「ふぅん……」
封緘された手紙を読み終え、目を眇める。消印のない手紙は、直接シャンクスへ宛て届けられたもの。ただし、人目を憚って届けられたにしては、内容は決して愉快でなかった。
ソファに飛び乗った黒猫が、一声鳴いて擦り寄る。その頭を撫でながら「……なんとかなるだろ」呟いた。
トイレで手紙を封筒ごと燃やすと、灰を流す。全てが水の流れのように絡まりながら落ちてゆくのはまだもう少し先にしたかった。それが己の我侭だとわかっていても、どうせそうすると決めたのは己なのだ。
「……あいつがちょっと予定外だっただけだよな、B」
独白のような言葉に、一番の親友は小さく同意をしてくれた。
ベックマンのいない、ある昼のことだった。
「初めて見た時も思ったけどさ」
猫二匹を飼い始めたことを自宅へ帰る言い訳に使ってから暫く月日が流れた、ある帰宅時。
ベックマンの脱いだコートをクロゼットへしまいながら、シャンクスが振り返った。
「すごい似合ってるよなあ」
「何が」
「制服」
正面から言われ、にわかに戸惑った。かつてそんなことを誰かに言われたことがないからだ。
今の制服に変わった時には弟は既に海軍の赴任地へ着任していたから見ていないはずだし(写真を送ってもいない)、軍の中で互いを誉め合うような寒い趣味は持ち合わせていなかった。
ありがとう、とは礼儀上返したが、戸惑いは伝わったらしい。
「女に好かれそうな感じするよ。モテるんじゃねェの?」
揶揄でなく誉められ、なお戸惑った。
軍服のデザインは確かに一般市民の受けを狙ったものではあったし、ことに女性の受けは上々だと分析結果も見た。とはいえ制服は制服だ。着ている人間にしてみれば――この黒服に憧れて軍へ志願する者も少なくないらしいが、少なくともベックマンにしてみれば――官給服に、何の感慨もない。軍へ入隊したのも、食いっぱぐれがないからだ。
戸惑った表情をどう受け取ったのか、シャンクスは苦笑した。ベックマンのネクタイへ手を伸ばし、緩めてやる。柔らかそうな赤毛が、ベックンの視界を占めた。
「誉め言葉には素直に喜んでおくもんだ」
にこりと笑うと、十九という歳より随分幼く見える。言えば多分怒るだろうから、本人には言ったことはないが。
ベックマンと目が合うと、今度は悪戯に瞳の色を変えた。くるくると目まぐるしく一瞬で表情を変える眼差しに気を取られていたのがいけなかった。
「隙アリ」
あ、と思った時には唇が唇を掠めていた。
「んん、柔らかい」
当り前のことに満足すると、「飯早くな」と笑い、緩めたネクタイを解いて部屋を出ていく。
しばし呆然とした後、手で顔を覆いながら溜息をついた。まったく、心臓に悪いことをやらかしてくれるものだ。キスに慣れていないわけではないが、かつてのそれらは明確な意図をもって為されたものであり、シャンクスのように悪ふざけで(しかも同性に)行うものではなかった。酔いが回れば誰彼かまわずキスを仕掛けてくるような輩がいないではなかったが、今は完全に素面だ。悪戯にしても、また本当にベックマンに隙があったにせよ、思いつきをそのまま行動へ移すのはどうか。
獣のようだと一人ごち、制服を手早く着替えて台所へ下りる。ラジオの音と、シャンクスの笑い声と猫の声が聞こえた。
シャンクスと彼の友人が居候するようになったことで一番の変化といえば、「音」だろう。猫より大人しくしていないシャンクスは、常に何かの音を立てている。ラジオをつけているのも彼だし、ベックマンが帰宅して一番に「おかえり」と「お腹空いた」で迎えるのも彼だし、風呂に入れば鼻歌を歌っている。静かなのは食事をしている時くらいのものだ。
それらの変化に気付いて初めて、いかに己がこの家で音の少ない日々を送っていたかを知るのである。
簡素だが賑やかな食事が終わるとシャワーを浴び、一息ついてリビングで本を読む。シャンクスはその傍らで猫を相手にじゃれていた。猫と遊んでいるというより、遊んでもらっていると言ったほうが正しそうだ。
シャンクスの様子を、本を読むふりをして観察する。
目の上を走る三本傷、左利き。利き腕は誤魔化しがきくが、目立つ傷はそうそう変えられるものではない。データ上では短い黒髪とあったが、髪の色などいくらでも染められるだろう。
それらの特徴が掴めたこと自体が、奇跡とも言えた。彼が――彼らが、具体的にどんなことをしたのかは報告されていないが、いくつかの事件においては確実に暗躍していると断言できた。
軍へ連行し、拷問にかけてでも自白させることができれば手柄にはなる。が、シャンクスが確実に関わっていると実証できない限り、無理はしたくなかった。違っている可能性も、ないわけではないのだ。
「またぼんやりしてる」
深い思考から我にかえると、床に座ったシャンクスがベックマンを見上げていた。人の膝に片肘をつき顔を支え、もう片方の手でベックマンの頬に触れる。
「疲れてるんだったら早く眠った方がいいんじゃねェの?」
もうじき日付変わるし。
笑んでいる瞳は、労わりや慈愛などとは程遠い。体の奥がぞわりと逆撫でられたように騒いだ。
気のせいだ。
すぐに己へ言い聞かせる。着替えの時の不意討ち同様、からかっているだけなのだ。恐らく他意はない。――あった所で、どうすることもできないだろうが。
そうしてやはり、先程と同じようにシャンクスは笑った。
市内にあるアパートメントの一角に、男が数人集まっていた。表立っては趣味の会合ということになっており、ワインやチーズをキョウしながら、何も知らぬ者が聞けば他愛ない雑談に花を咲かせていた。
話をふったのは、癖の強い髪の男だった。彼はバーを営んでおり、その日のアルコールも彼が用意した。
「連絡はあったのか」
目つきの鋭い男が頷く。
「ようやく来た。暫く他人の軒先で大人しくしているつもりらしい」
「猫が言う暫くほど、アテにならんもんはねぇな」
まったくだと一同から苦笑が沸く。
そうして緊急の報がないことに安堵し、また雑談に聞こえる話へ話題を転じるのだった。