シャンクス捜索から十日。
昼過ぎになって、捜索に出ていた者達から次々と報告が来たが、どの報告も喜ばしいものではなかった。
すべての隊から報告を受けた副船長はそれぞれの労をねぎらうと、引き続き捜索を続けるように命じた。とにかく今はひたすら探しまわるしか手はない。
最後の一人が出て行くと溜息をついて、数が増えつつある煙草に手を伸ばす。短い時間で三本をフィルタ近くまで灰にしてしまうと、煙草をケースごとポケットにしまって部屋から出た。
食堂を覗いてみたが、目当ての人物は見当たらない。寛いでいたコック三人に彼が何処にいるのかを尋ね、その内一人から満足のいく回答を得ると礼を言って前甲板へ向かう。
彼の巨体はすぐに見つかった。
「ルゥ」
手招きして呼ぶと、いつものように肉の塊にかじりつきながら何かを指示していた縦幅も横幅もある幹部は、大きな紙を傍にいた船員に押し付けてドタドタとやってくる。
「何かわかったか」
「いや。今のところ、手がかりは一切ナシだ」
「そうか。でもお頭のことだからすぐ見つかるよ。あの人ぁ、悪運だけは異常に良いから」
「ああ。その辺に関しちゃ、俺も心配はしてない」
勿論、先々のことを考えるにあたって「シャンクスが死亡していた場合」という項目もシミュレイトしていないわけではない。だがルゥに言った通り、その可能性に重きを置いていないのも事実だ。
死んでいて欲しくない、というのとは違う。死を考えたくないというのとも違う。シャンクスが死ぬわけがない。生きている。これは祈りでもなく、確信だった。
「それで、おれに何の用だった?」
「ああ……修理の具合はどうだ?」
「順調順調よ。思ったより早く終わりそうだわ。皆気合い入ってるから。特にヴィルツあたりが一生懸命やってて、他の連中はそれにつられて頑張ってるってカンジだなぁ」
「そうか。……話というのは、そのヴィルツのことなんだが」
「あいつがどうかしたか?」
「数日借りたいんだ」
「そりゃ構わねぇけど、なんでまた?」
「煙草が切れそうでな。買ってきてもらおうと思ったんだ」
「煙草? もう切れそうなのか?」
早いんじゃ?という疑問に、ここ十日で吸いすぎてるらしい、と苦笑交じりに答える。
「なるほど。そういやペース早いもんなァ」
捜索隊を信用してないのかと思った、と笑うルゥに、そんなわけあるか、と答える。
航海士のバルザックが提示した捜索地帯は星を見た後でもう一度ふたりでじっくり見直してみたが、文句のつけようがないもので、今までの航海の実績からいってもそれを疑ったりはしていない。
心配しているのはむしろハプニングの方だった。こればかりは航海士やベンにも予測出来ない。
「お頭は何もしてなくても、ハプニングの方が喜んで飛んでくるタイプだからな……海軍にとッ捕まった可能性もないとは言い切れんが……」
「それならそれで情報が回ってくるよ。副船長はやっぱり苦労性だな」
「仕事だからな……」
「あんまり背負いこみすぎるなよ?でもまあ、そういうことなら、了解」
あんたが煙草切らすとロクなことがないよ。笑いながら肉を噛み千切る言葉に、何年か前を思い出して苦笑した。
あの時はたしかに「ろくなこと」にならなかった。たかが煙草と笑えない事態はあれきりにしたいものだと、ベン以上に周囲の者が思ったはずだ。
「じゃあ、手が空いた時に俺の部屋に来るように言っておいてくれ」
「わかった」
左手を上げて去っていく後姿に、そういやなんで名指し指名だったんだろうと疑問に思ったが、肉が骨だけになったので忘れてしまった。
部屋に戻って三十分ほど経って、ドアがノックされた。短く応じるとやや躊躇いがちに、黒髪をベンと同じように束ねた若い船員が入ってくる。ヴィルツだ。緊張しているのはその表情と空気が教えてくれる。
