rainy days

forestgreen

 数日が平穏に過ぎた。
 サンジはバイトの合間にもゾロの食生活の面倒を良く見ていたし、授業が終わればナミやルフィ、ウソップ、チョッパーやビビといった普段よくつるむ連中と馬鹿騒ぎをしたりもする。まったく平和な日々である。
「――と思ってたのに、おまえは何やってんの」
 サンジは心底呆れた表情で、自宅マンションのドアにもたれて座り込んでいるゾロを見下ろした。「よう」と小さく挨拶を寄越したきり、ゾロは黙っている。キャップの下で気まずそうに目を伏せているのは、一応サンジの反応を予想していたに違いない。
 廊下の薄ぼんやりとした蛍光灯の下でもわかる。泥がついて汚れたTシャツは袖のあたりが破れそうだし、胸元は切り裂かれたようだ。口の端は切れているのか血を擦った痕がある。こめかみのあたりもだ。頬は青黒く腫れ上がっているし、まったく何をしているのか。
 ここまであからさまに格闘の跡を残しておいて、「転んだ」など下手な言い訳をしようものなら痣のひとつやふたつ、更に増やしてやろうかとも思ったが、ゾロは神妙な沈黙を保ったままだ。かえって調子が狂ってしまう。
 なんだかなあと思いながら後ろ頭を掻いた。
「な。そこにいると、開けらんねェんだけど?」
 サンジを見上げると、ゾロはのっそり体を動かした。開錠してドアを開けると今更躊躇しているらしいゾロを手招いて入れてやった。
「入ってりゃよかったのに。つか、なんで今日に限って入ってねェんだよ。合鍵落としたのか?」
「いや……」
「ま、いいけどね」
 滅多に使わない救急箱を押入れの中から引っ張り出すと、テレビに背を向けて座っているゾロの横に腰を下ろす。ゾロはどこかぼんやりした表情で壁を見つめているようだった。
 こんなゾロを見るのは初めてで、サンジは内心でだけ狼狽する。一体どうしたというのだ。
「おい、変だぞおまえ。……何かあったのか?」
「……別に」
「別にって、そんな怪我して俺んとこ来て、その言い草はねェだろうが」
 しまった。険が篭りすぎたか。
 いつものパターンなら、ここで獰猛な目で睨まれて突き放すような言葉を投げ付けられ、この友人は出て行くはずだった。しかしこの日の彼はといえば、眉を顰めて俯いただけで、反論すら寄越さない。肩透かしを食らうとともに、不安にもなる。
 ゾロが喧嘩をして、医者に行くほどでもない怪我を負うとサンジの元へ来るようになったのは、サンジがゾロの食事の面倒を見るようになってからだ。同じ時期、合鍵を渡してやった覚えがある。初めはかなり驚いたが、悪戯が見付かった子供のようにばつの悪い表情をされては、いつもの憎まれ口も鈍ってしまった。その時にはもう、サンジはゾロに惚れていた。
 以来、しょっちゅうではないが何度も痣や切り傷、打ち身を作ってはサンジの元へやってくる。一度恐る恐る理由を尋ねたところ「うちには薬が無い」という簡潔な答えを頂いた。無かったら買えばいい、とは思ったが、ゾロが自主的に自分の元を訪ねてくれる理由をなくしたくなくて言っていない。そういう時も憮然とはしていたが、放心したような表情はなかった。
 常にない様子を見せられては、何かあったと白状しているようなものだ。それをこの男はわかっていない。かといって根掘り葉掘り訪ねてうざがられ、遠ざけられるのを恐れるサンジは、それ以上何も言えやしないのだ。
 友情以上の気持ちを抱いているのはサンジだけで、想いは常に一方通行だ。心身ともに潔癖なゾロは、きっとサンジがそんなふうに自身を好いていると気付けば何も言わずに離れ、サンジを静かに遠ざけるに違いない。仲間の前では平素を装ってくれるかもしれないが、こうして彼のほうからサンジのもとへ会いに来てくれることはなくなるだろうし、世話を焼かせてもくれなくなるだろう。いっそ絶交されるより、そちらのほうがサンジの胸を潰す。
