肩に止まった小さな梟が羽ばたいて暗い夜空に溶けて見えなくなると、ロイは星を見つめて苦い顔をした。
入ってきた情報は、決して喜ばしいものではない。だが例え今隠しておいても、彼らが明後日あの屋敷を襲撃してしまえばわかる事。
目の当たりにしてショックを受けるより、知っておいた方がいいだろう。――というより、これは伝える義務があるか。
小さく溜息して、降り立った見知らぬ船の廊下を歩く。目当ての部屋らしきドアの前に来ると軽くノックする。了解を得るとするりと身を滑らせた。
てっきり自船の船員が入ってきたものと思っていたらしいベンは、ロイを見るときょとんとした表情をした。そしてすぐに苦い顔になる。
「……なんでここにいるんだ?」
「甲板から歩いてきたけど?」
「…………」
「ああ、そんな本気の顔で怒らなくてもいいだろう。甲板からここに来たのは事実だよ? でなけりゃこの部屋に来れないだろ?」
「……どうやってこの船に?」
「それは企業秘密」
サングラスの下の目が笑っているのかは不明だが、口許だけは笑みを形どる。
情報を扱う者が己の秘密を大事にするのはわかる。わかるが――海のど真ん中を走る船に、一体どうやって接触したというのか。聞いても答えはしないだろうが、気になるものは気になる。
「大事の前の小事だろう? 私がどうやってここに来たのかより、私がどうしてここに来たかを知るほうが先じゃないのかい?」
「この前、後の連絡はすべてリックを通すといったのはお前だろう」
「昔のことは忘れたよ――というより、これは誰かを介するより私が直接伝えたほうがいいだろうと判断した」
「何?……何かあったのか?」
「察しがよくて結構。……いい話じゃない」
前置きすると、ロイは小さく溜息をついた。彼にしては珍しく、言葉を選んでいる風だった。
「『赤髪のシャンクス』の現状だが……彼は既に壊され始めている。或いはもう壊れているのかもしれない」
「――どういう事だ?」
「ラグルスの狂気が、シャンクスを覆っている――詩的に言えばそうなるかな。君は、『神の口付け』という名の薬を知っているかい?」
ベンは小さく頭を振った。薬品の関係は、ベンよりドクトルのほうが明るい。ロイは小さく頷くと、薬の解説を簡単にする。
「麻薬の一種なんだけれど……『神の口付け』は、その中でも厄介なものさ。主に使用しているのは一部のカルト教の者たちや少数民族なんだけど――その薬は、過去の悪夢を幻覚のように誘発する。それも絶え間なく。脳神経や海馬に何らかの影響を与えているんだろうけれど、その薬についての詳細は知られていない。使っているのがごく少数だからというのも理由のひとつさ。
悪夢は繰り返し脳の中で再現され、絶望が服用者を襲う。救いの手はない。続けて飲まされていく内に、幻覚と現実の区別がつかなくなる。……この辺は他の麻薬と同じだね。そして、まぁお約束な事に、服用者が幻覚のせいでどうにも身動きが取れなくなった時に現れるのが教祖様――と、これがその薬を使う宗派のセオリーさ」
「その薬を――飲まされているのか」
ひとつ頷いただけでベンの問いを肯定する。ベンの、握った拳から赤い血が滴った。切る暇さえもなくした爪が掌に食い込み、皮膚を破ったのだ。
ロイは眉を顰めただけで何も言わない。
「……報告は以上。この件に関しては、私以外は知らないから安心していい」
「ロイ」
机に両肘を付き、組んだ両手を額に当てる。血が微かに流れ、肘へと伝う。ベンはそれすら無視をした。怒りが痛覚を麻痺させる事があるのかどうかは知らないが、あるとしたら彼の今の状態がそれだろう。
「頼みがある」
机に広げた海図の一点を、射るより鋭い眼差しで睨む。
怒りよりむしろ憤りが彼を覆っているに違いない。ロイはベンの濃紫紺色の双眸の奥に、いつか見た昏い烈火を見たと思った。
その日の夜半過ぎ、めいめい黒衣に身を包んだ男達が、島の北の森に集まっていた。彼らの顔は一様に緊張しており、堅い。しかし緊張を上回る熱気が、彼らを取り巻いていた。
