11月28日、晴れ。
西南の風、風力は……まァまァってとこか。夕暮れ時からちょろっと靄がかかってきた。
目的の島・カーネギー島(無人島……だったな)まであと少し。ここまで順調な航海だ。多分、明日の午前中には着岸できるだろう。
船員は全員元気で、病気のヤツなんかはいない。病気の「び」の字すら見あたらねぇ。馬鹿ばかりで結構なことだ。
――副船長が記憶を失くしてから二週間が過ぎた。
さすがのアイツも最初は戸惑ってたみてぇだが、皆面白がって――いや、イイトコ見せたがって、か――副船長と話したがるから、ヤツの周りにはいつも誰かがいる。にわかアイドルのようだ。アイツが自分のペースを掴めてないのは絶対、連中のせいだと思う。それでも…以前より明るくなったような気がするのは――よく笑ってるからか? いや、だからといって以前が笑わなかったヤツじゃあないんだが、
「……っとと、いけね。これじゃあアイツの観察日記になっちまう……」
イカンイカンと呟き、付けペンを齧る。読み返して、どこから文を消そうかと読み返し始めた所で、部屋をノックする音にペンを止めた。
「おゥ。入っていーぞ」
おざなりな返事に応じて入ってきたのは、船内一の長身だ。口には相変わらず、トレードマークの煙草。
「お頭。島には明日の早朝にも着きそうだ……、何かしてたのか?」
「おォ。日誌書いてた」
「珍しいな、お頭が日誌書くなんて」
多分それは純粋な感想として彼の口から発せられたのだろう。だがシャンクスの内心を揺らすには充分な力を持った言葉だった。
(おまえがそんなこと言うことのが意外だっての。……あんなことが起こる前はおまえが書いてたんだけどな)
思っても口にはしない。口まで出かかった言葉を深呼吸で壊す。
「……何言ってんだ。毎日書くもんだろ、コレは」
「そういえば、そうか?」
「そーだよ。ヒトがせっかく真面目に船長してるのにィ、副ちゃんったらも――」
茶化す口調で言いはしたものの、
(他のことは思い出してるのに、なんでオレ関連だけほとんど思い出せてねぇんだよ……)
苛々するのは何故か。――わかっている。
「……その呼び方は止めてもらえねぇかな、お頭」
渋い顔で煙草をふかす黒髪に、さらにおどけてみせる。
「だって”珍しい”とか言われたしィ」
(一向に思い出してくれる気配ねぇし)
二週間。
二週間も経っているのに。
大切な部分だけを、この男は忘れたまま。
(他の連中のことは思い出せてるのにさ……オレだけ仲間はずれみたいじゃねぇか……)
子供のような嫉妬。子供だと自分でわかっているからこそ、「思い出せ」とは詰め寄れない。それすらも子供じみた意地だと、シャンクスは思っていた。
ベンは気付かないけれど。
彼が目を覚まして開口一番に「あんたは誰だった?」と言われたことが、まだ自分の中で尾を引いている。自分が根に持つタイプだったのだと認めざるを得なかった。シャンクスの内心など知らないベンは、微苦笑して頬を掻いた。
「そんな気がしただけなんだ……気に障ったなら謝る」
「生真面目だなァ。そんな真剣にとんなって。で、何? いつ陸に着くか報告に来ただけじゃあないんだろ?」
「ああ、夕食の支度が出来たってさ。食いっぱぐれないうちに行かないと、ルゥに全部食い尽くされるとさ」
「おっけィ。じゃ、副ちゃん。一緒にメシ食おうぜ〜」
「……だからその呼び方、止めてくれと…」
「こまけぇこと気にすンなよ、男が。さーって、今日のゴハンは何かな〜♪」
わざとらしく口笛まで吹き、上機嫌を装って部屋を出て行く。
翌、早朝。
赤髪海賊団の船員をたたき起こしたのは小鳥のさえずりなどという可愛らしいものではなく、
「敵襲、敵襲――――ッ!」
野太い見張りの声だった。
声を聞くまでもなく表の気配を敏感に察したベンは手早く身支度を整え、すぐに向かいの船長室のドアを叩いた。見張りからの報告は、支度をしている間に聞いている。
船内がにわかに慌しい。おそらく甲板ではすでに戦闘が始まっているはず。霞のために詳細は良くわからなかったが、人数は少なくないらしい。どんな敵だろうと負けるつもりはないが、急ぐに越したことはない。
「お頭、入るぜ。敵襲だ」
ドアはベンが開けるより早く、内側から開かれた。予想外のことに一瞬言葉に詰まる。
「……早いな」
