「ドクトル。ちょっと……いいか」
躊躇いがちな訪問者はベンだった。船医は夕食後の煙草を楽しんでいる最中だったが、嫌な顔も見せず、気軽に招き入れる。
「そこに座ってくれ。茶くらいは出すぜ。味は保証しねぇがな」
書きかけのカルテを閉じ、バタバタと机の上を片付け、いつからそこにおいてあるのかわからない急須の中身を空けて新たに茶葉を入れ、お湯を淹れる。
「すまないな……」
ベンは苦笑しながらソファに腰を下ろす。重さに耐えかねたように、ソファは軋んだ。
「気にすんねぃ。……で?」
デスクの引き出しの中から茶菓子を漁って机の隅にあった皿に乗せてベンに渡す。この皿もいつからそこにあるのかわからない。
ドクトルの机の中は異次元ポケット(命名:メガネ)になっていて、中に何が入っているのかは管理者たるドクトルにすらわからない、というすさまじい状況になっている。ハサミが入っているかと思えばスプーンが入っているし、かと思えば裁縫道具も入っている(手術で使うわけではないらしい)。医務室の整然さとはまったく逆だ。
茶菓子を大きな手で受け取るが、すぐには食べない。甘いものを得手としないベンでも食べられる醤油煎餅やアラレだったが、かといってすぐに食べる気にもならなかった。手で玩びながら俯いた。
この男にしては歯切れの悪い口調で話を切り出す。
「……聞きたいことがあるんだがな」
「おぅ。なんだ?」
軽い調子で受け答え、ベンの隣にどっかりと座り、ベンに勧めてから自分も薄い茶をすする。
「お頭のことなんだが」
「……生憎だが、答えられねェ事のほうが多いと思うぜ?」
「まず聞きてぇのはそれだ。なんで誰も俺とお頭のことについて何も言ってくれない?」
「…………」
「皆”仲は良かった”と言ってくれはするんだが……」
「だったらソレでいいじゃねェか」
会話を打ち切るような投げやり気味のいらえに、ベンは顔をしかめた。ベンにしてみれば当然の反応だろう。しかしギーフォルディアは自分の口からは言わないと、気を引き締めなければならなかった。まだこの船を下りるつもりはない。言えることと言えないこと。二つを分けて考え、ぎりぎりの所までは話してやろうと思う。
「……今のお頭の状態は知っているな?」
「……身体か? 精神か?」
「どっちもだ」
「――医者だからな」
「放っておいていい状態じゃねェことはわかってるんだな?」
「……まァな」
湯のみを低い机に置き、ベンに向き直る。
「いっとくがな……お頭の状態をわかってて放置しておくってのは、医者としちゃあダメかもしれねェ。だがな、ベンさんよ。おれはカウンセラーじゃねェし、セラピストでもねェ。だからお頭が本当に何に苦しんでいるのかはわからねェし、どうしようもねェ。お頭も何もいわねェしな。素人がカウンセラーを真似ても良いことはねェんだ。場合によっちゃあ事態はいっそう悪くなる。話を聞くだけなら良いけどな。つられて鬱ッたらどうしようもねェ。仮にベンさんのことであんな状態に陥ってるとしてもだ、それだけが原因とは限らねェ。これは単に医者としてのおれの勘だ。根拠はねェ」
一気にそこまで言うと、小さく息をついてから言葉を繋げた。
「おれらにはわかんねェとこに原因があるなら、外野は何もできねェんだ。話を聞くことは出来るが、手出ししねェ方がいいってこともあるし……アンタとお頭は一番古い仲間だから、アンタにわかんねーことは正直おれらにもわかんねェと思うしな」
ベンは黙ってギーフォルディアの言葉を聞いていた。ややあって小さな湯呑を手の中で持て余しながら、ポツリと言った。
「……少しな、思い出したんだ」
「ン? 何を?」
「細かいことは話せねぇが……」
「ああ、かまわん。話したくないことは話さなくていいさ」
穏やかな目に促されて、ベンは口を開く。
