Ravish Rain

side:B(15)

 その晩、ベックマンが寝室に上がってくることはなかった。その夜ベックマンの家に居た者は、誰も眠れなかった。
 まだ日も顔を見せぬ時間、シャンクスはリビングへ降りた。いつの間に戻ったのか、親友の黒猫を抱えている。彼が戻ったことで時が訪れたのを知り、階下へ下りたのだ。
 コーヒーの香りすら掻き消す葉巻の匂いに目を細めると「時間だ」と告げた。重い溜息が三つ、漏れる。いずれは来る時間だが、やはりどうにも気は重い。
 立ち上がったのはたしぎが一番だった。スモーカーと同じく海軍に所属していた彼女は、軍人らしく気丈であるらしい。
「行きましょう」
 ぐずぐずしていたら義兄さんの迷惑になるからと、夫を急かす。スモーカーは一度、堅く瞑目した。シャンクスはベックマンに似ない弟を見つめた。
 ここ最近の己を取り巻く環境の変化に一番遺恨があるのは彼だろう。正義感の強い男だと聞いている。できるなら巨悪を晒し、裁きたかったに違いないだろうが、失うものの方が大きい。
 仕方ない。一個人がどうこうできる話ではないからだ。シャンクスは言葉に出さず慰めた。
 意を決したように立ち上がる。ベックマンも同様にソファから身を起こした。二人の間に流れる空気は悲壮ながら、悲観はない。
 生きていれば、またどこかで。
 固く抱擁を交わすと、スモーカーは真っ直ぐ兄の目を見つめた。
「……元気で」
「お前こそ。身体とたしぎを大事に」
 玄関を出ると、いつの間にやって来たのか、黒塗りの車が一台停まっていた。先に表へ出ていたシャンクスは、運転席にいる男と何か喋っている。二言三言交わすと三人に気付き、後部座席のドアを開けた。
「行き先はこいつとオレだけしか知らねぇ。車内の会話も漏らしたりしねぇよ。秘密は絶対厳守できるから」
 向こうに着いてもこちらへ連絡してはいけない。どのような経路を伝って軍や保安警察にばれるとも知れないからだ。
「他、必要なことはこいつから聞いてくれ。……エース、安全運転でな」
 言葉の代わりに頷いて見せると、静かに車が動き出す。車内でたしぎがこちらへ小さくお辞儀をしたのが見えた。
 木立へ紛れて見えなくなる車の姿を、ベックマンはいつまでも見送った。
「……ベック、」
 気持ちは察するまでもない。だが、いつまでも感傷に浸っている場合ではないのだ。
 シャンクスは背からベックマンを抱き締めた。
 そんなことはベックマンにもわかっているに違いない。だから彼を慰めるような言葉はかけられなかった。彼もそれを欲してはいないだろう。
「……中、入ろう」
 話したいことがあるのだと、シャンクスは呟いた。ベックマンはそれでも微動だにしなかった。

 ようやく室内へ戻った時には、太陽がその姿を半分ほど現していた。冷えた体を擦りながら、シャンクスは飲みかけの紅茶とコーヒーを片付けた。そして、ソファに向かい合って座る。
「……話というのは?」
 抑揚のない声に、シャンクスは小さく頷く。真っ直ぐにベックマンの深い色の瞳を見つめた。スモーカーの身に降りかかった災難は、彼自身の口から聞いたはず。彼が今後どこでどのように暮らすのかもだ。その説明を再びしてやる必要はない。
「わかってると思うけど……あんたも、ここにはいつまでも居られない」
 スモーカーの行方を追い、保安もしくは海軍の追跡の手は必ず伸びてくる。あるいは、職場で拘束されるかもしれない。
 いずれにせよ、先行きは明るいものではない。
「……逃げろと?」
 それともお前が逃がしてくれるのか。
 皮肉が語尾に滲んでいる。気付いてシャンクスは苦笑した。ベックマンらしくないのは、動揺から立ち直れていないからだろう。言葉に潜む棘を詰る気にはならなかった。
「逃げる、ってのは少し違うな」
 棄てる、の方が近いかもしれない。
「どういうことだ」
「あんまり詳しく話せないんだけど……要は、今の生活を止めて、オレの仲間にならねぇ? ってこと」
 悪いようにはしないよ、と微笑む。
 シャンクスにはベックマンを受け入れる用意が出来ていた。仲間と話もつけてある。SSの人間だからと偏見の目で見る者もいないだろう。仕事がこなせ、同じ目的をやり遂げようとする人間であるならば、誰でも歓迎する。それが組織の体質だ。
「……突然だな」
 ベックマンは苦笑した。予想できた反応に、シャンクスは肩を竦めて見せる。
「そう? オレと居られるんだから、悪い話じゃないと思うんだけど」
 オレじゃ駄目かな。
 身を乗り出し、ベックマンの瞳を上目に覗きこむ。
「オレは、あんたが欲しいんだけど」
 黒に近い双眸が確かに揺れたのを見た、と思った。
 ――あともう少し。
 短い期間だが、ベックマンの周りに周到に張った罠は確かに効いているはず。手に入れたいと思ったのだ。それは彼の才能を惜しんだということもあるし、情が沸いたことも理由の一つだ。
 もう一押しで、落とせる。
「あんたは、オレが欲しくない?」
「……俺は……」
「飽きさせねぇよ」
 来いよ、と畳み掛けるように囁く。ベックマンを射る眼光は、誘惑というより狩猟者のそれに近い。
 逃がさないと、何より雄弁に双眸が語っている。
「…………」
 ベックマンは静かに目を伏せた。口角は、笑みを刻んでいる。
「――わかった」
 お前について行くよ。
 望み通りの答えにシャンクスは会心の笑みを零し、テーブルを越えてベックマンに飛びついた。

end

>>> go back