発作で見ていた、幻の延長。
ゆめの中でオレは、「ああゆめをみているんだな」と思う。
どうやらその程度の分別は残っているみてェだ。……それすらねェ時も……あったから。
気付くと、何処とも知れない場所に立っている。
ふとあたりを見まわせば、足元に骸がいくつも転がっている。
すべて――血を流して。
まるでたった今つくられた屍骸だと主張しているようだ。
中に見覚えのある顔も混ざっているような気もするけれど、決まって骸の顔はぼんやりとしてうまく見えない。
見ようとしても見えない。
誰なのかわからない。
胡乱。
空虚の風が頬を撫でる。
荒涼とした風景の中、息があるのはオレだけ。
オレは手に剣を持っている。
剣を握る手が小さいのは、その身体がガキのものだからだろう。
歳は……十四・五歳だろうか。
あの時の歳だ。このゆめを見る時はいつもそう。決まってこの歳なんだ。
握った剣に目を向ける。
刃には拭っても落ちないほどに血がこびりついている。刃自身から溢れ出るように血が滴っている。
勿論オレ自身も、風呂に入ったくらいじゃ落ちないほどの血を浴びている。
髪の先からつま先まで。
すべてが朱。
咽るほどの鉄の匂い。
ぬめる液体が体を伝う。
ガキと剣と血。
似合わねぇ組み合わせだ。――ゆめに脈絡を求めても仕方ないけれど。
剣を血振いする。
血は落ちない。
涙のように雫が跳ねるだけで、血は振えない。
落ちないんだ。
まるで死者どもの恨み言のように。
わかってる。
この骸を作ったのはオレだ。
彼らを殺したのはオレ。
ゆめの中でまた人を殺しただけのこと。
驚くほどのことじゃねぇ。現実にだってやってることだ。
きっとこの骸ほど斬ってきたんだろうさ。
ただそれを……ガキの姿でやっただけのこと。それだけだろう。
発作後のゆめはいつも荒涼として……虚ろ。現実離れしている。
骸、骸、骸。
血まみれの骸たち。
それらは冷たい肉の塊でしかない。
……中にはまだあたたかい骸もあったかもしれないが、末は同じだ。
息もせず、何もせず、ただそこにあるだけ。転がっているだけ。
いずれは朽ちて土に還る。大地と交ざってひとつになる。
――少し、羨ましい。
彼らはもうひとりじゃない。
大地とひとつになることで――いや、死ぬことで、生という孤独から解放されたから。
ここで生きているのは……息をしているのはオレひとり。
足元に転がる骸を素足で転がす。まだ生暖かい。
骸と目が合う。
その瞬間、時が止まった気がした。
驚愕に見開かれた虚ろの眼が、オレを射る。
何故だかその骸の顔だけ、はっきり誰だかわかった。――わかってしまった。
オレは剣を投げ捨ててそこから逃げた。
そう、逃げたんだ。
眼を見たくなくて。
あの眼が誰のものだったのか信じたくなくて。
あの骸が誰だったのか信じられなくて。
だって、あの人を斬ったのもたしかにオレなんだ。
斬った感触も、生々しくこの手に残ってる。
他は胡乱なのに、そこだけはっきりと覚えている。
うそだろう?
うそだ。
こんなの信じられない。
オレがあの人を斬るなんて。
だって、好きだったのに。
オレをなでるおおきくてあつめのてのひらも、
(あったかくて大好きだった)
オレをよぶすこしひくいおとこらしいこえも、
(名前を呼ばれるのが好きだった)
やさしくだきしめてくれたたくましいうでも、
(落ちつける場所)
あのひろいかたもせなかも、
(護ってくれる)
あまえさせてくれたあついむねも、
(安心できる場所)
おとこにしてはながめのまっくろいかみも、
(サラサラの髪はくすぐったい)
ちかくにいるだけでわかるかおりも、
(落ちつける煙草の匂い……すぐに誰だかわかる)
オレをみつめるやわらかくてあたたかいめも、
(あんまり見られるとテレるけど)
おだやかなわらいかたも。
(あの人が笑っているとオレも嬉しい)
なにもかもすべて、ぜんぶがだいすきだったのに。
――信じられない。
――信じない。
オレがあのひとをころすなんてうそだ。
そんなわけないだろう。
だってすきなのに。こんなにも。
だからオレがあのひとをころすわけがない。
だってあれは。
あのひとは、
肩を揺さぶられた感覚に、意識をそちらに向けた。
「……しら。……おかしら」
「……?」
呼びかけに応じてゆるゆると目蓋を持ち上げる。
視界に飛び込んできたのは黒髪の相棒。
目に映るものの脈絡の無さに、とっさには口がきけなかった。
骸の次はこの男か。
いや、この男が骸になるのか。
それとも骸だった男が甦ってきたのか?