目の前に立つシャンクスは、すでに麦わら帽子もかぶり、黒のマントも羽織り、腰にはサーベルも帯びていた。戦闘態勢は整っているといっていい。
「……起きてたからな」
感情のない声で短く答える。
「こんな時間に?……まさか、寝てないのか?」
「まさか。ンなわけねぇだろ」
平然と答え、麦わら帽子を目深にする。
嘘。
本当は起きていた。
(……眠れなかったら、起きてるしかねぇよなぁ……)
ここ数日、不眠症の気が出てきている。
眠りたくても眠れない。
浅い眠りだけがたまに訪れても、いつも汗びっしょりになって飛び起きる。夢を見ているらしいが、どんな夢なのかは覚えていない。
良い夢でないことは、起きた時の気分の悪さでわかる。――思い出さないほうがいいような気がする。
「思イ出スナ」と体が警告しているような気がする。
――怖い。
けれどそれは誰にも言えない。話せない。
そんなのは『赤髪のシャンクス』ではないから。
自嘲じみた笑いは、麦わら帽子と身長差のおかげでベンに見られることはない。
「……で、どこのバカが仕掛けてきたって?」
部屋を出る歩みも悠然と。まるで食事に行くように。その二歩後ろをついて行きながら、いつのまにか咥えていた煙草をふかす。
「『隻眼』らしい」
「『隻眼』……? カルナックか?」
「ああ」
「……おかしいな」
歩みを止め、腕を組む。同じく、ベンも立ち止まった。短く紫煙を吐く。
「俺も変だと思う。”隻眼海賊団”は半年前に、頭を失っているからな……」
「……覚えてるのか」
なんでそんなことは覚えてるんだと言外に言われているのに気付き、煙草を銜えたまま苦笑する。
「さっき報告を受けて思い出したんだ。隻眼のカルナックは……お頭と一対一で勝負して、死んだんだったな」
「ああ」
半年前。
外洋で出くわした”隻眼海賊団”と戦闘になった。
砲撃戦が激しく続き、どちらかの船が沈むまで続くかと思うほどであった。もっとも、先に沈むのは”隻眼”の方だっただろう。砲弾を撃つ腕は明かに『赤髪』に軍配が上がっていたから。
――が、途中で”隻眼”側から「頭同士による一騎討ち」の申し込みが来たのである。
「お頭が直々に戦るまでもねェ、おれたちに任せろって!」
「罠がないとも限らねぇ。ぜひ止めてくれ」
と船員達からの反対があったが、シャンクスは鷹揚に笑った。
「策略結構! もし何かあっても、副船長やおまえらがフォローしてくれるだろ? 男がサシの勝負挑まれて、ケツまくって逃げられっかっての! オレたちに喧嘩ふっかけてくるようなヤツだぜ? 相手してやらなきゃな!」
――はたして、この一言のために双方の頭同士の決闘が実現したのだった。
どちらかの船の甲板でやると不公平になるため(また、何をされるかわからないので)、互いの船を繋ぎ、間に板を広く渡し、その上を決闘の場とした。
立会人は互いの副船長が一人ずつ。もちろん一対一の勝負に水を差すことがないよう、身体検査済みだ。
『隻眼』の船が遠洋に砲弾を放つ。それが戦いの合図。
「……結構強かったなァ、アイツ」
特に感慨もないように言って、また歩き出す。
「その割に、余裕じゃなかったか?」
「そりゃアタリマエだろ。おまえらのお頭だぜ、オレは」
「理由になってねェが、納得は出来るな」
新たな煙草を咥えようとした手が、ふと止まる。
「……もうひとつ思い出した」
「? なんだ?」
「むこうの副船長を覚えているか?」
「むこうの?……どんなヤツだっけ?」
「えらく若い……ハタチ前くらいのヤツだ」
「……いたような気がする、かなァ……」
「カルナックの弟だったハズなんだがな」
「カルナックの?」
「俺の記憶に誤りがなければな。お頭に斬られたカルナックの死体抱きしめて、復讐を誓っていただろう」
「……あれが弟か。思い出した。じゃあ今、『隻眼』の頭はそいつだと?」
「多分。見てみればわかることだが」
「違ェねえ」
剣呑に笑って、甲板へと通じる扉を開く。
甲板に出た時には、すでに戦闘が始まっていた。ベンが素早く指示を飛ばす。シャンクスはといえば、サーベルを一応抜いたまま、しばらく甲板の戦闘を見ていた。
(……ここにはいねぇな)
戦場をざっと見渡し、ゆるゆると歩を楽しむように戦場のど真ん中を突っ切って、”隻眼”の船へと向かう。気になっているのはただ1点。「誰が今の『隻眼』の頭なのか」ということ。