「副船長がお呼びだと、ルゥさんから聞いてきたんですが……」
「ああ。実は、折り入っておまえに頼みがある」
「ええと……煙草の買出し、ですよね?」
「それはついでだ」
「ついで?」
「ああ。それは俺の私的な頼みでもあるし、そうでないとも言えるが……」
「かまいません。なんでも言って下さい」
おれに出来る事ならなんでもします、と真面目に言う青年に、ベンは表情を和らげ、机上に投げ出すように置いていた封筒を手に取って示した。
「この島から西北の方角に、オーカという港町がある。その港町には小さなペットショップがあるんだが……そこの店主にコレを渡して欲しい」
差し出された封筒を前にして、青年は戸惑いながらも受け取る。
「ペットショップ……ですか?」
「ああ。オーカにひとつしかない店だから、町の人間に聞けばすぐにわかるはずだ」
「あの……」
「……こんな時にペットショップなんぞに何の用があるのか、気になるか?」
聞こうと思ったことをベンが先んじて言ってしまったからだろう、ヴィルツは発しかけた言葉を飲み込み、俯いて「はい」とだけ答えた。
「おまえの疑問は当然だ。そんなに縮こまらなくていい。他の連中も、ルゥやヤソップだって同じように思うさ」
灰を灰皿に落として、居住まいを正した。
「その封筒の中には、ある依頼書が入っている」
「依頼書……ですか?」
「ああ。内容は大雑把に言うとこうだ。『赤髪のシャンクス』の現在の居所が知りたい。至急調べてくれ」
「それは……」
ペットショップに依頼するにはいささか筋違いな内容ではないか、と言おうとして黙る。敬愛する副船長がそのくらいのことをわからないはずがない。ならば、その店は何か特別なのか。問うと、ベンは小さく頷いた。
「『赤眉』は覚えているな?」
「勿論です。忘れろったって、忘れられません」
強い口調の言葉は苦い憎しみが微かに篭っていた。
赤眉。世界の裏で、暗殺を家業としていた集団組織。毒殺を主に得意とし、連中の毒牙にかかった世界政府の要人や海軍将官将校も少なくない。
そんな暗殺組織と一介の海賊団などなんの接点もなさそうなものだが、連中はこの海賊団に忘れられない形で関った。よりにもよりに、頭であるシャンクスを毒殺しようとしたのである。もっともそれはベンによって未然に防がれはしたのだが、シャンクスの代わりに毒を飲んだ形になったベンは、毒の効かない特異体質でありながら科学的な毒を体内で分解するまでの間、一時記憶をなくす、ということがあった。
その暗殺集団は、今は存在しない。
一年半ほど前――ベンが記憶を失ってから2・3ヶ月ほど後――に、赤髪海賊団によってきっちり壊滅させられたのである。
世界政府が赤眉の影すら掴めなかったのに、何故たかが海賊がその本拠地を掴む事ができたのか。
理由のひとつが情報だ。
政府や海軍・警察の誰も手に入れられなかった情報を、赤髪海賊団は手にいれることが出来た。ただ――その情報の出所は、船員の誰も知らなかった。
「そのペットショップが……そうなんですか……」
「そうだ」
手にしているたかが紙の封筒と紙切れが、グッと重いものになった。
だが――疑問はまだ残る。
そのペットショップがあの時の情報屋であるなら、これはトップシークレットではないのか。あの時もたらされた情報の正確な出所は、幹部のヤソップやルゥですら、よくわからないと言っていたではないか。船医のギーフォルディアは、あるいは知っているかもしれない。シャンクスを抜きにすれば副船長と一番仲がいいのは彼だ。
副船長とお頭しか知らないような秘密の情報源ではないのか?
