「お頭に、カンパ――――イ!」
何十回目かの音頭はやはり騒々しかった。
めぐる杯、ぶつかるジョッキ。
コックが腕を振るった料理が次々と運ばれ、男達は奪うようにそれらを平らげていく。すでにかなりの量が饗されていたが、それでも彼らの胃は底無しだった。
「っか―――――! 戦勝のあとの酒は格別だねェ!」
口の周りについた泡を拭いもせずにヤソップが言う。頷いたのは隣のリック。
「お頭の剣も久々に見れましたしね!」
「アレな! も〜〜ゾックゾクモンだったな!」
タコが大きく頷くが、もうそれ聞き飽きちまったぜ、と誰かが言う。
「うっせぇ! な〜んどでも聞きやがれってんだ!」
「なにおう?!」
喧嘩っ早い船員と胸倉をつかみ合い、あわやという事態になりかけたが、酒席上の喧嘩は見苦しいとヤソップが眉をしかめて話を故意に変える。
「おうおう、そのお頭がさっきからいねェが、どこ行っちまったんだ? 誰か知らねェか?」
「部屋に戻ってますぜ。気分悪いとかで」
タコの胸倉を掴んだ船員が答えると、周りの船員が笑った。
「戦勝祝いの酒で悪酔いかァ? かーいそーになっ」
「副船長は?」
今度は別の船員が船首の方を指差し、
「あっちで新入りに囲まれてまさァ」
「モッテモテだねェ、副船長♪」
「一見顔怖いけど、いい人だもんな〜〜。あの人いなきゃ、ウチまとまってないんじゃねぇ?」
「かもな!……ま、とりあえず……」
「お頭の分までおれたちが飲んでやろーぜ!」
また誰かが乾杯を叫び、酒が回る。
めぐる杯、ぶつかるジョッキ。
誰もがシャンクスの心情を思いやれなかった。いや、気付かなかったのだ。宴の初め、乾杯の笑顔に騙されて。
船長室。
狭くはない部屋で、シャンクスは明かりをつけていなかった。
酒は浴びるほど飲んだが、少しも酔えなかった。逆に頭が冴えるばかりで、ちっとも楽しめない。戦勝と副船長の仇を取ったといって、回りはとにかく楽しげに飲んでいるというのに。
勝手に疎外感を感じて、部屋に戻ってきた。
暗がりの中でひとり、思いにふける。
ベンの目が覚め、記憶を一部喪失してから二週間。
(二週間。――アイツがオレに触れなくなってから二週間。我ながら自分の根気良さに感心するぜ。オレってこんなに我慢強いヤツだったっけ? ついこの間まで三日とあけずにしてたっていうのにな)
ごろりとベッドに転がる。
一人きりで眠るにはかなり広い。もともと大柄で寝相がいいとは言えないシャンクスに合わせて特注したベッドだから当然なのだが。
仰向けになって天井をぼんやり見つめる。
空間を作る壁や天井になんだか押しつぶされそうで、すぐにうつ伏せになって枕を抱きしめた。――染み付いてた男の匂いも、もう、しない。
甲板の喧騒は遠い。
ひとりきりだということを改めて思い知らされているようだ。
ひとりきりは……とても、静か。この部屋だけまるで異次元のよう。
部屋という空間にいることに耐えられなくなって、たまらず外に出る。
目ざとい連中が呼び止めてきたが、適当にあしらって船を下りる。
騒ぐより、今は一人になりたかった。
遮るもののない場所で、一人になりたかった。
浜辺の前に広がる木々の海をゆるゆると歩き、目の前が開けるまで進む。
夜の闇の中ではあったが、晴れているため星と月の光だけで充分明るかった。
風は無い。空気はぬるく体にまとわりつく。
知らない土地で夜にうろつくなと言われそうな気もしたが、どうでもよかった。文句を誰に言われようと知ったことではない。自分の思うようにする。
「あんたはあんたが思うように生きろ」
と言ったのは、あの男ではなかったか。
投げやりな気分で足を進める。
カウラーを殺って、ベンの記憶がすべてすっかり戻るならすぐさまそうしていた。剣を交える時間も無く一刀のもとに斬り捨てていただろう。
――戻らないとわかっていたからこそ。あんな戦い方をした。