その間にも斬りかかって来た敵は麦わら帽子を揺らすことすらできずに斬り伏せられ、ある者は戦意を失い、ある者は落命した。風になびく黒の外套にすら触れられない。
かなりの人数がいる。百人もいない。ぐるりと甲板を見、血の紅い輪を描く。
恐れもしなければ怯みもしない。
むしろ状況を楽しむ。
自分を傷つけられる者は誰もいないとわかっているから。
力量の差を見抜けるのも、幾多の戦場をくぐり抜けたからこそ。
笑むのは余裕の証。
余裕を忘れたら『赤髪』ではない。
船の接続部分へと歩みを進める。斬りかかって来る敵など気にも留めない。無人の道を行くがごときの余裕。
敵船を見下ろせば、明かに他の連中とは異なった服を着た男が目に付いた。スカイブルーのキャプテンコートに、栗色の髪。
アレが『隻眼』の頭に違いないと目星を付けて声を投げる。
「テメェが『隻眼』の頭か?」
呼びかけた相手が、声に応じてこちらを省みる。シャンクスと目が合うと、その顔にあからさまな驚愕が走った。
「……赤髪……ッ」
「おうよ」
短く答えて不敵に笑む。カウラーは視線で殺さんばかりの形相で、歯軋りする。
「……生きていたのか……ッ」
「オイオイ、あったり前だろうが。勝手に殺してくれるなよ。死んだのはテメェの兄貴、だろ」
右手で麦わら帽子を押さえ、相手の神経をわざわざ逆撫でるセリフを吐いて、体重を感じさせない身軽さで『隻眼』の前甲板へと降り立つ。
ニヤリと笑えば、炎が吹き出しそうな苛烈の視線を浴びせられる。
「なんで貴様が生きてやがるんだ!」
「ずいぶんな挨拶じゃねーか。巷じゃ、赤髪が野垂れ死んだとかいうデマでも流れて……」
はたと。何かが頭の奥で爆ぜた気がした。それは直感。
(……まさか……)
無意識に、サーベルを握る左手に力がこもる。目をすぅっと細めて、激しい双眸を見つめ返す。カウラーの視線が熱のごとき視線であるならば、シャンクスの視線は凍てつき鋭く尖る氷の視線。ただし、その内には消えることのない烈火が在る。
「……ひとつ聞く。あの毒を盛りやがったのは、テメェか?」
「あいつら……しくじりやがったのか……!」
「『あいつら』? てめェが直接下したわけじゃあねェのか」
シャンクスの問いには答えず、カウラーは腰にさしていた剣を怒りのままに荒々しく抜く。
カウラーの周りにいた男達が止めようとする。
「頭!」
「止めるな! いや……止められてもおれはやるからな」
「一度態勢を立て直したほうがいい。引き際だ」
濃紺の髪を束ねた男が、険しい顔で止めるが、カウラーに聞く気はないようだ。他の船員(おそらく幹部なのだろう)も頭の無謀を止めようとするが、カウラーは頑として首を縦に振らなかった。
「シャガード、引くならおまえがこいつら連れて行け。おれだけは絶対ェに引かねェ」
強い調子でシャガードという男を睨む。
「これはアニキがくれたチャンスだ! おれが、自分で赤髪を殺る!」
「……わかった。頭が動かねぇなら仕方ねぇ」
「シャガードさん!」
「ただし、頭に何かあれば即引く。……いいな」
「ああ。ありがとよ」
激昂しているカウラーたちのやりとりを眺めながら――対照的に、シャンクスの内心はひどく冷め冴えていた。否、ある一面ではカウラーなどよりずっと憤り、燃えていた。
(……コイツのせいでゲイルが負傷して…ベンが記憶なくして……ッ)
明確な怒りの対象が見えた。
今まで誰ともわからなかった原因が、今ここに、目の前にいる。
許せない。
許せるはずがない。
仲間を不当に傷つけ、なおかつベンが記憶を失くすハメになった原因――そればかりか、ベンに対してこんな思いを抱かせている原因。
自分がイラだっている原因。
憤っている原因。
すべての原因が――元凶が、今目の前に。
穏やかでいられるはずがない。
「……かかってこいよ、カウラー」
どこかで、張り詰めていた細い糸が切れた音がしたような気がした。塞き止めていたものが崩れ、流れたような気がした。
「オニイチャンの仇なんだろ? オレは。逃げねえぜ。相手にしてやっから……かかってこいよ」
知らず、浮かぶのは酷薄の笑み。
挑発的なセリフとは裏腹の表情に、カウラー以外の者の背筋が凍った。
「キサマッ……余裕ブッこいていられんのも今だけだ!」
シャンクスの言葉を素直に挑発と受け取ったカウラーは、怒りそのものの剣で斬りかかる。
誰にも手を出せない私闘が、始まった。