数瞬の混乱。意識はまだ夢を引きずっているから、仕方ない。
「……お頭?」
気遣わしげな深い色の瞳が覗きこんでくる。
自分の眼とは違う深く濃い色。モスコブルーと言うんだったか、と見つめ返す。
彼の眼に映る自分を見たところで、緩く頭をふった。
(大丈夫。これは現実……この男は、生きている。オレが殺したのは、この男じゃない。)
言い聞かせて小さく息を吐く。
「……ああ……問題ない……」
「……ひでぇ汗だな」
枕代わりのクッションに埋もれたシャンクスの額を、ベンは拭ってくれた。その手を拒否しなかったからか、少しほっとした表情をしている。
「ゆめ……見てたからな……」
「夢?」
「ああ……わけわかんねぇ不条理なゆめ。うとうとしてたら、久しぶりに見ちまった」
こらえきれないように喉の奥でクククっと笑い、左手で顔を隠すように覆う。
狂人じみた自分をこの男は笑うだろうか。思ったが、ベンは笑わなかった。
「……なんでオレが、すげぇ大好きだったヒトを殺さなきゃなんねぇんだか……なァ?」
自嘲気味の言葉はベンに向けたものではなかった。たとえ問うた言葉だったとしても、ベンには返す言葉が浮かばなかったに違いない。
汗を拭いたタオルをたたみ直して、シャンクスを見つめる。シャンクスはベンのほうをを向かない。
「……出直した方がいいか?」
「別にかまわねぇよ。でも、そうだな……体が気持ち悪ィから……シャワー浴びてくるから、ちょっと待ってろ」
「体に障らねェか?」
「病気ってわけじゃねぇんだから大丈夫だろ。……心配症だな」
小さく笑って服を脱ぎ捨てながらバスへ向かう。その背中に、ベンは小さく溜息を吐いたようだったが、気付かないふりをしてやった。
コックをひねってしばらくすると熱い水が降ってくる。
腕の良い船大工によって作られたこの船には、粗末ながらシャワーが取り付けられていた。水は海水を人力で汲み上げ、濾過して使用している。完全な真水ではなかったが、使えるだけありがたい。無論しょっちゅう使えるものではない。普段なら布で体を拭いて終わる。今は湯をどうしても浴びたかったのだ。
高い位置から降り注ぐシャワーを、少しうなだれ気味に頭からかぶる。
こめかみを、頬を、額を、鼻梁を、睫毛を、顎を、喉を、湯が滴っていく。
立ち尽くしたまま壁に両手を当てて、肌を伝っていく透明な暖かい液体を目で追った。
色と匂いの有無はあれど…それは先ほどの夢を思い出させる。
自分のモノではない体液にまみれて――荒野に、ひとり。
(……気持ち悪ィ……)
湯を両手に集めて顔を洗う。
何度かこするように洗い、ついでにタオルを濡らして石鹸をつけて体も洗う。
右肩から腕、首、胸、左肩から腕、背中、脚。いつもよりも念入りに。
血が、まだまとわりついている気がして。それをこそぎ落としたくて。肌が赤くなるほど全身をこすり洗う。それで血が――死者の妄執が落とせるわけもないと、わかっているけれど。
自分の体をまじまじと見下ろして、改めて「痩せたな」と思う。
食欲はないからほとんど食べないし、寝付けないため睡眠も充分摂っていないのだから当然だ。
だから発作も頻発するし、ゆめも見る。
いつもならあんなにクリアには見ない。
――見習いをしていた船を下りて、ベンを見付けるまでの間。あれだけのひどい発作とゆめは、その頃以来のように思う。普段なら難なくやりすごせただろうに、昨日はできなかった。
精神と肉体の不安定な様を、よりによって最悪の状況で見せてしまった。
無様だと思う。
恥かしいとも思う。
――それでも。
(……やっぱ、安心するんだよなァ……)
あの時、不覚にもベンの腕の中で気を失って。発作はすぐに収まって、後をひかなかった。
あの腕の中で落ちたから?
