海を見渡せる岩場で一人、煙草を吸う。闇を漂う紫煙は、踊るように立ち上るとすぐに溶けた。
紫煙には、溜息が濃く滲んでいた。
シャンクスの捜索から既に、二十日ほどが過ぎている。船員達の疲労も精神的不安も、ピークに達している。副船長であるベンも、例外ではない。
煙草を咥えたまま、ぼんやりと星空を眺める。
星ならば、彼が何処にいるのか知っているのではなかろうか。知っているなら教えて欲しい。彼がいるのが何処であろうと――例え海軍の監獄の中であろうと――駆けつけて、連れ戻すのに。
妙に感傷的に、詩的に目茶目茶な思考になっているのは恐らく、疲れているからだ。
浮き足立っている。誰も彼も。
今のところ、海軍や他の海賊団に見つかっていない事が幸いだ。
今襲われれば、団を保てるかどうか自信が無い。戦闘というものは個人のものではなく、集団で行うものだ。それゆえベンがどれほど一人で奮闘しようと、仲間の士気が下がっていれば犠牲は大きくなり、最悪の場合――考えたくはないが――敗戦する。頭が不在だからといって、そんな無様を晒すわけにはいかない。かといって士気を盛り上げられるような巧い手立ても、今は浮かばなかった。
こんな姿をシャンクスが知れば、激昂して殴られるかもしれない。「それでもオレの副船長か」ときつく詰られるに違いない。頭一人の不在で立ち行かなくなるような海賊団では困るのだ。
あるいは、と思考を転換する。シャンクスが不在だからこそ底力を発揮できるのではないか。皆、シャンクスの帰還を待っている。探している。仲間の心がシャンクスから離れていない証拠だ。悲観的な意見に流される者はいない。それならば、シャンクスを迎えるためにこんな所で雑魚にかかずらっている場合ではないと発奮させることもできる。しょぼくれていたらシャンクスに海へ突き落とされるぞというのもいいかもしれない(実際にあの船長はやったことがあるのだ)。
前向きに考えねばならない。悲観的に考えるのはもう、考え尽くしたと言ってよい。
ふと、目を眇めた。背後に人の気配を感じる。
「――誰だ」
敵意や殺意がないので敵では無い。振り返らず背後に誰何する。呑気な声が返された。
「君がいくら強いといっても、夜中に一人というのは無防備すぎやしないかい?」
「?!」
振り返れば、真後ろに立っているのは自船の船員ではない。黒ずくめの服装をして、夜中なのにサングラスをかけた怪しげな男だった。誰かと問おうとするより早く、男の方から口を開いた。
「久しぶりだねぇ、ベックマン。その顔はもしかして、旧友の顔さえ忘れちゃったのか?」
ややのんびりとした口調には、聞き覚えがあった。――とはいっても、十年ほど前の記憶だ。しかし間違えようが無い。
「……クロウ?」
「懐かしい名を呼んでくれるね、ノン・フェイラー」
お互いに口にした名は、海軍に在籍していた頃の渾名。クロウ(鴉)の呼び名は、いつも好んで黒い服ばかりを着て、情報部で暗躍していた彼を皮肉ったもの。ノン・フェイラー(non・failer)は試験や実技・実地訓練で常に失敗無しのトップを突っ走っていたベンを揶揄したものである。
眉間に皺を寄せ、短いが深い溜息を吐く。
「…それも懐かしいが、止めろ」
「常に成績がパーフェクトトップだった君には似合いの渾名だと思ったけど?」
「皮肉にしか聞こえん」
黒ずくめの男は肩を竦めて、ベンの唇から煙草を奪う。ずっと咥えていたそれは、既にフィルタを焼こうとしていたのだった。
「褒めたつもりなんだけどね。じゃあ、私の事もクロウではなくロイと呼んでくれ」
「それが今の名前か?」
「そう。なかなかいい名前だろう?」
スパイ活動をしていた彼は、軍を辞めてから名を変えるようになった。姿も変えるらしいが、ベンは十年前から変わらないこの姿しか知らない。