 サンジはそういう自分の臆病さを、よく理解している。
 消毒液を手に取ると、やや乱暴にゾロの顔を掴み、血の滲んだ口元やこめかみに振りまいてやった。垂れる液は、所作とは裏腹に優しくティッシュで拭ってやる。
「……痛ェよ」
「切れてんだから当り前だ。打ち身も薬塗ったほうがいいかな……」
 無言で大人しくゾロがシャツを脱ぐのに、サンジは歯を食いしばって顰め面を崩さぬように努力した。好きな相手が、理由はどうあれ肌を晒すのに胸が騒がぬわけがあろうか。しかしいざゾロの肌が露になり、怪我を見せられると、やましい考えも吹き飛んでいよいよ表情が険しくなる。
 以前チョッパーからもらった打ち身に効く塗り薬をそれらに丁寧に塗りこんでやりながら、非難の言葉が口をつくのは仕方ない。
「無茶しやがって。どんな喧嘩してんだよ」
「因縁つけられたから相手しただけだ」
 口調は素っ気無く、どこか他人事のようだ。要するに、どうでもいいのだろう。ゾロのそういうところを見せられるたび、サンジは悲しくなる。もっと自分を大事にしろと言ってやりたくなる。だがどうしたってそんな言葉はゾロにとっては余計なお世話だとわかっているしただの友人としては言えた立場ではないから、結局は何も言えずに苦い思いを噛みしめなければならない。
「……売られた喧嘩をいちいち買うんじゃねェよ」
「先に手ェ出してきたのは向こうだ。さすがにあっちの人数多すぎたから適当に逃げようと思ったんだけど、囲まれちまって」
「…………」
「袋にされかけたんだけど、たまたまエースが通りかかって」
「エースが?」
「ああ。なんかあのへんでバイトしてるんだと」
「あのへんって? どこ?」
「駅前の四丁目の裏通り」
「……思いっきりピンク街じゃねェかよ」
「裏通りはそうでもねェんだよ」
 そういう問題じゃねェとサンジは内心で突っ込んだ。
 エースはルフィの兄で、サンジやゾロよりひとつ年上の大学生だ。滅茶苦茶な言動をするルフィに比べればはるかに常識人で、仲間内で集まる時にもたまにやってきて遊んだりするが、気持ちの良いまさに「兄貴」的存在で、皆に好かれている。ただルフィの兄というだけあって、喧嘩は半端ではなく強い。格技の有段者すら楽々伸してしまうルフィすら兄に敵わないというのだから、その強さはサンジの想像を越えている。
 意外にも人見知りするゾロが、人見知りをする間もなく懐いてしまった珍しい人種なので、そこだけは気に入らないが、その点だけを無視すればやはり、エースは気のいい大らかな男なのである。
「エースが割って入って何人かぶちのめしてくれたおかげで、この程度で済んだんだけどさ。でなけりゃちっとやばかった」
「…………」
 どうしてこの男は平然とそんなことを話すのか。サンジは頭を抱えて溜息を吐きたい衝動を堪え、最後の打ち身に薬を塗り終える。
「……無茶すんなよ」
 おう、と答えるゾロの顔を見ず、救急箱をしまう。
 そんなふうに心配をかけるから、目が離せなくなる。そんなふうな心配を自分にしかかけないと知っているから、想いを捨てきれない。
 やめてくれと叫ぶ一方で、暗い喜びを味わえることに歓喜するのだ。
 ようやくいつもの顔に戻ったゾロが「腹減った」と訴えてくるのに舌打ちしながら、内心では嬉々としてキッチンに立つ自分は大馬鹿野郎だ。
 罵りと溜息は人参についた泥と一緒に水で流した。
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