Run away from the night

7

 悲鳴のような声をあげて、目が覚めた。
 頭から水を被ったようにビッショリかいた寝汗が、寝覚めの悪さを増幅させる。心臓は壊れるのではないかと心配になるほど早鐘のように脈打ち、血液を体中へ送っている。暫くは乱れた呼吸を整える事すら忘れて呆然としていた。
 夢のせいだ。
 そんな事はすぐにわかるのに、どんな夢を見たかという説明が出来ない。つい今の事なのに、わからない。
 ひとつ、わかっている。
 自分をこんな風にさせる夢を見るのは、この部屋、或いは屋敷のせいだ。
 シャンクスが今いるこの黒屋敷――村民がそう呼んでいるらしいが、なんとも安直なセンスだ――に入る前から発症していた鈍い頭痛とある種の悪寒は、今では処方された薬を飲まねば散らせないほど慢性化していた。二日酔いによる頭痛に似ているかもしれない。
 ともかくこの体を早く洗わねば。汚れたままでは眠る事など出来はしないのだから。
 強迫観念に駆られるようにシーツを跳ね飛ばしてベッドを降りると、まっすぐ浴室へ向かった。
 
 シャワーコックをひねり、湯が出るのも待たずに頭から浴びる。
 壁に両手をつき、頭を低くうなだれさせて目を閉じる。こめかみから目蓋、鼻筋を通って、湯となっていく水が滴り落ちてゆく。
 早く。早く、ここから逃げねば。
 仲間の元へ帰らなくては。
 きっと皆心配してる。
 ルゥはいつもと変わらず肉をかじっているだろうか。
 ヤソップは鷹揚に構えていてくれるだろうか。
 アディスンは船員の気を紛らしてくれているだろうか。
 ギィとリックはやっぱり船員の愚痴を聞いているのだろうか。
 そしてベンは――煙草の本数がどれだけ増えている事だろう。
 思い出しただけで、帰りたい気持ちは募るのに――すぐさま萎えていくのは何故だろう。
 シャワーノズルから勢いよく放出される液体はもはや完全に水から湯へ変わっていた。
 鈍い頭痛はまだ残っているが、気分は悪くない。細く息を吐いたが、緊張をほぐすためのものではなかった。
「……野郎のシャワーシーンを覗く趣味でもあるのか?だとしたら悪趣味だぜ、アンタ」
「よく気付いたね」
「生憎、これでも気配には敏感なんだ」
 家業柄ね。
「……なるほど」
 喉をくつくつ震わせて笑ったのは、屋敷の主人だった。腕を組んで入り口にもたれ、シャンクスを背中から見ている。観察している、と言った方が的確かもしれない。
 絡みつくような視線に今更ながら居心地の悪さを感じ、シャワーを止める。うつむいたまま前髪ごと髪を頭の後ろへと指で梳く。
 シャワーが取り付けられた壁の反対側――バスルームに入ってすぐ右手の壁に取り付けられた棚においてあったバスローブを羽織り、頭にオフホワイトの清潔なタオルを乗せて出る。
 体を入り口からずらしても主人が自分を見ているのは解っていたが、目を合わせるつもりはなかった。
「それで? こんな時間に一体、アンタ何の用だよ?」
 窓辺に置かれたアンティークな椅子は体を投げ出すように座ると小さく抗議の声をあげた。行儀悪くも、椅子と対になっている華奢なテーブルに両足を乗せる。
 窓からは月が見えていた。その半身を陰に隠した上弦の月。たなびく雲をまるで綾か紗のようにまとい、シャンクスを見下ろしていた。
「多分、君が頭痛で苦しんでいるんじゃないかと思ってね」
 薬を持ってきたんだよと微笑む右顔にも青白い月光が斜めに射す。男に顔を向けるどころか一瞥すらせず、ただ左手を差し出して要求した。この男のことは胡散臭くて好きにはなれないが、薬に効果があるのは既にわかっていた。
 捕われの身にしては横柄な態度を、屋敷の主は咎めなかった。
「……君は随分、強い精神を持っているみたいだね。意志の力というか」
「…………」
 ゆっくりと、窓辺に座るシャンクスへ歩み寄る。靴音は高価な絨毯が吸い込んだ。
「だから薬が必要になるんだろうけどね」
「……何の話だ」
「きっとじきに薬も要らなくなるよ。じきにね」
 シャンクスの左掌に小さな白い錠剤を落とすと、タオルに隠し切れていない、紅い髪に触れた。まだ多分に水を含んだ髪は、つまむと束状になる。
 触れられた手を邪険に払われても、主人は微笑を崩さなかった。
「…乾かした方がいい。風邪を引く」
「オレが風邪を引いてもアンタにゃ関係ないだろうよ」
「ひとつの家にいるんだから伝染ることだってありえるだろう? 髪は拭くべきだね」
 じゃあおやすみ。――いい夢を。
 背を向けて出て行く男の顔を、とうとうシャンクスは最後まで見なかった。
 閉じたドアと部屋から離れる気配を読んで、ようやく張っていた緊張を解く。そうして男が触れたあたりの髪を乱暴でタオルで拭いながら、
「……気色悪ィ……」
 呟いた。
 ラグルスという、あの男がまとう空気、シャンクスに向ける視線。磁場を持っているように気分が悪くなる。あの粘性の強さも良くない。絡みつくようにシャンクスの気力を殺ぎ落としていく。頭痛を起こさせているのはあの男ではないかという気すら湧く。早く、この屋敷を出たい。出なければ。
 いますぐにでも出て行こうと思うのに、体が思う通りに動いてくれない。握った拳にすらいつもの力がこもらないことに気付かないまま、シャンクスは溜息をついた。
 