「お頭が、俺に対して何か思うところがあるみてェだっていうのには、記憶を失くしてからわりと早い段階で気付いてた。視線がよく刺さってたからな……だから、なにか思い出さなきゃならねぇことがあるんだろうとは思っていた。ただ、それがなんなのかサッパリ見当がつかなかったし……お頭とは必要以上の話をしてなかったから、よくわからなかったんだ」
頷き、ベンを見つめて無言で先の言葉を促す。
「断片的には色々と思い出せていたんだ。お頭がどういうヒトか、……この船にとってどんなヒトだったか、とか……よく騒ぎを起こす人だったとか、寝起きが悪かったとか、戦いではどんな風に強かったか、どう戦っていたか、とか……。そういうことは思い出せたし、自分がどう対応してたかも思い出した、と思う。たとえばお頭を起こす時にどう叩き起こしていたか、とかな。だが……それが何故俺なのか。どうして俺が世話を焼いていたのか……それがサッパリわからねぇ。おまけにお頭は俺がこういう状態になってから、世話がかからねェように動いてる。起こしに行った時にはもう起きてたり、日誌はちゃんと書いていたり……なんていうか、記憶とギャップがある。だから俺としては、俺の記憶のほうが違っているのか? と戸惑う一方だったんだが……」
「だが?」
ドクトルの目を避けるように俯き、いっそう低い声で、言い出し難そうに話す。
「昨日……お頭を捜しに行った時のことなんだが……」
「アレか。貧血で倒れたって聞いたが……ベンさんがお頭を背負って帰ってきたって聞いた時は、何事かと思ったぜ」
「……少し、口論になりかけてな」
手に包んだ湯呑の底を撫でる。
シャンクスが気を失った本当の理由を、ベンは誰にも話さないでいた。船医たるギーフォルディアにも例外ではない。船医も深く追究はしなかった。
ドクトルは小さく肩を竦める。
「喧嘩ね……まァ、思うところがあるなら、それをブチまけっちまうのは結構なことだ。腹にためてっとロクなことになりゃしねェからな。
何の話から口論になったんだ? 顔付き合わせてイキナリってこたァねェだろ?」
「ああ。俺が、他の連中に示しがつかねぇから自分が決めたことくらいは守れ、と言った時に――皆まで言う前に、キレられた」
「……ベンさんは間違ったこたァ言ってねェな、そりゃ。……なんつってお頭はキレたんだ?」
「……”おまえがそれを言うのか”」
「……あぁ……? なんだそりゃ……?」
ドクトルは今度こそ頭を抱えた。ベンの一般的な正論は別にキレるようなことではないし、ドクトルの知る限り、ベンは約束を違えるような男ではない。それはシャンクスが1番よく知っているのではなかったか。
カラになった湯呑に茶を注いで、
「……お頭、ベンさんが”他に示しが〜”って言った時、正確にどこでキレたか、覚えてっか?」
「……たしか……自分で言ったことくらいは守ってくれ、じゃなけりゃ他に…ってあたりだな。他に示しがつかねぇ、と言いかけたところで、キレた視線に気付いたから」
「……う〜〜ん……」
後ろ頭をバリバリと掻く。やっぱりよくわからない。
「……で、ベンさんはそう言われた時、なんでキレられたか、わかったか?」
「いや、わからなかった。だから何が気に障ったのかと聞いたんだ」
「そしたら?」
「”テメエが色々忘れてんのが……”と返された」
「で?」
「いや、その後は……お頭が倒れたから、そこまでだ」
「ああ……そこで貧血か……いきなり頭に血ィのぼったからかな……」
唸るようなドクトルの言葉を聞きながら、ベンは手に持った湯呑に視線を落とした。
「……まァいいか。考えたってわかんねェもんはわかんねェ。……で、そこで何を思い出したって?」
「ン?」
「あんたさっき”少し思い出した”っつったろ。お頭と口論して、何を思い出したってんだ?」
「ああ……」
残りわずかだった茶を一気に呷る。そして小さく息を吐いて、
「思い出した、というか……確信に近いんだが……」
ドクトルは黙って次の言葉を待った。相手が話す気になっている時はこちらからあれこれと詮索するより、話し始めるのを待ったほうが話しやすいだろう。