ベンでなくとも、ヤソップあたりが見ても、きっとおかしいと感じたに違いない。「『赤髪』らしくない」剣の使い方。右しか使わなかった私闘。敵討ちというよりは、私怨。苛立ちをそのまま、剣に乗せた。
ただ殺すだけでは足りなかった。感情が、そんな楽な死なせ方を許しはしなかった。
十分ほど歩いただろうか。木々がなくなったかと思うと、池が見えた。いや、池というには大きい。そこの周囲に生えている木々は、南国のそれに似ている。そういえば、今は冬のはずなのにこの島は少し暖かい。赤道に近いせいか。
水際まで歩き、サンダルのまま足を水にひたす。水浴びの季節にはずいぶん遅かったが、それでも水の冷たさが心地よかった。
日が昇っている時に見ればきっと美しい景色が見れただろうが、今は月が静かに黒い水面に映るのみ。
水が跳ねてズボンの裾を濡らすのも構わず、そのまま水際を歩く。小波がたって、月を歪ませる。
静かな夜。木々のざわめきすらない静寂。
生き物の気配もほとんどない。おそらく眠りの神の衣の下で安らぎに満たされているのだろう。
ぴちゃぴちゃと水を跳ね上げながら、やがて水際に座ったまま足を水に浸せる位置に生えた木の下に腰を下ろした。揺れる水面の月をぼんやり見つめる。
――する・しないはこの際問題じゃねェんだ。
もともと触られること自体が嫌いだし、されんのもあんまり好きじゃねぇ。……体の熱は好きだけど。
ただ抱きしめられてる方が、するのよりよっぽど好きだ。――そう。問題はソコなんだよ。
落ち着かねェんだ。……アイツ体温が……匂いがねェと。
どうにかなっちまいそうだ。言葉通りの意味で。
実際……ここんところ、発作が再発し出してる。……三日前から、か? 体は正直で困る。
まるでクスリ切れの禁断症状のように、忌まわしい発作に襲われる。
――夜中に何度、アイツの部屋の前で入るのを止めただろう。扉をノックするのを躊躇っただろう。
……躊躇う必要はない、とも思う。
オレはこの船の頭で。つまりはトップで。ようするにイチバン偉くて。ヤツはオレの部下で。オレはワガママ言ってもいい立場で。……でも言えなくて。
…なんで言えないか?……怖いんだよ。
今のアイツは、今までのアイツじゃなくて。オレたちの、それまでの関係も綺麗サッパリ忘れていて。他にも色々忘れてることは一杯で。そんな中、「オレのことをさっさと思い出せ」なんて言えなくて。……記憶を失って混乱してるヤツに、言えねえよ。そんなワガママ。
……なんてカッコつけてみてはいるが、たんに臆病なだけだ。アイツはアイツなのに……今のアイツと前のアイツを比べて。小さな差異にこだわって。……でも些細なことだからこそ重要、ってのもあって……グルグルグルグル、思考が回る。堂々巡りだ。
アイツを信じられなくなっているのはオレの方。
素直にアイツを求められないのは……あのことも、忘れているから。
ああ、そうだ。どんな理由を見つけても、結局それに集約される。
知らないヤツは知らなくていい。――知られたくない。
誰だってそんな過去のひとつやふたつ、あるだろうが……オレの過去は、アイツしか、知らない。……知っているといっても、一部だけど。
だから、言いたくない。
知られたくない。
見られたくない。
誰にも。
他の誰にも。
――アイツ以外には。
今のアイツは、オレを知らないアイツ。
だから何も言いたくない。
頼りたくない。
甘えたくない。
求めたくない。
それでも、幻が、オレをさいなむ(オレはそれを発作と言っている)。今はまだぼんやりしたものだが…この先もこのままなら、きっとあの幻は確かな形になっていく。そうしてオレの神経を蝕むだろう。それがわかる。……以前にもあった。
アイツと眠ることでやりすごせていた発作……狂いそうだ。
以前は耐えられたのに……今は耐えられなくなっているのはどうしてだ? オレはそこまでアイツに依存しているっていうのか? このオレが?