後遺症のように夢は見て、最悪な夢だったけれど、目覚めはいつもよりは格段に楽だった。
目覚めた時にあの手があったから?
シャンプーを手にとって軽く泡立て、頭をガシガシと乱暴に洗う。シャワーを、今度は目をつぶって顔で受けとめながら考える。
(……すっかりなくなっちまったな……痕…。……いつからなくなってたっけ……?)
”隻眼”とぶつかった時には、それでもまだ薄らとひとつかふたつ、残っていたのだが(勿論シャツを着ていて見えない所に、だ)……今はもう、跡形もない。
今までは躰から痕が消えることなんてなかったのに。
……痕が消えなければいいのに。
消えない痕があればいいのに。
名残があればそれを慰めにできていたのに。たとえ発作が続いても。
――たとえ発作が続いても……?
(……あと、か……)
痕が残らない代わりに、記憶が残っている。
愛していた。
愛されていると思っていた。
壁に置いた手に力がこもる。
身代わりなのか。
身代わりなのか?
ベンに対する想いは、あの人へのすり替え・身代わりでしかないのか?
ベンをあの人に見立てているのか?
あの人が自分にそうしたように?
やはり自分にはあの人だけなのか?
十年以上も前の、今はとっくに思い出の中の人。
……未だに忘れえぬ人。
忘れられない想い。
あの頃、世界には自分とあの人だけしかいなかった。
それで充分だった。
たとえ自分があの人にとって誰かの身代わりでしかなかったとしても。
それでもたしかに、自分はあの人を愛していた。あの人も自分を愛してくれていると思っていた。
ベンへの執着は、あの人にとっての自分と同じものなのか。
身代わりなのか?
すり替えなのか?
見立てなのか?
考えてもわからない。
答えは出ない。
出口のない永久迷路をさまようみたいに。
でも。
――それでもいい、と言ってくれたのは、ベンのほうではなかったか。
頭をブルブルと振って頬を両手でパシッと叩く。シャワーを止めて両手で髪をかきあげる。
シャワーコックを見上げて睨む。
(……決めたのに…決心グラつかせてどうするよ)
罠をしかけよう。
あの男ののためだけに。
絡めとってやろう。
あんな姿を見られたのだから――もう、隠すことなどないに等しい。
思い知らせてやろう。
きっと、まだ思い出せていない彼自身の奥深いところを、これから。
捕えよう。
この手を離れたのなら、何度でも。
欲しいものは欲しいんだから。
身代わりだろうとなんだろうと。
今、あの男を、ベンを欲しいと、触れたいと思っている気持ちに嘘はないから。
心はまだ迷っているけれど、決めたことは覆さない。
欲しいものは奪う。
子供だった昔とは違う。
今は海賊なのだから。
欲しいと思う気持ちを隠さなくてもいい、はずだから。
手持ち無沙汰で部屋の主を待つこと三十分。
六本目の煙草を根元近くまで吸って灰皿に押し付けた時。シャンクスが腰にタオルを巻いたまま、頭にタオルを乗せてバスルームから出てきた。
ぺたぺたと素足で歩いてきて、そのままベッドに腰かける。その様子にベンは顔をしかめた。
「……ちゃんと髪乾かさないと、風邪を引くぞ。服も着たほうがいい」
「今アツイからいらねぇ」
「そりゃあ今は風呂あがりだからかまわねェだろうけどな、熱はすぐに冷えるもんなんだぜ? 濡れたままだとなおさらだ」
「いいだろう別に……細かいコトはどうでもいいからさ、髪、拭いてくれよ」
そういってこちらに頭を垂れる。タオルは頭に乗せたままだ。その下の表情を窺い知ることは出来ない。
「……船長命令じゃねェと拭いてくれねェか?」
「いや、そんなことはねぇが……、せめて何か羽織ってくれ」
言いながらシャンクスから離れ、バスルームへと向かう。戻ってきた時にはバスタオルを手にしていた。それをシャンクスの肩にかける。充分とは言いがたいが、いくらかはマシだろう。
