Run away from the night

9

 肌の上を、何かが這う。
 ぬめるような何かだったり、熱い何かだったり。
 肌の上を――或いは粘膜を、それらが弄る。
 途切れ途切れに見る幻覚のように、乱暴な扱いはされない。体を撫で、慈しむような感触が体内の熱を追い上げる。しかしそれは不快感にしかならない。
 低い声が何かを呟く。何と言っているのかは知覚出来ない。
 何もかもがすべて虚ろで――与えられる触感だけ、認知できる。己を組み敷く者が誰なのかすらわからない。ベンではない。彼はこんな真似はしない。
 あの男だろうか?――否。あの汚らわしい男は死んだ――殺したのではなかったか。
 これは幻覚ではないとわかっている。だが、逃れたはずなのに、何故またこのような目に遭っているのか。  ――誰か、助けて。
 そう祈るだけの幼かった子供はもういないはずではなかったか。
 しかし逃れられぬ己は祈るだけしか出来ぬ。
 四肢を貫く痛み。自由にならぬ己の体。
 それとも、今までが夢だった? 幻だったのか?
 四海を気の合う仲間と渡り、繰り広げた冒険の数々。まだ見ぬ場所への憧憬。充足した毎日。己を傍らで見つめる、穏やかな濃紫紺の瞳。頼れる者。
 あれらが幻だったというのか? この狂気に疲れた己が見た夢だと?
 己は未だあの男に捕われており、思うがままに弄られ、虐げられるだけの玩具なのであろうか?
 堪えていればこの悪夢は終わるのか?――また繰り返されるとわかっていても?
 これが現実であるとするならば、助けに来てくれる人物は一人しか心当たりがない。そう、あの人はどうしているだろう? 最後に見たあの人は、血を流していた。果たして無事だろうか?そして、助けに来てくれるだろうか?
 夢の中で己の傍らに佇んでいた長い黒髪を束ねたあの男。あの人によく似ていた。どうせ夢ならばあの人自身であっても良さそうなものを――しかしそこまで望むのは贅沢だろうか。
 狭い後庭に背後から熱い狂気が突き入れられる。逃げを打とうとした体はあっけなく押さえ込まれ、男の思うがままに犯される。
「……ッ、……!」
 犯す男が自分の名を「シャン」と呼ぶ。脳が怒りで灼けるかと思った。
 呼ばわるな。
 その名を呼んでいいのは唯一人だけ。
 思っても、声には出せない。
 声にならぬ悲鳴をあげて、白濁にまみれた褐色の体がシーツに沈む。
 記憶の混迷は著しく、今がいつなのかもわからなくなっている。海賊となり海を仲間と渡っていたのは現実か、夢か。それを確かめる術すらもたない。意識はこの時から逃げたがっていることだけはわかる。
 犯す男は荒い息を吐きながら、満足げにその体を見下ろした。どこか遠くで梟の声がしたが、定かではない。
 
 
 暖かな手が優しく頭を撫でてくれる感覚。ひどく安堵できるこの感触は、覚えがある。ただ、どちらの手なのかシャンクスにはわからない。
(あの人の手ならいいのに)
 今はもう思い出の中でしか会えないあの人の手なら、無条件で安心できる。何の憂いも無かったあの頃。少年の日に還ったような安らぎ。――意識が戻れば消えてしまうものだと知っていても、今だけは全てを癒してくれる手から離れることはできなかった。
 ――帰りたいほど辛いか?
 声が響いた。驚いてあたりを見回したが、何の姿もない。手の主の声ではないことだけ、シャンクスにはわかった。さらに声は言う。
 ――以前の礼に、代わってやるよ。戻ることになるけど、いいかな?
 言っている意味がよくわからない。
 ――ほら、こっちに来いよ。いつまでも一人でそんな痛いことに堪えてなくていいからさ。
 手を引っ張られたような感覚がして、次に暖かい何かに包まれた。安心できる気がしたそこは、あたかも羊水のようにシャンクスを包んだ。彼がいた場所なのだと無意識に悟る。
 ――ゆっくり休むといい。
 代わってくれた彼に何か言いたかったが、柔らかな眠さに包まれ、徐々に意識が遠のいてゆく。
 欠けた記憶は彼が持っているのだと識った。それが何かまではわからない。彼が自分なのだということはわかった。
 