疑問を思うままに口にすれば、副船長は深く頷いた。
「……なんでおれなんですか?」
幹部に匹敵するような戦功を上げたわけではない。逆だ。赤髪海賊団が今この状況にあるのは自分のせいだ。とヴィルツは思っている。お頭は自分を助けた代わりのように海に落ちた。とても機密を任されるような立場にはない。罰せられたほうがいいとも思う。
言っているうちに興奮したのか、青年の目には涙すら浮かんでいた。副船長は手を伸ばし、自身と同じ色の頭を撫で、「だからだ、ヴィルツ」と強く言った。
「今この船に、おまえほど強くお頭を見つけたいと思ってるヤツはいないだろう。見つけに行きたいと思っているのもおまえが一番だろう。ドクトルにおまえの怪我の状態を聞いた限りじゃ、無理しなければ動いてもいいらしい。だからおまえに任せる。おまえが適任だと、俺が判断した」
「副船長……」
封筒をぎゅっと握り締め、涙で言葉を詰まらせながら、でもおれは二番目ですよ、と目元をしきりに手の甲で拭い、ぐしゃぐしゃの顔で笑う。
「一番は副船長だって、皆知ってますから」
「おいおい……」
煙を吐こうとして失敗し、軽くむせる。そう思われているということが、副船長にとっては予想外だった。
ヴィルツをオーカへと送り出した後、少し休むだけのつもりでベッドに横になったが、いつのまにかそのまま寝入ってしまった。自覚していなかったが、疲れはたまっていたらしい。
目が覚めて、ベンとしては珍しい事ではあるが、暫くぼうっとしていた。夢の名残を引きずっているのだとぼんやり理解した。
鈍く重い頭を軽く振って、起き抜けに一服する。いつもより時間をかけて一本を吸いきる頃にはようやく、頭の回転も復活してきたように思った。
窓から外を見るといまだ暗い。月の位置から時刻を割り出せば、まだ夜中のようだった。ふむ、と考えながら、寝乱れた髪を解き、手櫛で簡単に梳きながら結わえ直すとシガレットケースの煙草を補充してから部屋を出た。
夜番の者達にいたわりの言葉をかけながらざっと船内の見回りを終え、見張りに声をかけてから陸へと下りた。
入り江を少し歩いて木立を抜けると、海に向かった岩場がある。その岩場の適当な岩に腰を下ろし、海や星や月を眺めながらひとりで煙草を吸うのが、ここ数日の日課になっていた。船に篭りきりでいると気分が滅入ってくるので、気分転換を兼ねての事だ。無論、無人島とはいえ丸腰でいるはずもなく、腰には愛用の長銃をさしていた。
嘲るように薄ら嗤う月に照らされ、紫煙をくゆらせる。
何も考えない。
何も思わない。
一瞬ごとに形を変えながらくねるように夜気に溶けていく紫煙を、無感動に見つめ続けた。潮騒が、やけに遠くに聞こえる。
フィルタ近くまで吸い、地に落としてブーツで踏み消す。とたんに思考が流れ出した。
海軍に捕えられた様子はない。仮にもし捕えられたのなら、新聞に大なり小なり記事が載るはずだ。何しろ十日前、派手にやりあって軍船を潰したのだから。その主犯を―――仮にも賞金首の海賊の頭を、海軍が公開処刑しないはずがない。だがそんな記事も見当たらない。
口に咥えた煙草にマッチの小さな火を移すと、また思考が止まった。
ゆっくりと二本目を吸いきった後に思うのは全然別のこと。
夢の断片が頭をよぎっていく。
久しぶりに見た旧友の姿――あれには何か意味があるのだろうか。
年経た老婆より白い髪、屈強な男たちの中では嫌でも浮く白い肌、紅玉を思わせる赤い瞳。十年前と変わらぬ姿で、口振りで話し掛けてきた彼。
――おまえ、頭いいのに頭悪ィな!
海軍きってのエリートを捕まえて笑い飛ばす表情は、軍内の異端児にふさわしい。一方的に気に入られ、気が付けば彼が起こした騒動の後始末をよくしたものだ。
――大切なことってのは、おまえが思うより些細なことだよ。
わかっている。今の自分はその些細なことすらも思い出せないでいるのだと。捕らえたはずの記憶の尾は、本体を消してどこかに行ってしまった。姿を消した獲物を捕らえる情報も何もかも自分が持っているというのに、それらをどこへしまったのかすらわからない――役立たず。
(昔おまえに言われたことが、身にしみてよくわかるよ)
――失ったものの大きさに、後で気付いても遅ェんだよ。
それでもベンは己の行動を悔やむわけにはいかない。シャンクスが死ぬよりずっと良かった。
失ったものが大きくとも、また取り返してみせる。そう思えるようになったことが、十年前から比べると成長したということだろうか。
「早く見付けねェと、な……」
この船がまた、笑顔で満ちるために。
早く――手遅れになる前に。
弱りかけたベンの心を嘲笑するかのように、欠けた月が薄雲へ姿を消した。