「じゃ、拭いてくれ」
促す言葉にやれやれ、と溜息しながら…でもその言葉に逆らう気は起きず、シャンクスの正面に立ってタオルの上から頭をすっぽり包み、ぐしゃぐしゃと乾かしてやる。
シャンクスは俯き加減で、それをじっと受けていた。
さて、いつ切りだそうか。
用意していた言葉を発するより早く、シャンクスが俯いたまま問い掛けてきた。
「……で? オレに話って?」
出鼻がくじかれた感がなきにしもあらずだが、話すきっかけができた。用意していた言葉を思い出す。
「ああ……話というか……聞きたいことなんだがな……」
「聞きたいこと? 何だよ?」
「うまく言葉が見付からねェんだが……」
扉の前で散々切り出し方を考えていたはずなのに、イザとなると言葉は逃げていく。あらかじめ用意されたものなど、そんなものなのだろうか。
髪を拭く手を止めずに、ゆっくりした言葉で続ける。
「俺と、あんたとのことだ。……前から聞こう聞こうと思っていたんだが……」
「……なんで聞かなかった?」
「……聞かなかったんじゃない。聞けなかったんだ」
「聞けなかった?」
「俺の一方的な記憶違いかとも思っていたから……」
苦笑をもらす男の言葉に、赤髪は幽かに笑む。
「……なんで記憶違いだって?」
「あんたが俺の記憶とえらく違う行動をしてたからな……起こしに行っても起きてるし、航海日誌は書いてるし。なんというか……ちぐはぐだった。ひとつひとつの行動がいちいちあんたらしくないような気がしたんだが……よくわからなかった」
「よくわからなかったっていうのは?」
淡々と問いかける声に抑揚はない。気になりはしたが、今はそれについて問いただしている場合ではない。
「俺の記憶にあるあんたと、実際に動いているあんたの行動が違うのは、きっと俺が倒れたことか記憶を失くしたことがきっかけだろう、っていうのは予想できた。……どうしてそれであんたの態度が変わらなきゃならねぇのか、ってことが……わからなかったんだ」
「…………」
「聞こうと思っても、ゆっくり話をする機会がなかったしな……やっぱり、避けてた……のか?」
「……ああ」
「何故?」
問いかける声はシャンクスを責めるでもなく、怒っている風でもなく。髪を拭く手のように、あくまで優しいのは……気遣ってくれているのだろうか。そんな余裕があるというのか。こちらにはとっくに余裕などないというのに。
――少しだけ、黒髪が憎い。
そんな感情は不条理だとわかっているけれど。
「……髪、もういいぜ」
「ああ……」
問いに対する答えはなかったが、素直に応じて頭を拭く手を止める。
濡れたタオルをサイドテーブルにおいて、くしゃくしゃになった髪を指で軽く梳いてやる。やっぱり柔らかい、と何故か納得した。
「……何か着た方がいい。この部屋が暖かいとはいっても、今は冬なんだからな。すぐに冷える」
「いいよ。いらねぇ」
「そういうわけにいかねェだろう。風邪を侮ると痛い目にあうぞ」
「いいから……」
言って、シャツを取りに行こうとしたベンのサッシュの端を引っ張られた。
足を止めて振り返り、不審な顔をしてしまった。どちらのものかわからない、息を呑む音が聞こえる。三歩近寄ると、手を伸ばせばシャンクスに触れられる。
ベンは目を疑った。シャンクスが鳩尾あたりに頭を預けてきたのだ。動きはまるでスローモーションのように映る。そうして腰にはぎこちない動作で腕が回される。濡れた髪の冷たい感触に続き、シャンクスの体温が伝わった。
「……おまえにくっついてれば、寒くない」
「お頭」
「違うだろ」
戸惑いの言葉は否定される。抱きついたまま見上げてくる深海色の瞳。咎める口調とは裏腹に、縋るようだと思った。
心臓が、そこだけ別の生き物のように動いている。脈打つ音が耳にはっきり聞こえる。これは自分だけの鼓動だろうか。