「確認する。A班B班が船に待機、キッチリ二時間後にポイントZへ。C班はポイントYからポイントXへ移動した後、陽動。D班は退路の確保。各班はヤソップ・ルゥ・リック・アディスンが指示。臨機応変の対応を頼む。屋敷内へ潜入するのは俺と、補助としてヴィルツ。俺が屋敷へ入ってから四十分経っても出てこない場合、ヴィルツがD班に報せて総員退去。後の指示はD班リーダーのリックに任せる。出港の準備は医療班が担当。全員が帰船したらすぐ出港だ。以上」
作戦開始、とヤソップが小さな、しかし鋭い声で命じると男達は静かに、しかし素早く行動を起こした。
咥え煙草のまま黒衣に身を包んだベックマンとヴィルツも屋敷への道を急ぐ。
気は誰より急いていた。
早く。早く。
ロイがもたらした情報はことごとく良いものではない。
己が記憶を無くした時、彼の身に起こった事以上の凶事。それが今間違いなくシャンクスを襲っている。
シャンクスが強い男だとわかってはいるが、それは平常時においてであり、脆い所もある人間だという事を知っている。薬を使われているならばなおのこと、どんなことになっているのかわからない。
ベックマンとヴィルツが屋敷の北側の壁に着いてきっかり一分後、屋敷の西側が俄に騒がしくなった。C班が行動を開始したらしい。
腰の袋からナイフを取り出すと、ベックマンはそれを壁の煉瓦と煉瓦の間に、刃を横にして突き立てる。膝ほどの高さから上へと二本突き刺すと、柄を足がかりにして素早く塀を登り、中の様子を確認する。
「副船長、気をつけて」
心配そうなヴィルツの声に一つ頷くだけで返すと、巨躯を素早く塀の中へと落とす。音はほとんど立たなかった。
屈んだまま、自身と同じく黒をまとった屋敷を睨みあげる。ここに、彼が囚われているのだ。
短く深い呼吸をすると、目的の部屋へと向かう。屋敷の間取りはロイがもたらしてくれた図面を見て覚え、経路はすでに頭の中に叩き込んである。足取りに迷いはなかった。
(あと少しだ……)
深く息を吸い込んで気持ちを落ち着かせると、身を低くしたまま予定の進入口へと急いだ。
組み敷いた体から名残惜しく身を離し、体を起こして上品な茶のガウンを羽織る。瀟洒だが頑丈な作りの窓から斜めに差し込む月光の色は赫。不吉に見えるその色を、だがラグルスは喜んだ。
月までが祝ってくれているようではないか?
求めていた紅い髪の人間――それを今、手に出来た事を。
月光の青の中ですら紅に見える髪。遠い日の衝撃を今でも鮮やかに蘇らせる、その色。
ベッドに埋まるように沈んでいるシャンクスの髪を一房掬い取り、口付ける。
――ふと、神経質な眉をひそめた。ドアの外が騒がしい。こんな良い夜に無粋な、と思ったのとほぼ同時に、控えめなノックが急を告げた。誰なのかは問うまでもない。
「どうした」
「お楽しみ中の所、申し訳ありません。何者かが屋敷に侵入したようです」
応じた声はやはり、執事のものだった。ラグルスは顔を曇らせた。この屋敷に、島の人間が侵入するとは考えがたかった。
「何?……侵入者の人数と正体は?」
「今のところ、数は不明です。警護の者が対処しておりますが、足りるかどうかも不明です。恐らく……海賊ではないかと」
「海賊? 海賊が何故こんな所へ」
やってくるんだ、という言葉は、勢いよく開けられた扉の音で掻き消された。音の派手さに、ラグルスは顔を顰める。騒々しいのは嫌いだった。
侵入者、と評するにはあまりに堂々と入ってきた男は、黒ずくめの巨躯。執事の背に銃を押し当て、難事にあたる政府の高官より険しい顔をしている。こちらを睨む目はまるで肉食獣のそれだったが、勿論ラグルスには見覚えのない顔だ。
「……何の用だね?」
「うちの頭がずいぶん世話になったみたいだが、返してもらおう」
「ああ、君が今ジュールが言っていた海賊? 生憎だが、ここには君以外の海賊などいない」
「御託は結構。そちらに返す意志がないなら、奪い返すまでだ」
侵入者――ベックマンは奥のベッドにちらりと視線をくれた。ベッドの上には、シーツを体に巻きつけて端で怯えたようにこちらを見ている若者が。その髪は、紅。
「シャンクス!」
視線が合うと、シャンクスは喜色を顕にした。
「ベン!」
シーツをまとったまま、駆け出してくる。その途端ものすごい形相で阻もうとしたラグルスの横をすり抜け、黒ずくめのベックマンに飛びついて抱きついた。刹那、ベンは違和感を覚えたが――探していた人を腕の中にして、疑問も吹き飛ばしてしまった。そうして何かを問う前に、シャンクスは意識を手放した。
