I pray, you stay

3

 先程まで赤髪が座っていた椅子にドクトルが座る。不良医師はルゥが呼びに行った時、不良医師らしく飲酒をしていたらしい。食料庫からくすねたのか彼自身の蔵酒なのか、追及は後に回した。
 シャンクスはドア横の壁に背を預け、口許に当てた左手の人差し指の腹を、気付かれないように噛んでいた。眼だけ、キッチリ髪を束ねた黒髪を食い入るように見つめている。
 ヤソップとルゥ以下幹部の者達もこの場にいる権利や義務はあったのだが、何故か全員席を外している。シャンクスはその理由を聞く気にはならなかった。
「じゃ、自分の名前はわかるかい?」
「ああ。ベックマン。ベン・ベックマンだ」
「じゃ、おれの名はわかるか?」
「……医者ということしかわからん」
「名前はわからない?」
 申し訳なさそうに頷くベンに、ドクトルは「気にするな」と笑う。
「おれが医者だってわかっただけでも上等だ。記憶を失くすヤツの中には、自分が誰だかもわからなくなるヤツがいるからな。上等上等。
 じゃ、いままであんたはどこで何してたかは? あ――たとえば、どんな仕事してたか、とか」
「……船に、乗っていた」
「お。いいねえ♪ 何てェ船に乗ってたかはわかるかい?……覚えてねェか。ああ、だから一々気にすんなって。
 覚えておくといい。ベンさんよ。あんたが乗ってる船は海賊船だ。『赤髪海賊団』の船。で、まァ一目見てわかる通り、おれの後ろにいるのがこの船の船長であり、おれたちのお頭でもある『赤髪のシャンクス』だ」
「赤髪……シャンクス」
 噛み締めるように名を口にし、医師が指した男を見ると一瞬だけ目線が合った、ような気がした。赤髪のほうがすぐに顔を反らしたので確かなところはわからない。
「そうそう、皆”お頭”って呼んでるから、あんたもそう呼ぶといい。……でな、ベンさんよ」
「ん?」
 赤髪から視線をドクトルに戻す。
「あんたがこの船で何してたか、覚えてるか?」
 聞かれて、目を細める。記憶の糸を、たぐる。
「……海図を見たり、描いたり……何かの計算をしたり……していた、と思うが……」
 確かそうだ、というベンの答えに、ドクトルは短く口笛を吹いた。
「けっこー覚えてるモンだなあ! さすが副船長♪」
「……なに?」
 瞬間、怪訝な表情をしたベンと目が合って、ドクトルは後ろ頭を掻いた。
「あ? 重要なこと言ってなかったか、おれは。あんた、この船の副船長なんだよ、ベンさん」
「……俺が?」
「そう。あんたが」
「副船長?」
「そうそう」
「…………」
 大きく頷く船医を見つめながら、ベンは言葉を探していた。
(……船に乗っていたとは思っていたが……)
 まさかその船が海賊船で、しかも自分が副船長とは。
 意外な事実に少し戸惑う。だが、言われてみればそんな気がしてくるから不思議なものだ。
 そんなベンの戸惑いも無視をして、ドクトルは自分のカバンを引き寄せた。
「そうそう、訊きたいことがあるんだが……ってか、訊いてくれって頼まれてるんだけどな」
 言いながら、黒革の大きなカバンから一枚の紙を取り出した。食堂から駆けつけるまでの間にルゥに頼まれて預かったものらしい。B5サイズほどに折りたたまれていたそれを開いて、ベンに見せる。
「……海図か」
「そうだ。訊きてぇことってのは……五十人人くらいの人間が乗る船が、こっからこっちの島へ行く場合、あんたならどう船を進ませる?」
「…………」
 海図を受け取り、示された箇所を見つめる。眉間に軽く皺を寄せてしばらく沈黙した後、
「……こっちの島の手前は、ここにある小島のせいか潮の流れが早い。東回りに迂回するべきだな。西回りだと海底が浅そうだから……船の大きさを考えると、海底で船底を削られる可能性がある」
 ベンの答えにドクトルは感心した息を吐いた。大部分の記憶を失っても、この男の有能ぶりに変わりはない。それがかえって切なさを増させる。
「……ンッとに……そういうことは覚えてるんだなァ……あんたらしーっつーか……」
 このとき背中に感じた不穏な気配は、おそらく気のせいではあるまい。ちくちくと鋭い視線が刺さっているのがわかる。