「こういう時はそう呼ぶんじゃない。覚えてるだろ……? 言ってみろよ……」
「お頭」
「違う」
「…………」
即座に否定されて言葉を失って。自分を見つめるシャンクスの眼差しはただひとつだけを求めている。
彼から少し、視線をそらした。
目を閉じて。
深く息を吸って。
彼の名を。
ゆっくり、呼ぶ。
「……シャン、クス」
「…………」
ぎこちないながらも名を呼ばれ、ゆっくりと…水滴が布に染みこむように、氷が溶けるように、シャンクスの表情が和らぐ。
「……もっかい」
掠れた声に要求され――無論ベンに否やはない。
今度は赤髪に視線を合わせ、先程よりはっきりと、名を呼ぶ。
「……シャンクス」
「…………」
じぃ、っと自分を見つめる深海色の双眸に魅入られる。
体の中、心の奥まで覗きこんでくるような深海色の双眸に、吸いこまれそうだなと思った。
そして引きこまれるようにシャンクスに顔を近付けようとして……突然、我に返って思いとどまる。
いま、自分は彼に何をしようとした?
深海色に吸い寄せられて……それから?
ベンの内心を見透かしたように、シャンクスが笑んだ。妖しの華が咲くように、ゆるりと。惑わすように。いや……惑わすために。
「……どうして止める? おまえが今、したかったこと……しろよ」
視線をベンの濃紫紺の瞳から離さず。囁くような声音で、逆らうことは許さない。
理解した。悟った、と表現した方がまだ近いか?
彼が自分にとってどんな存在であるのかを。
絶対者。
彼は自分にとっての絶対者なのだ。
――目がそらせない。否――そらせるわけが、ない。
唯一絶対の存在、なのだから。
「ホラ……早くしろって……」
囁くような催促の声に誘われるように、顔を近づける。
深海色の瞳が。
挑発するような色。
誘う瞳。
首に絡みつく褐色の腕。
――触れるくちびるは彼の髪よりやわらかくて。
……からだが、覚えている。
このやわらかい感触を。
いつかもこうやってキスをしていた。
そんなに遠い日のことではない。
数度ついばむようなキスをして――舌を絡めてきたのはどちらからだったか。
ベンが気付いた時にはベッドへ引き倒されていた。
間近でシャンクスが言う。
「……オレとの約束を破って、約束を忘れたのは許さねェけど……」
見つめる眼差し。ベンのすべての奥底まで見透かすような真っ直ぐなひかり。
このひかりに、捕えられた。今。……きっと昔も。
彼は息をついて、言葉を続ける。
「……決めたんだ。忘れたならまた覚えさせてやる。刻んでやる。前よりずっと……オレにハマらせてやる。たとえ……おまえが嫌がっても、だ」
「…………」
細い目を開いて声なく驚くベンに、挑戦的に笑う。
「……嫌じゃねェよな?」
聞きながら、嫌とは言わせない声音で聞いてくる。
そうして見つめる深海色に操られるように、答えはひとつ。
「ああ……嫌じゃない」
この命を預けると誓ったあなたになら。
誰にも代え難いと思っているあなただから。
嫌だなどと思わない。
シャンクスは答えに満足そうに微笑し、
「……じゃあ、」
腹筋を使って上体を少し起こして、躊躇わずにベンの薄い口唇にくちづける。そうしてまた伺うように覗き込んできて、
「……コレも嫌じゃねェよな?」
「……ああ」
「今度は……おまえから」
枕に沈む赤髪を追い、言われるがままにそっと顔を寄せ、躊躇いがちに薄いくちびるにくちびるで触れる。 「……シャンクス……」
口をついて出た彼の名。
赤髪の体が、かすかに震えた。表情も、揺れた気がした。泣くのかと思ったが、彼は泣かなかった。代わりに頬に触れてきて、せがむ。
「……もっと……」
名を呼ぶことなのか。キスなのか。
どちらを、と要求されなかったし、ベンも聞き返さなかった。
だから両方。
「シャンクス……シャンクス」
額に。
目許に。
頬に。
耳に。
首筋に。
キスを落とすごとに彼の名を囁く。
