Run away from the night

4

 気が付くと、世界にはうっすら白いフィルタがかかっていた。鮮明なはずの風景は、そのせいで輪郭が曖昧になってぼんやりしている。
 ああ、夢だ。
 そう確信したのはピンボケした色のせいではない。景色のせいだ。
 小さな庭に植わった白つめ草も白木蓮も山吹も、全部全部お気に入りだった。中でも一番のお気に入りは、小さな庭には不似合いに大きな、ほんのりピンクに薄墨色を乗せた枝垂れ桜だった。
 今ではもう、遠い遠いあの場所。二度と帰る事はない、懐かしい、あの庭。
 あそこには幸せがたくさん詰まっていた。戻れない、失くしてしまった景色。
 だから、これは夢だ。夢だから、あの人にも会える。
 
「こら、シャン! いつも言っているだろう? 枝を引っ張っちゃ駄目だ」
 言葉より優しい声音。覚えてる。忘れようがない。
 夢は不思議だ。もうとっくにいなくなってしまった人間の声すら再現してくれる。――姿まで。あの人の高い背も、顔の左側で緩く結わえた長い黒髪も、切れ長の目も深い色の瞳も――
 
 赤い髪の小さな子供になっちまってるオレは、枝を握ったまま振り返った。
「だってぇ……」
「何だい?」
 彼がかがんで目線を幼いオレに合わせてくれたのが嬉しくて、枝を手放して彼に抱きつく。
「だって、だいすきなはなだから、もっとちかくでみたかったんだもんっ」
「だからって引っ張ったりしたら、桜が痛がるんだよ。シャンだって髪や手を引っ張られたら痛いだろう?」
「ウン」
「じゃあ、桜にごめんなさいしなさい」
 はぁい、と素直に返事をして彼から離れる。実際のオレはとっくに大人だから、ホントはこんなガキ扱いとかガキがするような事するはずないんだけど、記憶を夢に見てるんだろうか。そう思えば、こんな事もあったような気がしてくる。
 小さなオレは桜を見上げて「ごめんなさい」と言い、垂れ下がる枝のひとつに手を一生懸命伸ばして撫でた。そうしてくるりと桜に背を向けて、さっきと同じように彼に抱きついた。
 そう、彼に抱きつくのは大好きだった。それだけじゃなく、大きな体、低い声、首に抱きついた時に絡む長いサラサラの黒髪。全部全部全部、大好きだった。
 幸せそうな幼いオレ。
 ああ。確かに幸せだった。何も考えなくてもオレを愛してくれる人がいた。
 あの頃のオレの世界は、あの人だけで埋まっていた。
 
 
 不意に意識が浮上して、シャンクスは目を覚ました。真っ暗で、どこにいるのかわからない。一瞬前まで何をしていたのかすら曖昧だ。
 小さく息を吐いて、そうだ、眠っていたのだと気がつく。夢を見ていたような気がするが、もう覚えていない。懐かしく幸せな気持ちになっている反面、言い様のない喪失感に襲われた。
 魚の小骨が喉に引っ掛かるように何か忘れているような気がしたが、考えてもわからない。そのまま数秒考えたが、すぐに諦めて溜息をついた。目を閉じると再び睡魔が襲ってきたので、泥のような眠りに身を委ねることにする。
 何かがおかしいような気がしたが、何がおかしいのかわからなかった。ただ海に飲まれるような感覚に負けて、意識が遠のいた。
 