「……なんというか……適当な言葉が思いつかねェんだが……、俺とお頭は……他の連中とは少し、違う関係だった……ような気がするんだ。俺が自意識過剰じゃなければ、の話だが……」
「…………」
思い出せてんじゃねェか、という突っ込みを寸前で喉に留め、代わりに茶菓子を口に放りこむ。ぬるくなった茶で流しこんでから口を開いた。
「たしかに、あんたとお頭は他の連中とはチッと違った仲だったな。信頼関係が濃かったというか……。さっきおれが言ったように、それはベンさんが一番古い仲間だってことに関係してるのかもしれねェし、それとは別に、おれらにはわかんねェなんかがあったのかもしれねェ。二人にしかわかんねーってヤツだな。まあいずれにせよ、あんたらは仲良かったよ。多分、いまベンさんが思ってる以上に」
「……そうか……」
そう言うとベンは息を吐き、心なしかホッとした雰囲気になった。その様子を見ながらドクトルはベンの湯呑に茶を注ぐ。
「……ひとつ、言っとこうか」
「ん?」
「なんでおれたちがあんたら二人のことについて何も言わねェのか。それはな、言わねェんじゃなくて、言えねェからなんだ。お頭に口止めされてんだよ」
「口止め?」
当然初耳だったのだろう。ベンは眉をひそめた。ドクトルはひとつ頷き、
「”オレと副のことについてごちゃごちゃ副に吹きこんだら、船から下ろす”ってな。マジ顔で言われてたのさ」
「……なぜそんなことを……」
「さァ? お頭の考えてることなんざァ九割はおれらにゃわかんねェよ。案外、アンタ自身に思い出して欲しかったとかじゃねェか?……と、おれに言えるのはココまでだァな」
コレ以上余計なこと言って船から下ろされちゃあたまんねェ、と舌を出して笑う。
「…………」
「ま、お頭と口論できたってんなら上々だな。話す機会がなかったんだろ? 今まで。ことのついでに今からでもお頭ンとこ行って話してきちゃあどーだい? 話さなきゃわからんことってのは結構あるぜ。言語ってのはそのための道具だからなァ……って、これはアンタの受け売りだがな」
そう言うと子供のようにいたずらっぽく笑う。つられるように、ベンも少し笑った。
「……ドクトル」
「ん?」
「あんた本当にカウンセラーじゃねぇのか?」
「言ったろ。違ェよ。そもそも、外科・内科・産婦人科・小児科・歯科・循環器科・皮膚科・呼吸器科・脳外科・耳鼻咽喉科・麻酔科・眼科・神経科、およそあらゆる医師技術を持ってるおれ様が、なんで精神・心理系の免許持ってねェのか、わかるか?」
「いや……」
「ヒトの心理ってのァ複雑怪奇なのさ。そりゃもうこっちがどーにかなりそうなくらいな。他のどの分野よりやっかいなのさ。何しろ症状は千差万別・十人十色、まったく同じ症状ってのはねェし、同じような症状でも治療法まで同じたァ限らねェ。あるヤツが回復した方法で別のヤツが回復するとは限らねェのさ。おれァこーゆー大雑把な人間なんでね。そんな細けェところまで手が回らねェってわけだ。そりゃあ多少カジッてはいるけどな、その程度さ。専門にやってたわけじゃねェ」
アッチ方面は面倒でいけねェや、と笑うドクトルに、少し笑む。
ドクトルは自分のことを大雑把だと言ったが、ベンは決してそうではないだろうと思った。そうでなければ医者は務まるまい。
「……あんた、いい医者だな」
「当たり前だろうが。今わかったのか?」
ニッと笑う。
「……ありがとう」
それ以外に言うべき言葉が浮かばなかったというように、頭を下げる。
しかしドクトルはチッチッ、と右人差し指をベンの顔の前で左右に振った。
「おっと、そのセリフは全部綺麗サッパリになってから言ってくんな」
「……ああ。その時にはまた改めて言わせてもらおう。……今のは、茶の礼だ」
「お。言うねェ」
肘で小突き、笑いながら見送った。
この後ベンが向かうべき所は、聞かずともわかっていた。