名を呼ぶと、何かが頭の奥から波うって零れてくるような気がした。
今まで感じていたもどかしいものの正体がわかるような、掴めるような。
想いの正体を確めるように。
愛しさなどという生易しいものではなく、言葉にできない想いが頭の奥から体の中へ染みてくるような気がする。
自分よりも幾分も薄い体を抱きしめて、くちづける。
深く、甘く。
奪うよりは優しく、絡みあって、堕ちるように。
顎が疲れるまで貪ってから離れると、赤髪が微笑った。
「煙草の味がする」
「……嫌だったか?」
そういえば、シャンクスがバスから出てくるまで六本は吸った、と顎をさする。
すまなそうな表情をした黒髪を、赤髪は微笑った。
「バァカ。嬉しいってゆってんだよ。……久しぶりのおまえの味だから……。いいからホラ、続けろって……」
首に絡めた腕に力をこめて引き寄せられ、誘われるようにまたキスをする。
「…………」
くちづけて、無意識に手が赤髪の褐色の胸を滑るのに気付いて慌てて止めかけたが、キスしている間の赤髪の表情があまりにうっとりと気持ち良さそうで……また、止めようとする手を許さぬように赤髪が手を添えてきて、多分こういうこともしていたんだろうとぼんやり理解し、止めるのを止めた。
不思議と、嫌な感じはしない。
(なんだか妙な感じだな……)
彼のそういう表情や、微かに返ってくる反応に煽られている自分がいるのに気付いて、また動揺した。
でもこれは、仕方ないだろう。
煽られても仕方がない。
五感、いや、六感までも。
すべての感覚が、反応する。
彼のすべての所作に。
表情に。
吐息に。
しがみつくように回された腕、微かに震える睫毛、わずかに声の混ざった吐息や、乾ききっていない髪の毛の流れのひとつにまでも。
”ソソラレル”、という言葉が正しく感情を表しているだろうか。
女に対して感じる情動の高まりと似たものが、体の中に息づき始めているのがわかる。
これは愛なのか。
恋なのか。
どちらとも違うような気がする。
そんなものじゃない。
そんな甘い感情などではない。
言葉にするととても陳腐なものになってしまうモノ。
もっと深く――濃い繋がり、のような。
正体がわからなくても、たいせつな想い。
願わくば、この気持ちが彼に伝わるように。
錯覚だろうか?
それでもかまわない。
欲しいと思う気持ちだけが今の真実。
欲望に正直なだけも、いいだろう。
「ン……、もっと、触れ……よ」
もどかしそうに求められて、すぐに応じる。
胸から腹筋を。
腰を。
脚を腿から足首まで大きな無骨な手で撫でる。
それでもシャンクスは焦れたように身じろぎし、
「……もっと、だ……」
少し細めた深海色。
熱のある声が含む所に気付いて――
「いいのか?」
思わず確認を取ってしまった。
童貞のようだと思ったが、赤髪も同じようなことを思ったのだろう。小さく微笑し、太い首に両腕を回して黒髪を引き寄せ、ちゅ、っと口付けてきた。
「かまわねェよ。どうせどうヤッても痛ェんだ……焦らすなよ。全部……よこせ」
そうしてまたくちづけて、上唇を噛む。
舌を差し入れて、歯の間から口腔へ侵入させる。
上顎を舐めようとして舌を絡めとられ、角度を変えて相手の中をより深く貪りあう。
少し苦い黒髪の味。
潮の匂いより強い、煙草の味。
少し冷えていた皮膚が、体の内側から暖かくなっていく。
体を撫でていたベンの手は、やがてシャンクスの中心へと及んだ。
胸にくちづけて、それから手で撫でている赤髪の中心の先へと唇を滑らせる。
「……ン……」
反射的にピクリと体が震える。
言葉は要らない。
ぶつけたい気持ちも言葉もあるけれど、今は要らない。
彼が欲しい。
そのぬくもりが。
カラダが。
すべてが。
「ベン……、……ベック……」
意識が飛びそうになるのを何度も堪えながら、快楽で己を昂める男の名を呼ぶ。