海軍を辞めてからも、クロウ――いやロイは情報を扱う稼業を営んでいた。海軍時代のノウハウと、自身の特殊能力を用いたそれは、知ろうと思って得られぬ情報はない。依頼をする側にとってはこの上もなく重宝する半面、探られる側にとってはこれほど嫌な相手もいるまい。
相手が政府であろうと私腹を肥やす富豪であろうと、どんな情報でも探れた。ただし、依頼主が気に入らぬとあらば、契約は成立しない。
探ろうと思って探れぬ情報が無い彼を手放すのは、海軍にとって大きな痛手だったはずだ。いや、そもそも辞表をまともに受け取ったとは考えにくい。だからもしかしたら一方的に辞表を叩きつけて出奔したのかもしれなかった。普段は物静かだが、行動力だけはある男だ。だから情報部のエリートだったのだが。
ロイの口元は、親しさのこもった笑みがある。
「……リックは元気かい?」
「ああ。立派な幹部だ。集めてくる情報も的確で、過不足ない」
「優秀だろう?あの子は。私の一番弟子だったからねえ」
小さく自慢するように笑うロイにつられ、ベンは旧情を懐かしむ。
ロイの姿はまったく、以前と変わりなかった。何故ここに? と問うベンに、彼は男にしては細い肩を竦めて苦笑した。
「ご挨拶だね。君が私に何を頼んだのか、忘れたとは言わせないよ」
「わかったのか?!」
立ち上がったベンは思わずロイのシャツの襟元を掴んだ。動じる事無く、ロイはベックマンを見返し不遜に笑う。
「当然。誰に向かって言ってる?」
「どこにいるんだ、あの人は?!」
「……この手を離したら、教えてあげるよ」
手の甲を叩かれ、すまんと謝りながら手を離した。取り乱すなど、らしくない。ロイに指摘されるまでもなく、ベンもわかっていた。
「――すまん」
「いいよ。……君が熱くなるなんて、サラクの件を思い出すよ」
言った瞬間、ロイが「あ、言うんじゃなかった」と後悔したほど、ベンの表情が苦しげに歪んだ。十年近く昔の事なのに、どうやら未だに彼を苛んでいるらしい。
ベンを虐めることが目的ではないので、ロイは話を戻すことにした。いずれにせよ、彼の傷は彼自身が癒さねばならない。深く抉って治りにくくしてやるほど、ロイは人非人ではなかった。
「……本題に戻ろう。君から依頼された、『赤髪のシャンクス』の現在の居所。この島から東南に三日ほど行った所にワーレイ島という小さな島と村がある。その島の一番大きな屋敷に、『赤髪のシャンクス』は居るよ」
詳細はこの紙に書いてある、と、手に持っていた羊皮紙の束を渡す。そして「ただ、」と気遣わしげに言葉を続けた。
「私に言われるまでもないだろうけれど、急いだ方がいい。あのままだと彼はきっと、壊れてしまうよ」
「? どういう……意味だ?」
「詳細はそれに書いたから、大雑把に言うよ?『赤髪のシャンクス』を軟禁してるのは、ラグルスという人物。代々この辺の国の官僚を務めてる家の現当主さ。『赤髪のシャンクス』が軟禁されてるのは、ラグルスが持つ別荘のひとつ。それがさっき言った場所。で、そのラグルスには……というか、その家の本家には一つの性癖がある」
「性癖?」
「なんていうかな……赤毛に弱いんだ。それはもう、溺れるほどね。兄弟姉妹息子娘の血縁に関わらず、赤毛の人間がいると、監禁してでも己の支配下におくのさ。抵抗する場合は薬漬けにでもして、最悪の場合性奴にさせる。だから通り名のとおり、立派な赤毛を持った人間がそんな奴に拾われたらどうなるか……大体わかるだろう?」
「…………」
無言で怒気を発するベンに、ロイは困ったような表情を向ける。そういえば昔から「普段静かな人間ほど怒らせると怖い」と言うが、それはこの男にもぴったり当てはまる言葉だったと思い出す。