ヤラなくていい。眠らせてくれ。おまえの、隣で。
呼吸を、鼓動を、熱を……オレにくれ。
夜の安らぎを、オレに。
叫びたい。叫んでしまいたい。
――いっそ狂ってしまいたい。
……狂えたら。楽に、なれるだろうか。
狂って。
叫んで。
吠えて。
自分という存在そのものを消してしまいたくなる。
救けてくれ。救けて。
誰か、救けてくれ。
狂気に掬われそうなオレを。
たすけてくれ。
―――同時に叫ぶ心は、それとはまったく逆のこと。
たすけなくていい。
狂わせてくれ。
狂わせろ。
赫い月に心が吠える。
オレは叫べない。
壊れかけた心を抱いたまま、
……泣くこともできない。
――ひとり眠る夜はただ、つらい。
「副船長ォ」
真っ赤な顔をしたアディスンがベンの肩に手を回す。普段なら絶対にしないこと(いや、『できないこと』)だ。酔っ払って上機嫌になっていることがよくわかる。
煙草をふかしながら、なんだ、と問う。こちらは顔色すらまったく変わっていない。アディスンよりよほど飲んでいるはずなのだが。
「お頭ァ、どっか出てっちゃったみたいッスけどォ、ほっといていいんですかァ?」
「ガキじゃねェんだから、ほっといたって大丈夫だろうが」
出て行ったのは気付いていた。甲板に出て来た時に船員の何人かが声をかけていたが、二言三言返しただけで下船したのも見た。どこへいくのか気にはなったが――まだカウラーの手下が残っているかもしれない――サーベルは持っていたみたいだし、シャンクスなら大丈夫だろうと思ったのと周囲の船員が放してくれなさそうだったのが合わさって、そのまま見送ってしまった。
「でもォ、なんか様子、変じゃなかったッスかァ?」
「…………」
ベンは傍目ではわからぬよう、困惑をそっと吐き出す煙に混ぜた。
あのシャンクスが他人に異変を気付かせるとは、よほどのこと。
船長のみならず、副船長たる自分までが船から離れるのはどうかとも思った。が、この船ではそれは許されることらしい。あの時から今日までの間にそれを知った。何かあっても、きっとヤソップやルゥがうまくやってくれるだろう。
なにより、船を下りる時に一瞬自分を見たシャンクスの眼が。精彩を欠いていたのが気になった。
「……ちょっと出てくる」
「ウィ〜〜ッス! いってらっしゃ〜い!」
上機嫌で見送られたが、それには応えなかった。
船から下りると、甲板の喧騒が少し遠くに感じられる。そのかわりのように潮騒が耳につく。
やわらかな砂を踏みしめて、眼前に広がる森へ足を運ぶ。
船を下りたはいいが、アテがあったわけではない。
ただ、『なんとなく』そちらに行けば、いるような気がしたから。確たる確信の無いまま、進んだ。
歩きながら、考えをめぐらせる。
――どうしてもわからねぇことはひとつ。
この「赤髪海賊団」の船長、つまりお頭のこと。
気紛れでワガママで自由奔放で子供っぽくて、まさに天衣無縫を具現したような人だということを知っている。戦闘時においての比類無き強さも。
『鬼神』と噂されるに違わぬ剣筋。気。視線。
闘いと平時とのギャップ。
仲間を思う心。
そういうところに惹かれたんだろうとは思う。
そして惹かれた気持ちに負けないくらいの実力を持って。
それを彼に認められて。
信頼されていたからこそ、「副船長」という地位に俺はいるんだろう。
以前乗っていた船、『海軍』という絶対的正義やその中での自分の地位、親や弟妹を捨ててまで。体裁や海軍内部で築いた地位、名誉すべてを擲っても彼についていく価値はあると思ったのだ。今も思っている。
軍人には見当たらなかった懐の広さ、鷹揚さ。圧倒的な剣技、海賊らしい陽気。すべての者の視線を奪うのではないかと思うほどの存在感、カリスマ。
記憶にあるシャンクスと自分が見知っているシャンクスに差異はないはずなのに、何かが違うと脳が言う。しかし何が違うのか、自分でわからない。
そこまで考えたところで、目の前が開けた。
湖には小さい、池のような水溜りが視界に広がる。
月はちょうど中天。
風はない。
水面に映る月は赫く、炯炯と輝いている。遮る雲も小波もない。
彼のヒトはといえば。
「……ったく……」
水辺に生えているガジュマルの幹にもたれ、動かない。おそらく眠っているのであろう。溜息と紫煙を吐いて、無防備に眠る人に近寄る。
――起きない。
これで敵が来た時には対処できるのだろうか。一抹の不安は拭えないが、それどころではない。
「……お頭」
呼んでも起きない。
どうしたものかと船長の隣に膝を折る。ゆすぶって起こしてもいいものだろうか。
顔を覗きこむと、汗で髪が額に張り付いているのに気付く。起こさないように払ってやる。
「……?」
払った顔が、苦悶しているように見えた。何か嫌な夢でも見ているのだろうか。
(……起こすべきか?)