 目が覚めたのは、またしても唐突だった。
 ぼんやり、意識が途切れるまでの事を思い出す。ゆっくりと記憶をたどる内に、今見えている焦げ茶の天井との関連が見出せない事に気付いた。
(……どこだ、ここ)
 上体を起こしかけて、全身の痛みに顔をしかめる。
 そういえば、銃で撃たれたのではなかったか。たしか――利き手を。
 徐々に意識を失う前の出来事を思い出し、左腕に右手を伸ばそうとして、妨げられた。
「……なんだコリャ」
 思わず声に出してしまったのも無理はない。
 シーツの中から腕を出してみれば、両腕は手首の所で細い縄によってガッチリ縛られている。後ろ手に縛られていないだけ幸いだろうかと思いながら意識を足のほうにもっていってみると、やはりこちらも足首あたりを縛られているらしい。
 痛みをこらえながら腹筋だけで上体を起こし、改めて部屋を見回す。
(海軍にゃ見えねェな……)
 とりあえず部屋の微妙な揺れ具合から察して船上なのは間違いなさそうだ。それもたいして大きな船ではない。敵船というわけでもないだろう。そういう物騒な連中に捕まったにしては、この部屋は不相応に豪華だった。
 海に落ちたのは覚えているから、さしずめ海上を漂流していたところを拾われたのか。
 ふと部屋の外に人の気配を感じたが、こう縛られていては身構えたとしても反撃のしようがない。時間があれば手首を縛る縄を食い千切る事も出来たかもしれないが、時間が足りなさ過ぎる。
 考えても他に名案は浮かばなそうなので、リラックスする事にした。
 ノックもなくドアが開き、男が入ってくる。赤茶っぽい髪を後ろに流しており、一見して「紳士っぽいな」と思った。もっともシャンクスは世界一の大剣豪の事すら「貴族っぽい。上品ぶってる」と評するので、印象はあまりアテにならないかもしれない。
 シャンクスが評する所の紳士は、上体を起こしたシャンクスに気付くと「ほう」と驚きの声を上げた。
「もう起きていたのか。たいした回復力だ」
「……アンタがこの船の船長?」
「そういうことになるかな。船を操縦しているのは別の人間だが、船自体は私の持ち物だ。少し待ちなさい。今何か食べるものを持ってこさせよう」
 それだけ言うと、しばらくドアの外に消えて、それからまた戻ってきた。
「気分はどうかな? 『赤髪のシャンクス』」
「……ボチボチだな。悪かねェ」
「驚かないんだね?」
 難しい問題を解いた子供に感心してみせるような言い方が気に食わなかったが、シャンクスは「なんてことねェよ」と肩を竦めた。
「縛られてりゃ、アンタらがオレのこと海賊だって見当つけたんだろうなってことくらいわかるさ。一応オレは賞金首だから、顔と名前は割れてても不思議じゃない」
「なるほど。では自分の現状についてはどう分析するかな?」
「さァ……助けてもらったのはありがたいにしても、この状況じゃあなァ。
 でもこの縛り方は無用心だと思うぜ? 逃げようと思えば逃げられる。海軍のどっかの支部に突き出すにしても、その間に逃げられちゃあ賞金はもらえねェだろ」
 虜囚の人間の発言としてはいささか不適当な言葉に紳士は楽しげに頷いて、ベッドのすぐ脇に置いていた華奢な作りの椅子に腰掛ける。そうしてシャンクスの眼を覗き込むようにして見つめると、満足したように頷いてから「一般論だね」と口を歪ませた。そうして腕を組みながら、首を傾げるシャンクスに優しい口調で言った。
「先に言っておこうか。わたしは一応、君を縛らせてはいるが、君が海賊であろうとなかろうとどうでもかまわない。君の首にかかっている賞金にも興味はない。これでも金に不自由ない暮らしをおくっているからね」
「だろうな」
 それは内装をざっと見ただけでもわかる。椅子や机、それにベッド、シーツにカーテン、名前も知らないけれど高そうな花が生けられた花瓶、どれもこれも高そうだ。ベンがいれば価値がわかったかもしれない、などとどこか呑気な事を頭の隅で考えた。
「従って、君を海軍に突き出すつもりはない」
「……そりゃあ、どうも」
 紳士は微笑んだまま言う。その張り付いたような微笑は、シャンクスを落ち着かなくさせた。
 では、他に何が目的なのか?
 よもや身代金目的の誘拐というわけでもあるまい。海賊の頭を誘拐するなど、聞いた事がない。
 だが、それは違う。金ではないとこの紳士は今否定した。
 それなら、他に何がある? 取引だろうか? シャンクス自身がかかっているなら、ベンとて二つ返事するしかないだろう。
 紳士が言い出しそうなことを思い付くより早く、答えをくれた。
「あれこれ考えなくて結構。わたしが用のあるのは君自身だ」
「……は?」
 間抜けた声を発する間に、紳士の手が顔に――否、髪に触れた。
「ッ?!」
 瞬間にして総毛立つ。
 全身が、皮膚や髪の細胞のひとつまでもがその手を拒んで、反射的に身を引いた。理由の知れぬ嫌悪がそうさせたのだ。
 今までそんなことは無かった。誰かに触れられたからといって、吐き気を覚えるような嫌悪が湧いたことは無い。得体の知れぬ相手だからという理由だけではないと直感したが、理由まではわからなかった。
「おや? 触られるのは嫌いかい?」
 威嚇するように睨むシャンクスの視線は、戦場であれば海軍の将校ですら怯むものであったが、紳士は意に介さぬ風で「まあいい」と微笑を崩さなかった。
「夕方には港に着く。それまでこの部屋で寛いでいなさい」
 物柔らかなのに有無を言わさぬ強さで言うと、短いノックに応じて初老の男を部屋に入れ、入れ替わるように部屋から出て行った。
 暖かな食事の匂いで空腹を思い出したのは、その十秒後のことである。
 