抱きついてくる体を自然、抱き返して――体が細くなっていることに気付いた。牢ではなく部屋に閉じ込められていたことだけは安堵したが、喜んでばかりもいられない。薬による作用がどこまで働いているとも知れないし、副作用についても同様だ。早々に船に戻り、船医に診てもらわねばなるまい。意識のないシャンクスを、ベックマンは子供を抱くように片腕で抱き上げてやった。
それを見てラグルスは獰猛を顕にした表情で獣のように唸り声を上げて掴みかかってこようとした。が、ベックマンの蹴りで吹っ飛んだ。見上げたことに、ラグルスは気絶することなく――どころか、ベックマンの蹴りを受けてなお、立ち上がった。
「それを……返せ……っ」
「ふざけたことを言うな」
睨み返し、ベックマンはロイの言葉を思い出した。「狂気」、まさにそうとしか表現できないものが、眼前の男の瞳に見て取れた。
「それは、わたしのだ……ずっと探していた……わたしのだ……!」
今のラグルスは、何かの狂気に憑かれているようだ。この部屋に侵入した時に見た、余裕をたたえた紳士然とした姿は、今は何処にも見受けられない。
激しく強い執着、のようにも思えるが、人相まで変わってしまうようでは狂気としか言いようがない。
「返せ! それを、それを返せぇぇっ!」
「この人はおまえのものじゃない」
長銃で、静かにラグルスを狙う。許すつもりは毛頭、なかった。一度だけ引き金を引くと、ラグルスを永久に黙らせた。
沈黙が下りる。
遠くの喧騒が聞こえてきたが、人事にしか思えなかった。
「何故、止めなかった?」
ベックマンが振り返った目線の先にいたのは、屋敷の執事だった。老齢の執事は深い溜め息を吐くと、ベックマンに向かって一礼をした。執事の言葉は、ベックマンの意外を突いた。
「……これで良かったのだと思います。ラグルスは確かにわたくしの主人ではございましたが……わたくしは、その方がこの屋敷を出られる時には、黙って見ているだけだと、自分で決めておりましたから」
「……何故?」
己の主人を見殺しにしてまで、シャンクスをここから連れ出していくのを見過ごすとは。
執事は泣きそうな顔で小さく微笑むと、シャンクスを優しい瞳で見つめた。
「先代と当代の犯罪を見過ごしてきたわたくしの、せめてもの罪滅ぼしでございます。シャーナ様の分まで、シャンクス様が自由に生きられるように……自己満足です」
そんなことをしても過去の罪を購えるものではないですが、と執事は穏やかに呟いた。
聞きたいことは山ほどあった。シャーナとは誰のことなのか。その人物とシャンクスとの関係は。執事がシャンクスの事を知ったように「様」付けして呼ばわるのは何故なのか。
しかし、抱えた疑問のすべてを聞いている時間はない。既にC班が屋敷の裏手へ火を放っているはずだ。じきに屋敷は炎に包まれ、焼け落ちる。
「すぐに火が回るだろう。あんたも逃げるんだ。早く」
「……わたくしにはまだ、やり残したことがございます。それが終わりましたら参りますので」
失礼します、と一礼して部屋から去っていく執事を、止めるのは憚られた。強い決意が、何人にも覆せない決意が、その瞳に見て取れたからだ。
ベックマンは無言で、意識を失っているシャンクスを抱えたまま、執事の後を追うように部屋を出、火の手に抱きしめられようとする屋敷を脱出する。
泣き出しそうな顔のヴィルツと合流すると、三人は船へと急いだ。
三十分後、船は島を離れていた。
それからさらに二時間後、数名が医務室に呼ばれた。呼んだのは船医のギーフォルディアだ。入室を許可されたのは、副船長と幹部四人だけ。
簡素な処置台へ横たえられた彼らの頭の意識は、まだ戻らない。
シャンクスを囲むように見下ろす男達に、船医長であるギーフォルディアはソファを勧めた。シャンクスは髭も剃られており、ずいぶんこざっぱりした――いや、若いように見える。もとが童顔のせいもあるとは思うが。
「本人の意識はねぇし、ここは陸じゃねェから簡単な検査しかできてねぇが、」
前置きなく主題を喋り始めた船医へと、全員が顔を向ける。