 
 黒屋敷に仕える執事の朝は早く、夜は遅い。
 日課通りに一日を終える前、彼はある部屋へと赴く。それが日課となって久しい。
 その部屋を使っているのは――否、閉じ込められているのは、一人の青年だった。海賊である彼は、本来ならば海軍に突き出すべき者。断罪されてしかるべき者だ。そうしなかったのは彼の主人の命によるもの。
 ――果たしてこれで良かったのだろうか。
 青年をこの屋敷へ連れてきて以来、いや、海で彼を拾って以来ずっと、自問自答を繰り返している。ここ最近は特にそうだ。
 青年がこの屋敷から、あの部屋から逃げ出そうともしないのは、主人が用いた薬のせいだ。あの薬のせいで何人かの人間が駄目になったのを、執事は知っていた。
 諌めて聞き入れるような人間ではないからといってラグルスを放置しているのも、執事の責任といえばそうなる。その意味で、自分が主人と同罪であることを、執事は良くわかっていた。
 己の仕える主人が、ある一部分に限って狂っているのはわかっている。
 四十年、三代に仕えた。現当主・ラグルスの二代前――ラグルスにとっては祖父にあたる――が、使えた年数は少ないものの、執事には一番まともだったように思う。少なくとも、先々代は赤毛に対してああまで激しく執着はしていなかった。
 何故あのように赤毛にだけ偏執するのかは知らなかったが、細めの女が好みとか、がっちりした体格の男が好きとか、そういう好みと同レベルなのだろう。それが何代にも渡って続いているだけで。
「家系と言うものは、そういうものなのだ」
 哀しそうに笑う二代前の顔が思い出されて仕方がない。彼自身はおかしくなかったが、彼は自身の息子が狂っているのを知っていた。
 
 扉を開け、華奢なワゴンと共に入る。
 素早く室内に目を配ったが、主人は既にいない。
 狂宴の名残が濃く残っているかと思ったが、開け放たれた窓から入る風により幾分薄まっていた。
 迷わず豪奢なベッドに寄ると、赤毛の青年は枕に突っ伏すように横たわっていた。薄明かりの中、彼の体のそこかしこに狂宴の名残があるのを見、痛ましく思いながら勤めを果たす。
 ワゴンに乗せた盥にタオルを浸し、絞ったもので彼の体を拭う。ひんやりとした感触に意識が浮上したのか、青年は僅かに身じろぎした。が、何も言わない。彼が執事を無害な者と認知しているのか、人の区別がつかぬのか。執事は何も言えなかった。互いが無言のまま、時間だけが過ぎていく。
 ヘッドボード側の壁に取り付けられたランプが、青年の深紅の髪を照らす。閉じたまま微かに震える紅い睫毛、少し痩せた頬。この青年の髪は、執事の年経て古びた記憶を思い起こさせる。
(やはり、似ている)
 彼の汗と汚れを拭き取ってやりながら、先代のお気に入りを思い出した。
 先代の妻が娘につけた名はシャーナ。血族結婚の証のように、彼女の髪は生まれた時から紅石のように見事な紅だった。彼女が狂った先代の気に入りになるのは、生れ落ちた時から決められているようなものだった。
 執事が彼女を最後に見たのは、約二十五年前。
 彼女は幸せになっただろうか? 獣のような父親から逃れて。
 逃げる彼女を見過ごしたのは、そして逃げた彼女が幸せだったらいい、と思うのは、先代の狂気を知りながら諌める事ができなかった自分の、欺瞞に満ちた良心にすぎない。先代の凶行を止められなかった自分への欺瞞だ。
 あの後の先代の狂人ぶりは凄まじさを増した。彼が死ぬ前から一年ほどの間の事を、執事は知らない。先代がここの屋敷に篭り、何人も寄せ付けなかった事しか知らない。恐らく赤毛の犠牲者は何人もいただろう――今では知るよすがもないが。
 執事が最後に先代に会った時、先代は既に変わり果てた姿となっていた。
 血溜まりに倒れた体は腐臭を発し、明らかに何者かに斬殺されたのだと、致命傷となった傷から窺い知れた。犯人は十年経った今でも捕まってはいない。捕まらなくていいと執事は思っている。あんな男のために、誰かが断罪されるのはおかしい。罪に問われてしかるべきなのは、あの男や――その息子の現当主ほうだ。
 古い思い出に胸を痛めつつ青年の身体を拭き清めてやった後、ガウンを着せてやる。
 ふと青年は身じろぎし、薄く目を開けて執事を見上げた。頼りなげに揺れる青い双眸が、執事の胸を痛ませた。そして首を傾げて唇を薄く開いて彼が呟いた名が、執事の心を深く抉る。
 その名は、執事の記憶にあった。
(――ああ…!)
 神が居るのならば、この奇縁を呪わずにはおれない。
 紅の髪を、まるで親がするように優しく撫でて切なく微笑した。指先が震えるのは嗚咽のため。
「わたしは彼ではありません。彼があなたのお母様とこの屋敷を出られた後、どうなったのかわたしは知りませんから……」
 これはきっと、出会うべくして出会った運命。――母親と同じ部屋に囚われるとは、呪うべき運命ではあるが。
「もしあなたが逃げる事があるなら、わたしはそれを見ているだけにしましょう……」
 ――あなたの母上にそうしたように。
 今は安らかにお眠りなさい、と囁き、清潔なシーツをかぶせてやる。
 微笑んだ頬から一筋の雫がこぼれ、シーツに歪な丸い染みを作った。
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