒でも早く。強い思いが、猫の四肢を動かしていた。
 口には小さな紙切れを銜え、細い路地を、車の行き交う大通りを、ひた走る。その姿は影のようであり、疾風のようでもある。
 急いで、急いで届けなくては。時間はない。
 猫は、自身が不吉の象徴のごとく忌み嫌われ、あからさまに嫌悪を向けられ、時に石をぶつけられたり蹴られたことを忘れてはいない。だからなるべく人目につかない道を選んだ。それでも目ざとい人間に見つかり、石を投げられたし休んでいるところを蹴られもした。それでも銜えた手紙は離さなかった。
 何が書いてあるかなど知りようもない。しかし赤毛が必死に届けてくれと言うのであれば、友として果たさなければならないと思う。彼は猫に色々なものを与えてくれた。けれど自分は何も返していない、と猫は理解している。返せるのは今しかない。唯一の友の願いを叶えられなくて、何が友か。
 
 早く。
 早く。
 早く届けなければ。
 
 気ばかりが先行き、駆ける四肢はもつれる。
 空腹は気にしない。道行きにあるゴミ箱を、わずかに漁りはした。泥混じりの水で喉の渇きを誤魔化す。そんな時間すら、惜しい。
 赤毛が震える手でもって何かを紙に書きつけ、猫に託してから四日目の朝を迎えようとしていた。
 誰へ、とは言われなかった。ただ「あいつに渡してくれ」とだけ、掠れた声で頼まれた。黒毛のどちら、とも赤毛は言わなかった。宛先を知らされなかった手紙の届先を、猫は迷うことなく決めていた。
 もつれる四肢を前へ前へと動かす。後ろへと去ってゆく景色をちらりと見送った。
 大丈夫、見覚えのある道だ。もうすぐ、もうすぐ届けられる。
 最後の坂を、気力だけでのぼる。アパートメントの前で、猫は見知った男の姿を発見した。
 猫の首元で揺れるかすかな鈴の音が聞こえたのか、男は顔をこちらへ向けた。すぐに驚きの表情が現れる。
「黒猫……珍しいな」
 不吉と言われる黒猫が足元にすり寄っても、背高い男は嫌悪を見せない。腰を曲げ、猫を見下ろす。
「おまえ……Bか? なんでこんなところに……」
 訝る男の脚に擦り寄ると、彼を見上げた。咥えた紙切れは、破れもしていない。それを足元へ置くと、また男を見上げ、小さく鳴いた。
 失敗だった。
 口から離した紙切れは、風に飛ばされてしまう。迂闊に離すのではなかった。後悔は遅い。なくすわけにはいかない。せっかくここまで来て、赤毛の頼みを不意にしてしまっては、誰より自分を許せない。
 背高い男より早く、猫が反応した。脇目もふらず真っ直ぐ、親友が託した紙へ飛びつく。
「B――!」
 男の声が聞こえたのと、身体に強い衝撃を受けたのは、ほぼ同時だった。
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