 
 翌日の朝食は最悪だった。
 食事内容ではない。体の調子が最悪だったのだ。
 なんとか半分だけ食べた後は、ベッドに転がった。酷い頭痛。倦怠感。吐き気がないのは幸いだ。寝返りを打つのすら億劫で、溜息をついて黒い天井を眺めた。水が飲みたいと思ったが、サイドテーブルまで手を伸ばす気にもならない。
 枕元には読みかけの本がある。気を紛らわせようと開いた本だったが、効果は得られなかった。
 この倦怠感と、薄ら感じる喪失感と頭痛には、覚えがあるような気がする。錯覚かもしれない。既視感かもしれない。だがそれがいつの事だったのか探ろうとするのは、理性が阻んだ。何かを恐れている。そこに触れる事を、恐れている。
(……そこって、なんだよ……)
 自分の事なのにわからないのは苛立たしい。しかし深く追求する気力もない。何かが自分の体を蝕んでいる。確信はあった。しかしそれについては、やはり思考する事は出来なかった。
 執事が食事を下げた後、暫くして屋敷の主人が部屋を訪れた。
「具合が悪いと聞いたが、どうかな?」
「……見りゃわかるだろ……」
 ふむ、と小さく頷いてシャンクスの顔を覗き込む。深海色の瞳が苛立たしげに見返してくるのも気にならないようだった。
「……薬は?」
 聞かれて暫しの間逡巡し、小さな声で要求するとヘッドボードにのろのろとずり上がる。グラスと白い錠剤を受け取ると、何も考えずに薬を口の中に放り込み、水で流し込んだ。小さく吐息し、グラスを返す。
「君は、自分以外にそんな赤毛を見たことがあるかい?」
「……ねェよ」
 一括りに『赤毛』ならば見た事はある。しかし彼らの髪は赤茶けていたり、或いは日に透かさないとわからない程度だったり、染色しているものだったりで、シャンクス自身のように地毛で生え際から毛先まで紅、という人間はさすがにお目にかかったことがなかった。
 それが何だ、と口では言わずに投げ遣る目線で問うと、屋敷の主はいつもの捕え所のない、気味の悪い微笑を浮かべた。
「……わたしはかつて、様々な赤毛の人間を見てきたが――君のように、こんな鮮やかな紅の人間は、一人しか知らない」
 シャンクスの髪を一束掬い、愛しげに見つめる。放せとシャンクスは低く言ったが、主人の方に言葉に従う気はまったくなかった。手を振り解こうとした時、不意に視界が回った。海が時化た時の船にいるような。体が発熱しているのではない事はわかっている。ならば原因は一つしか考えられない。
 シャンクスは舌打ちし、己の不甲斐なさを内心で呪った。頭痛に、思考力ばかりか警戒心まで奪われていたらしい。
「てめえ……さっきの薬はなんだ……?」
「わたしの父方の家系には、代々赤毛が多い」
「人の話、聞けよ!」
「勿論、君のような赤毛はなかなか生まれないけどね。大抵は、わたしのように赤茶けた髪をしているものだ。……わたしの父もそうだった」
「てめえの昔話なんか……!」
 わめく言葉は、脳裏に過ぎる光景に打ち消された。
 発作だと直感する。
 まだそんな日数は経っていないはず――だが、この屋敷に来て以来の情緒不安定が、薬に誘発されて発作を引き起こしたらしい。こんな時にと舌打ちしても、止めようがない。歯を食いしばって、目を覆いたくなるような光景が過ぎるのを堪える。
 主人はそんなシャンクスの様子に気付かないのか楽しんでいるのか、気遣う様子すら見せずに話を続ける。
「わたしは幼い頃から長らく、自分は一人っ子だと思っていた。育った屋敷で自分以外の子供を見た事がなかったし、父も召使達も何も言わなかったからね」
「……そ、れが……っ、どうしたよ……」
 息を荒くするシャンクスの顎を掴み、落ち着きのない目をじっと見詰めると、満足そうに笑む。
「――姉がいると知ったのは、十三の頃だ。離れて暮らしていた母の元へ今際の際に見舞いに行った時、一度だけ見た。後にも先にも彼女を見たのはその時限りだったが――あの時の衝撃は、三十年経った今でも忘れられない……」
 父の膝に抱かれた、無表情の美貌。艶やかな紅の髪は白い磁器のような肌に映えて、酷く美しかった。獣のような父の胸に収まっている少女はまるで、魔物に囚われた天使のよう。
 一瞬だけ目が合った瞳は、極上のサファイアを思わせる深海色。
 ゆっくりと、彼女と同じ瞳を持つ男のシャツのボタンを外していく。彼は己を苦しめる何かに気を取られていて気付かない。顔を近づけ、形の良い耳へと唇を寄せた。
「赤髪のシャンクス。……シャーナという名に、覚えはないか?」
「……!」
 囁かれた名に、シャンクスは息を飲んだ。
 瞳は驚愕に見開かれている。思いがけぬところで聞いた懐かしい名に、体は硬直した。
 ――何故その名を知っている?
 舌には乗らぬ疑問だったが、その空気を感じ、主人は口の端を歪めて笑う。
「覚えがあるのかい?……まさかとは思ったけれど……」
「う、るせ……ッ、触んな……!」
「姉が男と姿を眩ませたと知った時、父と同じようにわたしも気が狂わんばかりだった。知らぬ男に奪われるくらいなら、この手で奪っておくべきだったと……」
「てめえの愚痴なんか、知るか……ッ! 離せ!」
「君をどうしようと、わたしの自由だよ。君はわたしのものだからね」
「やめろ……!」
 暴れようにも、体が言うことをきかない。今までにこんな経験をした事がなかった。戸惑いは発作に歯止めの聞かぬ体を更に苛立たせる。
 体を這う手が幻覚なのか現実なのか、シャンクスにはわからなくなっていた。
 