額の汗をサッシュの端で拭いながら考える。
うなされているわけではなさそうだが、その一歩手前というところか。
額を拭った手で、そのまま髪を軽く梳く。――と。
「……?!」
グラっとシャンクスの体が揺れ、向こう側へ倒れかける。あわててとっさに抱きとめはしたものの、さてどうしたものか。
「………ン……、……」
腕の中で小さく身じろぎしたが、起きる気配はない。よほど深く眠っているのか。いや、夢を見ているなら浅い眠りのはず。と思っていると、シャンクスは小さく動いてベンの胸に持たれるような格好になり、苦しげな表情を和らげた。安心したかのように。
「……仕方ない、か……」
起こさない方がいいと判断して、なるべく体を揺らさないように抱きかかえてやる。
予想外の軽さに、驚かされた。
シャンクスは決して小柄なほうではない。身長は182cmあるから、むしろ長身の部類に入る。
己の体格と比べれば多少薄くもあるし、彼はずいぶん着痩せするタイプだから細く見られがちだが、実際はそうでもない。白の綿シャツの下には、無駄が一切ない、薄いが上質の筋肉がついていると知っている。
だから余計に予想していたよりも軽くて、驚いた。眠って力が抜けているのだから、起きている時よりも重く感じるはずなのだが。
穏やかな寝息をたてる人を、複雑な気持ちで見下ろす。
口ヒゲがあってもなくてももともと年齢より若い、というより幼い顔立ちだが、目を閉じているといっそう童顔だと思う。少なくとも――朝、一対一で勝負をしていた人と同一人物とはとうてい思えない。
強烈なあの視線も、あの時限りだ。思い出したと思ったが、それは『シャンクスがどういう人だったか』を思い出したのであって、二人の関係に付随する諸々の出来事や感情などを思い出したわけではない。
結局、一番気になる部分はわからないままだ。
またもやもやした気持ちが頭をもたげてきた。
(――一番わからねぇのは)
時々感じる、あの責めるような、悲しそうな、射るような、縋るような、あの視線。
あの視線の意味は――いったい、なんだ。
それは、カウラーとの戦いで刹那に見せたあの視線にも似ていて。
だがそれがなぜ自分に向けられるのか、ベンにはわからない。
(俺はお頭にとってどんなヤツだった? ただの副船長じゃあねェのか? お頭は俺にとってどんな人だった? ただのお頭じゃねェってことはわかってる。それが差異を生んでいるのだということも)
わからなければ聞けばいい。
たしかにそうだ。だが、聞けるような状況にならない。
気のせいだろうか。
視線とは裏腹に、避けられているような気がするのは。
他の連中と同じように接せられているはずなのに、時折感じる強い拒絶の雰囲気は。
(――俺に何を言いたいんだ? 教えてくれ。何か重要なことを、俺は忘れたままなのか。お頭にとって俺が無くした記憶の中の、何が大切だったんだ?)
心底から聞かせて欲しいと思う。いつでもそれが無性に気になるからだ。