Run away from the night

1

「五時方向に船影発見!……海軍です!」
 見張り台からの声と重なって、ドォン! と腰に響く音がした。船のすぐ近くで水柱があがる。
「チッ……こんな天気に、ご苦労さんなこった!……戦闘準備!」
 吐き棄てるように言う間にも、船員は各々の持ち場で武器を携える。
 赤髪海賊団は好んで他船に戦闘を仕掛ける海賊団ではない。しかし、売られた喧嘩は買っていた。相手が海軍であろうとも、怯む者はいない。
 嵐だった。
 その時、赤髪海賊団は突然の嵐に見舞われ、甲板でその対応におおわらわしていた所だった。
 横殴りの風、叩きつけてくる雨粒は弾丸のようで、厚くてやたらに暗い雲とあいまって視界を妨げ、そのせいで海軍の接近を許してしまった。そうでなければ好き好んで軍と戦ったりはしない。名を挙げる目的ならばともかくも、軍船に宝などありはしないのだから。
「砲撃班に応戦するように伝えろ! マストと舵を狙え。砲撃班の指示は以後、リックに任す。B班はヤソップの指示に従え。C班、ドクトルの指示に従って治療の準備しとけよ!」
 残りの船員にも次々と指示を飛ばし、自身は前甲板で敵船との微妙な距離を測りつつ、橋をかけて突入するタイミングを窺う。
「……奴等、網張ってたと思うか?」
 傍らで同じように海軍船を見つめる長身に問う。
 この嵐では煙草も吸えないのだろう、口寂しそうな巨躯の男はやや不機嫌そうに首を横に振った。船長ともども、突然の襲撃に慌てている様子はない。幹部ならばそうでなくてはならない。いかなる時も余裕を崩さず泰然と構えていられるようでなければ、従う者達が浮き足立つ。その点、この海賊団の幹部達は理想的といえた。
「……向こうも準備万端整えてきたわけじゃなさそうだ。さっきの大砲の狙い、いくらなんでもお粗末すぎる。このあたりを巡回してて、たまたま俺達に出くわしたってとこだろう」
 待ち伏せなら船の横っ面に大砲ぶちかますくらいするだろうと冷静に敵を分析する横顔を、チラリと見て微笑しただけでまた敵船に視線を戻す。
 表情は麦わら帽子の下に隠れて見えないだろうと思ったが、大気を引き裂くような稲妻に、正面から照らされた。彼の通り名である赤髪は稲光に映えて、たいそう禍々しいものに見える。ただし、赤髪の隣に立つ男の目には、たいそう神々しいものに見えるのだが。
 赤髪の横顔を眺める。楽しそうだ。思えば嵐の日はいつもそうだった。ゲームを楽しむように、嵐の航海を楽しむ。ゲームの勝者はいつも赤髪だった。
 だがこの微笑はゲームを楽しむ類のものではない。
 赤髪の肩が小刻みに揺れているのに気付き、なんだ、と長身――副船長が問うと、赤髪はその笑顔を張り付かせたまま言った。こちらは省みない。
「さすが元海軍エリート将校ドノ、って思っただけさ」
「……皮肉か?」
 あてつけと取れなくもない、古傷を抉るような言葉に顔をしかめると、ようやくこちらに向き直って、副船長の広い胸を拳で軽く叩く。男がこの程度の言葉で傷付くはずもない事は、心得ている。
「いいや? イイ男を仲間にしたなァって思ったのさ。……殺さなくて良かった」
 語尾は風に紛れて届かなかったが、問い返しはしなかった。どうせろくでもないことを言ったに決まっている。笑う眼の虹彩が、いつもより薄くなっているのを見逃さなかった。普段は深い海の色をしている瞳が、今は気持ちが昂揚しているせいでアイスブルーに近い。
「…………」
 言い返す言葉も無く、副船長は小さく溜息した。その溜息を赤髪は喉の奥で小さく笑ってから、右の腰に挿した剣を抜いて後ろを振り向く。戦闘態勢を整え終えた船員達が突入の合図を今か今かと待ち構えている。視線が、集まる。
「橋をかけろ。突入だ!」
 左手を上げて宣言すると、気合の入った野太い声が返ってくる。
 