(穏やかじゃねえなあ……。ヒラの連中はともかくも、幹部連中にゃあバレるぜ、お頭よぉ。……もうバレてんのか?……まあ皆、二人が仲いいことくれェは知ってるけどよ……)
 白髪混じりの頭をバリバリ掻く。考えをまとめる時の船医のクセだ。
「ん・ん・ん――……じゃあ、多分……日常生活と”副船長”としては特に問題なさそうだな。つーか、アンタが副船長やってくれねェと他の連中バカだから勤まらねェんだけどな。アンタ博識な上に働きモンだから。ま、仲間としゃべってるうちに、色々思い出せてくるだろ。ちょっとド忘れしてるだけだァな。心配すんな。ウチの連中、その辺アバウトだからな」
「そうか……」
「起き抜けだってのに、色々訊いて悪かったな、ベンさんよ。まァもー少しゆっくり休んでくれ。細かいコトはまたあとで説明したり、船員がダベりに来たりするだろうからな。……っと、メシも持ってこねェとな! 腹減ってるだろ? なんてったって丸々二日は寝てたんだからなあ」
「……そういえば……」
 言われて初めて、自分がものすごく空腹なんだということに気付いた。気付くときっちり空腹を訴えてくるから、人体は不思議だ。
「後で誰かに腹に優しいモンをもって来させるさ。ちっとの間、辛抱しててくれや」
「よろしくお願いする」
 答えのらしくなさに、ドクトルは内心で苦笑した。表情に出さないのはもちろん、ベンを不安にさせないためだった。わからないことで戸惑わせるようなことはしたくない。少なくとも自分だけは。――医者だから。
「……じゃ、おれァこれで出て行くが…お頭、他になんか聞いておきたいこととかあるか?」
「……三十分後に幹部に召集かけといてくれ」
 声は剣呑極まりない。獰猛ですらある。はっきり言えば怖い。ベンに悟られなければよいがと目をやると、きょとんとした表情をしている。――別の意味で怖い。
 慇懃に「了解」と返し、顎を掻いた。
(素直じゃねェ上に頑固かァ。しかもこの人、他人に悩み事を打ち明けるタイプじゃねぇしなァ……こりゃあ、この先が思いやられるぜ……)
 苦笑混じりに右手を軽くあげて答えると、カバンを抱えて出て行く。去り際にベンを振り返って、
「何かわからんことがあったら遠慮なく聞いてくれ。答えられる範囲で答えっから。相談に乗るぜ」
 そのまま右手をひらひらさせて出て行く。
 
 
 ――赤髪とベンは二人きりになった。
 沈黙が支配する居心地の悪さに身動きも取れないでいると、不意に赤髪が言った。
「ホントに……覚えてないか? オレのこと…なにも?」
 後から思えば、妙に彼らしくない弱気な言い方・声音だった。顔を反らしたまま、なんとも言えぬ表情で。まるで頼りない幼子である。記憶があったなら、らしくなさを訝しく思っただろう。だが、この時には気付くべくもない。
「……申し訳ない……」
 うなだれたベンは気付かなかった。自分を見つめる赤髪の表情が、氷を帯びていたことに。
 沈黙が尾を引いたことで再び顔を上げ、険しい表情の赤髪に視線をやる。数秒見つめても、赤髪がベンの注視に気付いている様子はない。暗い表情をした彼の胸の内は、どうなっているのだろう。
「大丈夫ですか?」
 咄嗟に口をついて出た言葉に、赤髪は思い切り怪訝な顔をした。
「辛そうな表情だったので……」
 しかしすぐに彼がこの船の船長で、自分はその下にいたのだという事実を思い出し、慌てて「差し出がましいことを言いました。すいません」と頭を下げた。船長はベンの言葉を咎めるでもなく、決まり悪そうな表情で顎をさすっていた。
「気にするな。有能な副船長がオレのせいで酷ェことになっちまったなァと思ってるだけだから」
「お頭のせいで?」
 ベンが不思議そうに首を傾げると、赤髪は頷いた。
「おまえはオレが飲むはずだったスープを飲んだ。吐き出しはしてたけどな、スープに仕込まれてた毒は、ほんのちょっとでも摂取しちまったら効くんだと。幸いおまえはすげえ珍しい特異体質で毒は効かないらしいんだけど、毒が妙な方向に作用して、記憶を飛ばしちまったんだとさ。ドクの受け売りだけどな」
 ドクってのはさっきの不良医者のことだと情報を付け足してくれる赤髪の言葉にまた頷く。赤髪のおかげで、何故自分が記憶を失ったのかということは理解できた。だがそれについて赤髪が責任を感じるというのもおかしな話だ。
