rainy days

bloodyred

 絶対に嫌がらせだ。それ以外の何ものでもない。
 いやそんなことは最早どうでもよく、ただあの男に何も言わないままで済ませるのは嫌だった。せめて罵倒のひとつでも叩きつけてやらねば気が済まない。
 本当はそんなことも言い訳だったかもしれない。このままであの男がいなくなってしまうのは半端だから――いやいや、もうどんな言葉も言い訳だ。とにかく会わなければならない。そんな衝動に突き動かされて、ゾロはうろ覚えの道を全力で走った。
 いつか、初めて会った公園。連れて行かれたレストラン。強盗のようなやり方で唇を奪われた電信柱の影。
 羞恥しかしていないのではないか。辱められたばかりなのではないか。そんなものしか残さずに行くのは許せない。
 
 
 
 
 ぴかぴかに磨かれたエントランスホールで、荒い呼吸を収めるのに何度も深呼吸を繰り返した。走ってきたなど、決して知られたくはない。完全に息を整えてから、最初に来た時に教えられた暗証番号を入力し、入り口をくぐる。
 落ち着いたはずの心音が、また徐々に高くなっていくのがわかる。あんな男に会うのに、何を緊張しているのか――あんな男だからか。
 エレベーターに乗り、最上階のひとつ手前の階へ降りる。奥まった部屋へ向かう足取りは、自分でもぎこちないと思う。高さのある、黒い扉。インターホンを押す指は、認めたくはないが震えていた。
「誰だ?」
 機械を通しても、声は覚えたままのものだとわかる。しかし――なんと名乗ったものか。
「おい? 悪戯か?」
「あ、の……おれ…………」
「……おれ様ですか」
「ち、違っ……!」
 慌てて訂正しようとすると、笑いを隠さない声が遮る。「わかってるよ、」
「ちょっと待ってな。今開ける」
 居心地が悪く、掌をジーンズで擦る。すぐに内鍵を開けたらしい気配がしてドアが開いた。
「よぉ」
「…………」
 出迎えてくれた赤髪は、出会った時のような人懐こい笑顔を向けてくれる。かえって何も言えなくなり、ゾロは俯いた。
「どうした? もう来ねェんじゃなかったのか」
「……あんたが、海外行くって聞いて……」
「別れを惜しみに来てくれたって?」
「違……!」
「わかってるさ。文句のひとつでも言いに来たんだろ?」
 何もかも見透かされているようで、本当に居心地が悪い。まして真っ向からそんな風に言われてしまうと、気勢を削がれてしまう。もしかしたら、それすらもわかっているのかもしれないが。
 ともあれ、いつまでもこうして俯き、何も言わないままなのはゾロの性に合わなかった。意を決し、顔を上げて赤髪を見る。
「……あんたが、どんな事情抱え込んでるのか、知らねェけど。でも、知らねェうちに知らねェとこへ行かれるのは……なんていうか……気に食わねェ。だから、何か言ってやろうと思った」
「ああ」
「なんであんあことしやがったんだ、とか……ふざけんな、とか……このまま海外行っちまうなんて、ヤリ逃げかよ、とか……殴らせろ、とか……色々思ったけど」
「けど?」
 ジーンズに擦らせていた手を、ぐっと握る。ゾロを見つめる赤髪の目は、あくまで優しい。あんなことをしておいて、今更卑怯だろう。前回突き放したのは何だったのだ。
 喚いてしまっては子供と変わらないとわかっている。密かに息を深く吸う。
「……なんで、あんなことしたんだ」
「――頼んだら、させてくれたか?」
「なっ……!」
「だろうな」
 絶句したゾロへ頷いてみせると、皮肉っぽい笑み方をする。
「だから強引に、だ。……他の理由なんかどうでもいいじゃねェか。抱きたかったから抱いた。それだけで充分だろう。謝るつもりは全然ねェから、殴りてェなら殴ってくれて構わねェよ」
 俯いたままで、ゾロは顔を逸らした。
 殴りたいなら殴れ、だと。
 何か言い訳を寄越されるより、よほど卑怯、いや狡い。
 いやな男だ。最悪だ。海外へ行くことに仰天したからといって、勢いのまま来るのではなかった。
 後悔に苛まれていると、ふと視界の端に何かが煌いた。向かいのマンション。それが何であるのか認識するより早く、ゾロの体は動いている。赤髪も動こうとしたようだったが、ゾロの反応のほうが速さにおいて上回った。
「――ゾロ!」
 腹を抉られるような熱い痛み。耳鳴りが酷い。まるで駅で倒れた時と同じような。
「畜生、ベックは何やってやがる……! あいつらも見境なくしやがって……ッ」
 歯軋りせんばかりの赤髪の声が遠く感じる。
 何が起こったのか。ひたすら腹が熱く、どこか冷たい。
 ――あんた、なんでそんな顔してるんだ。
 重くなりがちな目蓋をなんとかこじ開けると、今までに見たことがない、赤髪の焦った表情が映る。
 ――なんで、そんな必死そうな面してるんだ。
 発したかった言葉は喉の奥に引っかかり、唇は巧く動かせない。手を動かそうとしたが、全身が鉄に変化してしまったかのように重く、ほんのわずかしか持ち上がらなかった。
 撃たれたのだと気付くと同時に、ゾロは意識を手放した。
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