 嵐は、赤髪が好む天候だった。
 シケも。大雪も。
 とにかく船が荒れるような天候を好み、それらが過ぎ去るまでずっと上機嫌だった。いつもだ。
 悪天候を恐れるでもなく、普段以上に舵取りも冴える。指示の出し方・タイミングは日頃舵を預かっている副船長ですら素直に感嘆するほど。細かい事をいちいち考えているとも思えないから、きっと天性の勘なのだろう。
 そして悪天候での戦闘という、最悪な条件のもとで振るう剣においても同様で。
 つまりこの日の海軍との不意の戦いも何ら不安は無く、ただ赤髪海賊団の実力を示し『赤髪のシャンクス』の名を高めるだけのものにしかならない、はずだった。
 船員・幹部、そして常に赤髪の傍らにある副船長のベンですらそれを疑ってなどいなかったし、不安に思う者は誰もいなかった。おそらく赤髪自身ですらもそうであったはずだ。
 ――覆されたのは、勝敗の行方が見えてきた頃だった。
 
 すぐ近くであがった悲鳴に、シャンクスは反射的に振り返った。仲間の声だと直感したからだ。右から斬りかかって来た海兵を、身をかがめて腹に一撃見舞っただけで沈める。
「ヴィルツ!」
 船べりで海兵三人に挟まれ、一人に腕を斬られた。シャンクスが見たのは丁度その瞬間。助けなければと思った。自分ならば助けられる。まだ間に合う。助けなくてはならない。戦場では弱い者・運のない者から死んでいくが、そうと割り切って仲間を見捨てられるほど、シャンクスは冷淡な人間ではなかった。
 跳躍する足に力をこめる。マントは雨水を多分に含んで重いが、動きを制限するほどではない。
 たしか。たしかあの船員はどこだかの港町を出航する時、何があったのかは知らないがベンを尊敬しているとかなんとかいう理由で仲間になりたいと言ってきたのだ。ベンのような男になりたいと言って。
 新入りには違いないが、彼は言った言葉を実行すべく努力していた。そうして少しでも早くベンに近付けるように、早く船長の力になれるようにと、ベンと同じ色の髪を伸ばしている。最近ようやく束ねられるようになったとか言っていた。今も束ねている。それが雀の尻尾のようだと誰かにからかわれていたのは、つい昨晩の事。
 この若い船員とベンとを重ねて見た訳ではない。断じて、違う。
 ただ、黒髪の男が目の前で死ぬ所を見るのは嫌だ。それだけは嫌だった。仲間だ、というのも理由だろう。だがそれだけではない。理屈ではない。感情だ。
「……お頭……!」
「情けねェ声出してんじゃねェよ」
 鷹揚に言って、ヴィルツを囲んでいた三人の海兵を斬り伏せる。きっと驚愕すら訪れなかったであろう。彼等は赤髪の剣で唐突に人生を終えた。最期に見たのは刹那、昼のような光をもたらした稲光だったはずだ。
「ヴィルツ!」
 船べりに立っていたヴィルツは、大波で揺れた船にバランスを崩した。
 とっさに甲板を蹴って船べりに上がった。多分彼は気絶している。
 言葉よりも、頭で考えるよりも早く、体が動いていた。――結果が予測できなかったわけではない。そんな事よりも、仲間を助ける事の方に意識が、神経が、筋肉が反応した。
 落ちかけた体を危うい所で腕を掴んで引き止めた。
 その瞬間、激痛が左腕を焼いた。剣を取り落とさなかったのは奇跡に近い。
 覚えのある痛みは間違いなく、銃弾によるものだろう。
「こ……、の……ッ!」
 ヴィルツの体を船へと引き戻し甲板に落とした所で、今度は同じ激痛を脚に感じた。
 ベンやヤソップは何をしているのかと思った。サボッてやがるんじゃねェだろうな。頭自ら先頭立って戦っているというのに、高みの見物か?それとも狙撃者があいつらの死角にいるだけなのか?
 頭にはそれだけの事を考える余裕があったようだが、体には余裕は無かったらしい。膝の力が抜けるのと、船が大きく海側へ傾いだのは同時で――あ、ちょっとヤバいかも、と思った時には体は宙を浮いていた。
 麦わら帽子が風で飛ばされる。
「お頭ッ!!」
 海を割る勢いの雷撃が放たれたのと、その間隙を縫って誰かの悲鳴のような声が響いたような気がした。が、昏い海に飲まれてしまって、確かめる術はない。
 すぐに海面に浮かばなくては、ともがいている間に、頭上に何か大きな影が落ちてきた。マストだ、と思ったところで意識が途切れた。
 そして、何もわからなくなった。
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