「俺は俺の職務を全うした。それだけのことでしょう。あなたは生きていなければならない人だから、その時の俺はそうしたんだと思います。義務感があったのかどうかはわかりませんが、自分の意志で」
「…………」
 赤髪の表情が奇妙に歪んだ、と思ったのは一瞬のことだ。掌で顔を擦ると、仏頂面に戻ってしまった。
「お頭?」
「何でもねェ。――それよりひとつ、船長命令だ」
「はい」
 船長命令と言われ、ベンは身を改めた。そんなベンに赤髪は人差し指を突きつける。
「その改まった喋り方、止めろ!」
「……は?」
「さっきドクと話してた時は普通の喋り方してただろ。あれでいいんだよ、あれで。おまえに丁寧語使われると、滅茶苦茶気持ち悪い」
「…………」
 海賊とはそれが普通なのだろうか。
 いや、よほど変わっている海賊団に違いない。ここではない船に乗っていた時は、もっと規律が厳しかった覚えがある。――どんな船だったのかは覚えていないが。
 ともあれ、船長命令ならばそれを守るのが船員の務めだろう。たとえ副船長職にあろうと、そこは他の仲間と同様のはずだった。
「努力、する」
 します、と言いかけて修正した。それに満足したのか、赤髪は「それでいい」と真顔で頷く。
「ゆっくり休んでろ。無理に動くなよ」
 食事を運んできた男と入れ替わるように赤髪は出て行った。その後姿を見送りながら、今感じた違和感を言葉にしようとしてできず、諦めた。
 
 
「なァ、ドクトル。さっき言ってた話、ホントにホントなのかよ?」
「あ――?」
 食堂でランチをテーブルに置いたドクトルの隣に素早く黄色いサングラスをかけたアディスンが座る。ドクトルは食前なのにチッチッチ、と爪楊枝を咥えたまま大きな目でぎょろりとアディスンを睨む。
「おれがいちいち嘘つくかっつーの。医者が信用できねぇんなら、病気や怪我すんな」
 いつのまにか向かいに座ったボウシがトレードマークのリックが身を乗り出す。
「誰もそんなことは言ってませんよ、ドクトル」
「そうそう。やっぱ、信じられねーじゃん。副船長がさあ……」
「記憶喪失、なんてなあ。…おれも久々に診た」
 言い澱んだアディスンの言葉をあっさり軽く言う。
「本当に、僕たちのこと記憶にないんですか?」
 ドクトルは大袈裟に肩を竦めた。
「ねぇな。何しろ、お頭のことすら記憶になかったんだぜ? あの野郎」
「お頭のことすらァ? そりゃ重症じゃねぇの?!」
 オーバーな表現ではない。
 船員は皆、船長と副船長は特に固い絆で結ばれていると考えている。
 見ていればわかるから。
 たとえば戦闘中――互いを見なくても互いの位置がわかる。どこにいるのか。何を考えているのか。その様子はこちらにもわかる。
 トップが安定しているから、余裕を見せているから、従う連中も迷わなくて済む。――もちろんこの二人に限らず幹部連中はいつも鷹揚に構えていていつでも頼もしく思えるのだが、赤髪と黒髪に対する船員の信頼はそれ以上に、絶対的なものだった。二人に憧れて入団した者も多い。
 だから副船長の記憶喪失という事態は、下手をすればこの海賊団自体が崩れかねないほどの衝撃的な事件なのだ。が。
「……でも、仕事のことは覚えてるってあたりがアイツだと思わねぇか?」
「……らしくて、涙出そう」
 いつのまにかドクトルの周りを多くの船員が取り囲んでいた。
 お頭直々に副船長が二日の眠りから覚め、ついでに記憶を無くしているという事実の発表があったのはつい先刻だ。
 そして、
「オレと副のことをごちゃごちゃ副に言う奴がいたら船から下ろす」
 という脅しを聞いたのもその時だった。いつもなら「何言ってんだよお頭ァ」などと誰かが必ず軽口をたたくものだが、この時ばかりはそれもなかった。
 ――赤髪の眼は本気だった。
「アレって、いつ治るんだよドク?」
「あ――……いつ治る、とは言えンなァ……。何しろ毒で記憶喪失なんざ、このおれの今までの医者経験からいっても前代未聞だ。ま、毒が体内で中和されていきゃあ、色々自然に思い出せたりするだろ」
「殴って治んねェの?」
 アディスンの言葉に鋭い裏手ツッコミを肩口にかます。
「お前なァ、副船長は壊れた電伝虫じゃァねェんだぞ。ンなもんで治りゃあ医者はいらねェよ」