「今のところ、外傷はねぇみてぇだし、怪我とかは……ないものと考えてもいいだろう。ただ問題なのは、その……ベンさんが報告くれた、毒。そっちだな」
実は二十分前に一度、意識が戻ったんだ。船医は溜息混じりに言った。喜ぶべきことであるはずなのに、喜色はその声音からはまったく窺えない。
「なんか問題あったのか」
ギーフォルディアが淹れた緑茶をすすりながら、ヤソップが目線だけを船医に送った。船医はまた小さく溜息し、視線を誰とも合わさぬよう、宙を彷徨わせた。
「……大有りだ。あの時の難問が再び、って感じだぁな……」
「あの時の難問?」
幹部全員の怪訝な視線を避けるように横を向くと、頷いて疲労の滲んだ息を吐いた。
「……二年前」
「二年前?」
船医の言葉に全員が首を傾げた。が、ややあって船医の目線がベックマンに向いていることに気付き――ベックマン以外に最初に気付いたのは、リックだった。
「……副船長が記憶を無くした時?」
その言葉で三人の幹部があっ、と息を飲んだ。気まずい沈黙を破ったのは、肉にかじりついたままのルゥ。
「お頭も、記憶がないのか?」
「……いや……いや、ないと言えばそうだな……しかし、ないこともない」
「なんだそりゃ」
「ギィ、どういう意味なのか――」
聞かせてくれ、と言いたかった言葉は、背後の物音で断たれた。派手な音を立てて、治療道具が床に落ちたのだ。全員が一斉に振り返り―― 十二の視線を集めた処置台の上の人物は、決まり悪そうな表情のまま、固まっていた。
「……お頭……」
脅かさないでくださいよと溜息をついてアディスンが言うのに、膝を抱えて縮こまり、
「ご……ごめん」
とのたまった。
これには船医以外の全員が、耳を疑った。
――「ごめん」、だと?
かつてシャンクスの口から、そんな言葉を聞いたことがあっただろうか?
更に目を覚ました赤髪は、
「あの……さっきのお医者さんは? レンを連れてきてくれるって……」
不安そうな声音でもって、処置台の隅へ身を寄せる。どうやら怖がっている、らしい。
あまりに咄嗟のことに唖然とする幹部の後ろで、ベックマンはシャンクスに背を向けてギーフォルディアに耳打ちした。
「つまり、」
低い声は誰にも聞こえない。
「どういうことだ」
「おれにもよくわからんよ……」
言葉を更に次ごうとしたが、シャンクスの「あっ!」という声に妨害された。何事かとベックマンが処置台の方へ振り向いた時、胸に鈍い衝撃を受けた。胸というか、体の前面だ。
「レン!」
素っ裸のシャンクスが自分に抱きついている、という事態を把握するのに、ベックマンともあろう者が数秒を要した。冷静に対処できたのはギーフォルディアだけだ。真新しいシーツを棚から取り出し、シャンクスに掛けてやった。喜色満面のシャンクスが、ありがとう、と船医に礼を言う。
「ホントにレンを連れてきてくれたんだ! レンと友達だったのか?」
「ああ……友達というか、仲間かな」
ギーフォルディアの目線は中を泳いでいたが、誰も責められないだろう。
「仲間? 何の?」
「ん――……船に乗る仲間だ」
「船?」
首を傾げるシャンクスに抱きつかれたまま、表情を硬直させたベックマンはようやく船医を省みた。状況処理が巧くできないのは、脳のせいだけではないはずだ。
「……どういうことだ?」
ギーフォルディアは小さく溜息をつくと、自暴自棄のように微笑んで、シャンクスに向けた。
「なぁ、坊主。おまえさん一体、今年で歳はいくつになるんだい?」
「十四だけど?」
「じゅうよん?!」
一瞬眩暈を感じたと、ベックマンは思った。そうでなければ悪い夢なのだと。
「おっ……お頭っ! 冗談にもほどがあるでしょう!……いたたっ」
アディスンがシャンクスへ詰め寄りかけた途端、リックに耳を引っ張られた。何するんだ、と涙目になるアディスンに、リックは小声で鋭く言った。
「さっきドクトルが言ってたでしょう! 二年前の難問が再び、って。だからお頭のアレは……」
「記憶喪失、だ」
重々しく船医は病名を告げた。それもただの記憶喪失ではない。
「ベンさんの時と違うのは、十四以前の記憶はあるってことだ」
「…………」
発するべき言葉を見失い、全員が押し黙った。シャンクスだけがベックマンに抱きついたまま、わけがわからぬ、という表情をしていた。