「……そこで私に怒ってもどうしようもないよ、ベックマン」
「わかってる!」
「後の必要な連絡は、リックを使ってくれ。支払い関係もすべてリック経由でよろしく」
「…………」
うなだれた頭を上向かせた時にはもう、ロイの姿はなかった。
受け取った羊皮紙の束に皺が寄る。かつて己に毒を盛った『赤眉』に対する以上の明確な怒りが、ベンの身の内を焼いた。
ベンは船に戻ると、直ちに幹部に召集をかけた。
用件を詳しく伝えられないまま叩き起こされたヤソップ・ルゥ・リック・アディスン・バルザックの五人は、着るものもとりあえずの状態で副船長室に集まった。探索が一区切りついていたため、皆休養していたのである。予定では明日、再び探索に出るはずだった。
彼らはベンの一言目に眠気も吹っ飛ばされる。
「お頭が見つかった……?!」
「マジか?!」
「冗談でこんな時間に幹部召集をかけたりしない。申し訳無いが……独自の情報ルートを使わせてもらった」
「…………」
ベンの告白に、全員が押し黙る。おれ達を信用してないのかと詰られても仕方がないと、ベンは思っていた。
航海士のバルザックが日夜、海図と睨めっこして潮流を計算していたのも、諜報隊のリックが町に買出しに行くたびに情報収集していたのも、ヤソップやアディスンが仲間と無人島を何日も捜索していたのも、ルゥが船に残る者達を励ましてくれていたのも知っている。知っていて、仲間以外の人間にこの件に関して捜索を依頼したのはある意味、仲間に対する裏切りだと思う。
何を言われても甘受しよう――覚悟は決めていた。
しかし予期していたような罵倒の言葉はかけられず、どこか互いの出方を伺うような視線が行き交った。照れたように発言したのはまず、ヤソップだった。
「……おれも……実は、知る限りのルート頼ってたりしたんだよな……」
「ヤソップさんもですか?!」
「その言い方は、おめえもか、アディスン」
「ええ、まあ……」
照れたように頬を掻くアディスンの隣で、黒い帽子をかぶった青年も小さく手を上げる。
「実は、僕も……」
「リックもか」
期せずして、ルゥとバルザック以外の人間は直接行動に出た事が発覚した。予想外の展開に、さすがのベンも呆気に取られた。その肩をルゥが叩く。
「ま、皆、お頭の心配をそこまでしてたって事ね」
「要は、最終的に見つかればいいんですから……経過はどうでもいいですよ。打てる手は打っておくに越した事はありませんから」
一番労力したはずのバルザックにまでそう言われ、ベンは苦笑した。どうやら仲間を見くびっていたらしい。
改めねばなるまい。彼らへの気持ちと、彼らのシャンクスへの気持ちを。
「で、どこにいるって?」
ヤソップに問われ、ロイから受け取った羊皮紙をテーブルに広げる。それは近海の海図だった。
「お頭が捕われているのはこの……ワーレイ島の、デカイ屋敷らしい。島も小さいし、この島に一軒だけの立派な屋敷らしいからすぐわかるだろう」
「ただとっ捕まってるだけなのか?」
問いに、すぐには答えを返す事が出来なかった。煙草を一口吸いながら軽く頷く。
「……ああ、そのようだ」
「酔狂な奴もいるもんだな……」
物騒な海賊なんざ、とっとと海軍に引き渡すのが常道だろうに。全員が頷くが、ベンは真相を話せない。
「或いは、軍と何らかの取引をするために時機を窺っている……と取れなくもない。いずれにせよ、早く動くのが得策だ」
「そうだな……これ以上遅くなると、お頭に何言われるか、わかったもんじゃねぇ」
ヤソップの苦笑に、まったくだと全員が頷くのをベンは苦笑して見守った。
シャンクスの罵倒が恋しいなどと言えば、後で本人に笑われるのは間違いないが、この場で笑うものはいなかった。