 
 夕刻になって到着した小さな島には、島の規模に見合った程度に繁栄した村が一つと、山を背後に背の高い黒い鉄の柵に囲まれた屋敷が一軒と、あとは手付かずの山林があるばかりだった。
 着いたぞと言われてクルーザーから出たが、縛られたりはしなかった。オイオイこれじゃあいくらでも逃げれるじゃねェかよ、と突っ込みは心の中で入れておいた。わざわざ口に出して自ら縛られようと思うほど悪趣味ではない。
 船から下りたシャンクスを待っていたのは、強い既視感。
(ココ……来たことが……ある……?)
 そんなことはないはずだ。このあたりの海域に来た事すら初めてだったのだから。
 初めて?
 そう、初めて。
 でもこの強い既視感はなんだというのだ。
(気のせい……だよ、な……)
 錯覚。
 錯覚だと一言で片付けてしまえばよかっただろう。だが既視感は止むどころか、連れて行かれる屋敷が近付くにつれて強くなる一方で。加えて激しい悪寒までもが襲ってきた。
 嫌な予感。何か起こる。悪いことが。そんな気を起こさせるような頭痛。
 かつてこんな風に、正気を保ったままでの体調の不良を経験したことがない。それが更にシャンクスを戸惑わせる。
 一歩、一歩と黒い屋根のそこに近付くごとに脚が重くなる。まるで処刑場に連れて行かれる死刑囚のようだとぼんやり思った。
 或いは、とシャンクスは考えた。頭のどこかが「それ以上考えるのは止せ」と言ったが、思考を止めることはしなかった。考えることで頭痛から逃れたかったのだ。或いは、自分は本当にこのあたりに住んでいたのではないか。幼少の頃ではない。あの頃はこんな所には住んでいなかった。風景が全然違う。
 ますますひどくなる頭痛と、ついでのようにこみ上げてくる吐き気を堪える。
 考えられるのは。
 考えられるのは、曖昧な少年期。
 十四〜十五歳の一年間。十四歳の誕生日の翌日、大好きな人と過ごしている記憶は途中で途切れており、その次に思い出せることといったら船から見る大海原だ。
 何の記憶もない空白の一年の間にここにいたということは考えられないか?
 それ以上は頭痛のせいで思考を中断せざるをえなかった。諦めて、今度は尖った神経を宥めようと、歩きながら呼吸を深くした。
 声をかけられたのは唐突だった。
「気分が悪いのかな? 屋敷へ着けば薬がある。後で飲むといい」
「……物好きもいいトコだな」
「うん?」
「海賊だぜ? オレは」
 青白い顔をしていても、『赤髪』の眼勢が衰える事はない。しかし紳士はその眼勢を受けてなお微笑した。海賊ならば誰であろうと震え上がるだろう視線を受け流し、シャンクスの隣を彼の歩調に合わせて歩いた。
「君は国際法というものを知っているかな」
「国際法?……世界政府が勝手に決めた法律か? 内容までは知らねェな」
「そう。その国際法の中にはね、こんな条例があるんだ。航海条例第二十九条第一項だったかな?」
 神経質な指が、赤茶の髪を掻き揚げる。笑顔はまるで仮面のようだ。得体が知れない。心を許してはいけない人間だ。
「航海中において甲が捕えた海賊乙は、甲がいかなる扱いをしても世界政府はこれを認めるものとする」
 勿論海軍は海軍の法に従わなければならないけどね。
 穏やかに語られる言葉の内容は、軍人が海賊を見下して荒々しく吐き出す言葉にこそ相応しい。静かに言われる方が、狂気を孕んでいるようで恐ろしい。
 もっとも、海賊を――それも一団の頭を捕えておいて、海軍に突き出そうともしない人間がどうかしていない方がよほどおかしいのかもしれなかった。
 おかしいといえば、自分もおかしい。
 船を下りてから、いや、船に乗っている間ですら、いくらでも逃げ出すチャンスはあった。今だって逃げようと思えばきっと逃げられるだろう。小さな島とはいえあの屋敷の他に民家がないわけではないし、船だってあるのだから。
 だが、何かがシャンクスを狂わせていた。普段の調子を、見えない磁場が奪っているようにも思えた。
 紳士が笑う。この不吉な笑い方を、何と言うのだったか。
「だから、私が君をどう扱おうと、私の自由なんだよ」
 赤茶の髪の紳士の瞳の輝きに、シャンクスともあろう者が背筋を寒くした。
 陳腐な言葉で言うなら、それは悪夢の始まりに相応しい、不穏な笑みだった。
 思い出した。この笑み方は――
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