 
 広い部屋に、くぐもった声と色を含んだ水音が響く。
 組み敷いているのは男だったが、組み敷かれているのも男だった。
 白いシーツに柘榴色の髪が散らばる。強張った指がシーツを掴み、口からはうわ言のような言葉が漏れる。首を盛んに振るのは、堪えようとしているばかりではない。脳裏に過ぎる悲惨な光景を追いやりたいからだった。
 後ろから貫かれ、揺さぶられ、中心を弄られる。嫌だと言ってその手を退かそうにも、追いやる手に力は篭らない。ばかりか、弄られているのが脳裏の中の自分なのか現実の自分なのか、わからない。
 やがて足の指まで強張らせて全身を震わせると、心とは裏腹に白濁を吐いた。間を置いて、貫かれた中でも液体がぶち撒かれるのを感じる。
 ようやく己を苛むものが引き抜かれるのを感じると、シャンクスは力なくシーツに埋もれた。動かないのは恐らく、意識をどこかへやってしまったのだろう。
 見下ろした男は始末をつけると衣服を整え部屋を出た。
「ラグルス様」
 扉のすぐ前で男に声をかけたのは、初老の執事だった。一礼すると気遣わしそうに扉の方を見た。執事が持ってきた華奢なワゴンには、食事が一人分、用意されていた。
「彼の食事か?」
「はい」
「それなら、今は不要だ。眠っているからね」
「……はい」
 主人の言葉を追及もせずに執事が恭順に引き返そうとする。その背中に「ジュール」と呼びかけ、引き止める。
「なんでしょう」
「彼の着替えを用意してやっておくれ」
「……はい」
 頷き、足早に立ち去る執事を見送りながら、ラグルスの顔にはいつもの笑みが浮かんでいた。仮面のように張り付いた、生者のものとは思えぬ微笑。
 彼は、運良く見つけたものを手放す気はなかった。三十年もの間、焦がれていたものだからだ。
 抱いた体はラグルスの予想以上に魅力的だった。どうやら男をまったく知らぬ体ではなかったらしい。
 この体を抱いた他の男が憎らしくもあるが、これから先は自分一人なのだと思えばどうという事はない。意識をやってしまった赤髪の髪を梳く。跳ね除けられる事もなく、汗を含んで濃い色になった髪を掌でいらう。
 これからは、この髪を伸ばさせよう。これほどの美しい髪が短いままなのは惜しい。
 着飾らせる必要はあるまい。彼はこのままの姿で充分美しいのだし、誰に姿を見せるわけでもない。この手の内で、自分一人が愛でられるのであれば良い。
 本当は服も要らぬものだが、それでは剥ぐ楽しみがなくなる。
 彼女と同じ色の髪と眼。どことなく、面差しも。
 執着する理由はそれで充分だ。
 彼女とこの青年が何らかの血縁関係にあろうと――いわんや、彼女の息子であろうとも――それは付属でしかない。
 ただ、理想通りの赤髪でさえあれば。
 窓の外で梟が鳴いた。何かを嘲るような鳴き声はしかしラグルスの耳を上滑りし、知覚することはなかった。
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