オカエリナサイと出迎えるのは、いつもなら猫二匹だったはずだが、この日は一匹の出迎えしか受けなかった。
「親友はどうした?」
「夕方に、ちょっと喧嘩して……」
開いていた窓から飛び出してそのままだと、首をうなだれさせる。その頭を、手袋を外した手で撫でた。
「そのうち戻ってくるさ」
「……ん」
着替えたら食事にしよう、と頬に口付けられ、頷いた。
長い休暇から七日が過ぎ、一つの心配事を除けば、ベックマンは幸せな日々を送ったと言える。家族揃って家で暮らした日々以上に幸せだったかもしれない。
平穏は唐突に崩れるものだと、知っていても忘れる。あるいは己が身に降り掛かるとは思いもよらない。この時のベックマンが、丁度それだった。
虫の知らせというのはどこの国でも存在するが、金曜の昼からベックマンは言い様のない焦燥感に捕われていた。早く家に帰らねばならない、もしくは何らかの手段を用いて弟に連絡を取らねばならないと考えていた。しかし軍の中で連絡を取るわけにはいかない。海軍に身内がいる者は少なからず行動を監視されたし、軍内の電話はすべて見張られていた。
ある暗号文の解読が終わったのは、その夜のことだった。ベックマンの人生が狂い出したのも、その日からだ。
暗号文の内容は、抽象的ではあるにせよ充分に先日の手紙の内容を彷彿とさせた。また、ミホークの言っていた不穏な動き。決定的な証拠でないにしろ、疑惑を深めるには充分な内容と、それに関わる己の弟。――事は既に海軍内部のみで済む話ではなくなっている。
職務遂行の義務と、身内に対する情とでは、どちらが上回るだろうか。
未遂で済んだとしても、罰を免れるものではあるまい。思えば、身内が疑わしき所へ属している人間を、よくも配置変えせずに使ったものだ。気付いているのはミホークだけなのか? ミホークが知っているということは、他の上層部の人間も知っているのではないか。
悟られぬよう周囲を窺う。皆各自の作業に没頭しており、ベックマンを気にかける者はいない。
答えを見出せないまま、その日は平常を装い、帰宅した。明日は以前から休みを申請している。答えを出すのはそれからでも遅くはないはずだ。
いつもより少し遅れて家へ戻った時、上弦の月は西に大きく傾いていた。細い月明かりは冬空に炯々と冴え光り、あたりを照らした。夜風は木々の間を漣のように繰り返し渡る。
首筋を撫でた寒風に溜息を吐く。この冬を無事に過ごせる確信が持てなかった。考えてみれば、厄介なのは弟の関わっている一件だけではない。この家の中にも、厄介の種がいる。
「ただいま」と家内へ入った。暖かい空気にほっとする。 が、すぐに表情を改めた。シャンクスが迎えてくれたのはいつものことだが、もう一人よく見知った人間が出迎えてくれたのだ。
「お前……! なんでここに!」
申し訳なさそうな表情で出迎えてくれたのはベックマンの弟・スモーカーだった。そればかりか、ソファには彼の妻の姿もある。
驚きを隠せないベックマンだったが、シャンクスに勧められソファに座る。低いテーブルを四人と一匹で囲んだ。誰が用意したのか、人数分の茶までが出されていた。まだ暖かい。
どういうことだ、と険しい顔でスモーカーに視線をくれる。彼は葉巻を吹かし、困惑した表情で「どうもこうも、」シャンクスを指差した。
「そいつのおかげで命拾いした――らしい」
「シャンクスの?」
「うちに来たのがその人だったんです」
口を挟んだのはスモーカーの妻・たしぎだった。
「いよいよ危なくなる前に逃がしてやると言われて……」
「逃がす?」
一体何の話なのか――わかっているのだが、わからない。何故シャンクスが?
本人は呑気に紅茶をすすっている。
「どういうことなんだ?」
「どうもこうもないさ」
カップをテーブルに戻すと、シャンクスは陽気に笑う。
「その人がヤバい状況にあるのは知ってた。知り過ぎたんだって。ベックには色々世話になってるし、恩返しでもするかと思ってさ。ホントはここに寄らさずに海外に連れて行くつもりだったんだけど、流石に兄弟の別れの挨拶くらいはしておきたいだろうなって」
「聞きたいのはそこじゃない」
そこも訊きたい所ではあるが、まずはっきりさせなければならないことがある。
「何故お前が俺の弟を知ってる? どうやってヤバい状況にあると知った?」
「聞いてない? でも薄々は知ってるんだろ? ブラックリストをチェックしたくらいなんだから」
ニヤリと笑む様は、とても十九とは思えない。
「……ブラックリストとは……」
「情報部にあるヤツ。見てたって聞いた。誰からなんて、言わなくてもわかるだろ」
記憶の糸を手繰るまでもない。あの時の自分を見ていたのは、いけすかないあの男――ミホークだけだ。
「ミホークと関係が?」
「まあ、色々世話になったり世話したりってトコロかな。持ちつ持たれつってヤツだ」
オレの詮索はともかく、時間はないよとシャンクスが紅茶を飲む。
「多少工作はしたけど、そっちの夫婦がいなくなったことはやがてバレる。とすると、真っ先に疑われるのはベックだろ」
バレたらすぐに保安が来る。シャンクスは場にそぐわぬ明るい声で告げた。
「保安か……」
部署が違うとはいえ、保安を知らぬわけはない。ことにユダヤ人弾圧行為と政治犯への容赦ない――行き過ぎた――摘発は、知らぬ者はおるまい。
「だからここで色々喋ってる暇はあまりないんだ。……とはいえ積もる話もあるだろうから、」
刻限は明日の朝五時。
それ以上待っては、保安に遅れをとる。察知された後で動いても遅すぎるのだ。
オレは外すから、と言い置くと、シャンクスは階上へ姿を消した。