体をまさぐる手も、体臭も、見つめる目も、唇も、体温も。
何もかもが懐かしかった。
触れているだけで、心のささくれが治るような気さえする。
いつもならカオを見られるのもイヤだったが、今はそんなことを思いもしない。
全身でベンを感じられるのが純粋に嬉しい。
彼の熱を感じたくて。
自分の熱を感じて欲しくて。
――やっぱり少しは思い出して欲しくて。
(ちょっと……悔しい、けどな……)
本当は、彼の方から求めて欲しかった。
――でも、いい。
(これから何度でも……おまえから、求めさせてやるから、な……)
そうなるように刻んでやる。
おまえの中にオレを。
深く深く。
一生涯、カラダの何処からも消えないように。
ココロの何処からも消せないように。
自分以外の誰にも、その心を捕えぬように。
奥を突かれて、しなやかな背が跳ねる。
「ッ、ベック……ッ」
生理的な涙が滲み、すがりついた黒髪の上腕に爪を立てる。
カラダの間で揉みくちゃにされている赤髪自身も、もう限界に達しようとしていた。
黒髪は求める眼と声に応じて口付け、
「シャンクス……イッちまえ……」
追い詰める動きを加速させた。
「ベック……ベック…ッ」
酷く感じる所をことごとく狙い突かれ、自分からも出来る範囲で腰を揺らし、ひときわ高い嬌声をあげて。
腕では足りず、たまらずにベンの首に抱きついて。
数十日振りの想いを吐いた。
直後にベンも達したのに気付いたが……その後の意識は途切れた。
低い声が優しく自分の名を呼び、額に張り付く髪をかきあげてキスをしてきたのは、はたして現実だったか、刹那の幻だったか。
光に目蓋を射られて、わずかに赤い髪が揺れる。
気付いて優しくその髪を撫でる。
「……目ェ覚めたか」
「……ん……」
寝ぼけた声で目を何度もこすって、瞬かせる。
ベン腕の中で寝返りをうってこちらを向く。
シーツの中は勿論、ふたりとも生まれたままの姿で。
「…………ぅ〜〜〜〜……」
「…午前中は無理するなよ。寝ててかまわないから」
「したくても……できねェよ……」
腰痛ェ、と呟く顔に不満の色は見えない。むしろ、清しいというか。
猫のように顔を胸にすりつけてくるシャンクスの頭を優しく撫でる。
水、と小さく呟いた声を聞いて、起き抜けに自分が飲んだグラスに真水を満たして渡す。
美味しそうにそれを飲んで、口許を拭いながらグラスをベンに返す。
「おまえ……いつから起きてんの……?」
「あんたが起きるちょっと前だ」
「……また人の寝顔見てたんだろ……」
「…………」
本当のことなので言い返せない。だが別に、シャンクスの方にはそれを責めるつもりはなかったらしい。
「で? 久々のオレの寝顔はどーよ?」
だんだん頭がハッキリしてきたのだろう。口調がしっかりしてきている。
ベンの胸の上に顎を乗せて、上目で見つめてくる。その頭をくしゃくしゃに撫でながら、
「そうだな……、……ひとつ……思い出したことがある」
「ん? なんだよ?」
ぐっと顔を寄せてきたシャンクスの頬を両手で包み、さらに引き寄せ、
「あんたが、俺とするキスがとんでもなく好き……ってことを、だ」
そうして「おはようシャンクス」と言い、軽く音を立てて口付けた。
ベンの絶対者は満面に笑む。――数十日ぶりに。
登りたての陽のように、心からの笑み。
そうして、男の胸に甘えるように抱き付いた。
暮れない陽はない。
だが、明けない夜はないのだ。
長い長い闇も、いつか必ず果てがくる。
闇の中にいる間は、その果ての見えなさに負けそうになるけれど。
それでも。
無音の夜の闇は巡り、けたたましい音とともに朝はやってくる。
――ただ待っているだけではダメだけれど。
闇をもその身に内包した光が必ず訪れる。
闇の安らぎを手に入れた光が、必ず。
「おはよう、ベック」
軽いキスを返す。
この船の夜が――ようやく、明けた。
end.