翌朝は台風一過のおかげか、あたりは晴天に恵まれ空気は澄んでいた。
赤髪海賊団と海軍が戦った地点から数十キロの地点にある島に停まっていたクルーザーが一隻、たった今出立した。
外装からはよくわからないが、クルーザーの大きさと内装の凝った造り、無駄のない洒落た置物・インテリア・食器類、また乗船している人間の着ている上等な布地や仕立てを見れば、この船の持ち主の趣味のよさと、金銭的余裕のある人間だという事は容易に知れる。
そのクルーザーは、大きさに反してたった四人しか乗っていなかった。ひとりはこのクルーザーの持ち主。もう一人は持ち主の執事、クルーザーを動かす船長と、最後の一人は港で雇われた用心棒の男。
用心棒が一人というのもこの海賊全盛時代に無用心な事だと思うが、クルーザーの持ち主はもともと見知らぬ人間が自分の領域に居座る事を快く思わなかった。雇った船長と用心棒ですら顔見知りだからという程度の理由でしかない。そしてどうも「海賊に遭遇して殺されるなら自分はそこまでの人間だったのだろう」と思っているらしかった。
バカンスしていた島から出て一時間ほどが経過した時、初老の執事が主人の部屋のドアを叩いた。
「お寛ぎのところ、申し訳ありません」
「どうした」
短く応えて入室を促す。スプリングのきいたソファに体を預けている男は、不惑を越したか越さないか、というあたりの年齢に見える。赤茶っぽい髪は短く切って前髪ごと後ろへ流しており、フォレストグリーンの瞳と相まって知的な印象を受ける。
読みかけの本からちらりと視線を執事に移してみると、彼にしては珍しく、やや慌てているように見えた。不審に思い何か問題でも起きたかと問うと、
「いえ。ドルガーが、海に人が浮いていると申しているのですが」
「水死体か? それなら島を出る前に見たからもういいぞ。食事が不味くなる」
心底嫌な顔をして、蝿を追い払うように手を振る。
近くで海賊との戦闘があったのだろう。死体はどれも「正義」をまとっていた。職務を全うして死んだのなら、彼らは殉職ということになるか。死体を見ても、男の心には何の感慨も湧かなかった。
「いえ、それが……水死体ならわざわざ報告したりしないのですが」
「?……生きているのか?」
「おそらく」
「おそらく? おまえにしては曖昧な言い方だな」
どうやら、本を読む片手間に応対できるほど単純な話ではないらしい。そう判断して、とうとう読みかけの本を閉じて低いテーブルに置いた。
「はい。ドルガーが申しますには、死体ならばイルカが助けたりするような事はないだろう、と」
「……ちょっと待て」
赤茶の髪の主人は、手で執事の話を制した。
話が見えない。
ドルガーというのは、用心棒に雇った男の事だ。
「少し落ち着け、ジュール。その死体……いや、死んでいないのか? 死体モドキを発見したのはドルガーなんだな? そしてその死体モドキはイルカに助けられている、と。……どういう状態なんだ?」
「イルカは群れてこの船の脇を泳いでいるのですが、そのうち一頭のイルカの背にその者は乗っています。乗っているのか、乗せられているのかはわかりませんが、とにかくそういう状態です」
「……なるほど。それで、人道的に助けろ、ということか?」
幸い部屋はまだ空いている。一人二人増えた所で支障はない。食糧も充分積んである。簡単な医療道具も常備してあるため、命にかかわるような怪我をしていなければ、本宅に戻るまでの間に応急処置ができる。執事は医師免許も持っているのだ。
だが執事は「いえ」と首を振った。
「ドルガーは、助けるべきではないと申しております」
「何故だ?」
「その者は若い男のようなのでございますが、風体から…おそらく、海賊だろう、という事です」
執事の言葉に主人は顔をしかめた。
「海賊ね…なるほど。たしかにドルガーの言葉通り、関わり合いにならない方が正解だろうな。助けてこちらの命を危うくするのでは、意味がない」
大仰に肩をすくめてつまらなさそうに言った後で、「だが」と有能な執事をまっすぐ見る。
「それだけなら何もわざわざ私に報告する必要はないな? おまえで充分処理できるはずだ。他にその死体モドキに関して、何かあるのか?」
「赤毛なのでございます」
「赤毛……」
すぅっと目を細めて執事の答えを反芻する。
問いに関する答えはあまりに簡潔で事実の一端しか伝えてはいなかったが、主人にはそれだけで充分、何故この執事がわざわざこんな事を報告したのか理解している。
主人を理解しているからこその報告といえた。
執事は暫く沈黙した後、言葉を続けた。
「わたしも長い事、様々な赤毛の人間を見てまいりましたが、ああも見事な赤毛の人間はかつて……一人の方しか見た事がございません」
「…………」
主人は無言で執事の前を通り、甲板へと出た。出て右側の方に、ドルガーが屈強な体を柵から乗り出して海を―――イルカの群れを見ている。
気配でこちらを振り向いた用心棒は、真面目な顔で言う。
「放っておくのが一番ですよ、ご主人。ありゃあ絶対、海賊だ」
「よくわかるな」
「わかりますよ。このあたりはご主人のようにバカンスで来るのでなければ、漁師か海賊か海軍しか来ませんからね。商人ならもっとマシな格好をしてますし、海軍なら制服を着てるでしょう。残りは漁師か海賊ですが、漁師ならあんな細ッこい体してませんよ。
何より、あの真っ赤な髪と傷!」
「……傷?」
「顔の左側、左眼の上あたりから頬にかけて、三本の傷があるんですが……見えますかね?」
ドルガーの指差すあたりをよく見てみれば、確かに彼が言った場所に傷が見える。どんな事情で負ったのかは知らないが、あの傷だけで彼が真っ当に生きていないことは察することができた。
「ありゃ絶対『赤髪のシャンクス』ですよ。実際に手配書を見たわけじゃないですけど、あの髪と傷は海軍にいる友人から聞いた特長と一緒だ。海賊団の頭がなんでこんなとこに浮いてるのか知りませんけどね、いずれにしても厄介なことがあったに違いない」
「…………」
「とっ捕まえて海軍に突きだしゃ、金はもらえますがね、『赤髪のシャンクス』なら、おれなんかとうてい太刀打ちできませんぜ」
他にもドルガーは触らぬ神に祟り無し、やめておいたほうがいい、と言葉を散々並べ立てていたが、どんな言葉も主人の耳には入っていなかった。ただ食い入るように、イルカの背に横たわる若者の髪を見つめ続けた。
執事の言葉通り――彼もまた、この青年ほど見事な赤い髪は、かつて一人しか、知らない。
ただしその一人は男ではなく女で、既にこの世にはいない人物なのだが。