「なんかおれらにできることってねェかな?!」
「できることはなんでもするぜ!」
 筋骨隆々たる男たちに囲まれて喜ぶ男はそういないだろう。これが可憐でボインな金髪美女だったら喜ぶところだなと場違いなことを考えながら、ギーフォルディアはチャーハンを咀嚼する。とはいえ彼らが大真面目で本気だということぐらい、船医にもわかっていた。
 熱くむさ苦しい男たちの視線が集中する中、ギーフォルディアはスプーンの柄で顎を掻きながらチャーハンを見つめる。
「ま、積極的に喋りかけてやってくれや。本人が一番戸惑ってるだろーからな。喋ってりゃあ思い出すこともあるだろうし? ああ、でも余計なことは喋らん程度にな。お頭からホントに下船命令出されっぞ」
「ドクトル、それマジで?」
「あ? お頭がさっきそう言ってただろが」
「だってよォ……今までお頭と副船長、めちゃめちゃラブラブだったじゃんか」
「アッド、ラブラブ言うな。夫婦じゃねェんだぞ」
「それ以外にどう表現すりゃあいいんだよ」
「……普通に、”すげェ仲がいい”でいいじゃねェか」
 グラサンことアディスンの発言には一理あるかもしれないが、認めてしまうには理性のブレーキが効きすぎた。
「ンな表現じゃ足りねェくれェ仲いいじゃねーかよ」
「ああ、そんでおめェは何がいいてェんだ?」
「いや、だからさ。そんな仲よかったのにさ、それをお頭、本人が思い出すまで余計なことは言うなってのは……」
「お頭が決めたことだ。なんか考えるところがあるんだろーさ。それこそ、おれたちの思いもよらねェよーな、な。おれらが出来るのは、その命令を唯々諾々と聞き入れるまでよ。もちろん、出来る限りのことはするけどな?」
「……全然いつもと変わんないよーに見えるのになァ……」
「…………」
「…………」
 優秀な船医は内心で溜息した。記憶喪失をした本人はもちろん己の身に戸惑うが、本人以上に周囲の人間も戸惑う。気長に療養させながら焦らず以前のことを思い出させるのが一番いいに違いないが、この船に乗っている限り『気長』と『療養』はありえないと船医は思っている。周囲の刺激が吉と出るか、凶と出るか、こればかりは医者にも判断が下しがたい。
 とはいえベンの場合は通常の記憶喪失のような脳に物理的・心理的衝撃を受けた結果のものではない。前後の状況から判断するに、やはり毒物が原因なのだ。毒の効果がある間の記憶を失うのではなく、過去の記憶を失うあたりがイレギュラーだが、死ぬよりよほど良いし、外的刺激を受ければ記憶の箱も徐々に開いてゆくだろう。ギーフォルディアは事態を悲観していなかった。
 暗くなりがちの沈黙を打破してやる。
「毒が中和されるまでの辛抱だァな。もともと毒に耐性もってるヤツだから、あんまり時間かかんねえんじゃねーか? なんとかなるだろ。それよかお前ら、仕事サボってっとお頭にドヤされっぞ? メシ食う以外の用がねぇならさっさと仕事に戻れや。おれ様が落ちついてメシが食えねえだろうが」
 散れ散れ、と犬猫を追い払うような動作をした後でふと。
「お前らにできんのは、お頭の負担にならねぇようにすることくれぇだ。だから喧嘩とか面倒起こすんじゃあねぇぞ。それがおれたちの、お頭に対する愛ってモンだァな」
「ドクトルが愛を語ンのかあ?」
「おれが語っちゃいかんってのか?」
 ムッとした表情でアディスンを睨むと、彼はニヤリと笑った。
「似合わねえ!」
 なぁ皆? という言葉にドッと沸く一同。コノヤロウ、と笑いながらアディスンをヘッドロックする。
「ドクッ、ギブギブギブギブギブギブッ! オチるッ!」
「オトすつもりで入れてンだからあったりまえだ! オラ手前ら、とっとと持ち場に帰れ!」
 ゲホゲホとむせるアディスンの尻をけりとばし、ギャラリーをようやく散らす。
 やれやれ、と大きく溜息をして冷めかけたチャーハンを掬い、口に運ぶ。
「……目が覚めたら今まで通りでした、なんてこたァ……ねェもんなァ……」
 三文小説じゃああるまいし、と一人ごちて、またこっそりと溜息を吐いた。悲観的にならないとはいえ、降りかかる苦労に違いはないのである。
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