「眠いなら、寝てればいいのに」
「や、世話になってるのに見送りくらいはしねぇと」
掴んだ腕を離してやり、そのままの態勢で止まってしまった。
「……雨が降るな」
「失礼なことを言うな」
ついでに何時に帰ってくるのか訊こうと思っただけだと、寝癖のついた前髪を掻き上げる。空のような海のような双眸は、眠たげに沈んでいた。
休み前に片付けた仕事の量と残った量、休みの間にたまったであろう仕事の量を簡単に計算する。
「九時過ぎには戻れると思う」
「了解。オレ、飯は作れねぇから早く帰ってきてくれな」
一方的に言い切ると手をひらひらと振り、ワーゲンに乗り込む高い背を見送る。
見送られたベックマンは苦笑しつつ軽く手を上げると、滑らかに車を発進させた。
昼から篭ったのは本部の資料室だった。黒表紙の台帳を捲ってゆく。後半にさしかかり、気のせいだったかと諦めかけた所で、ふと手が止まった。
No.286。
顔写真こそなかったが、その頁に載った人物の情報を一読し、記憶する。
「何か面白い情報でも掴んだか」
音もなくベックマンの背後を取ったのは、目つきの鋭い男だった。ベックマンがその風貌から『狼』と渾名されているように、この男は『鷹の目』と呼ばれていた。立場としてはベックマンの上官にあたる。
いつから見られていたのかと内心で動揺が走ったが表には出さず、ファイルを閉じた。
「ただの暇潰しですので」
意味はないと言い切る。鷹の目相手に誤魔化しが通じるかどうか。賭けではあったが、男は眉を跳ね上げ「ほう」とニヒルな笑みを見せ、
「情報部に暇があるとは結構なことだ」
嫌味をくれた。
「……仕事ばかりしていては人間が腐ると上官に教わったものですから」
「その上官も罰せられるべきだな」
「鏡をご覧になれば御前に引き出せますよ」
嫌味の応酬は余人がいれば凍り付いたかもしれないが、これは彼等なりのコミュニケーションの取り方なのだ。少々過激ではあるが、互いに譲らない性格を理解しているが故の結果とも言えた。
「報告は怠るなよ」
それだけを捨て台詞のように残し、鷹の目は去っていった。
釘を刺されたのだろうかとぼんやり考えながら、ファイルを元あった場所へ戻す。
収穫はあった。それだけで良い。
その後、夕方前に市内の支部へ赴き、案件を処理した後に直帰する。支部なので、ベックマンの直帰を訝る者はいなかった。
時には一月近く自宅に戻らぬ仕事の虫が急に豆々しく帰るようになれば、同僚の興味を引いてしまう。何か上手い言い訳を考える必要があるなと思考し、煙草を咥えた。愛車のワーゲンを駆り家へ帰る速度は自然、早くなる。
詮索されるのは、困るのだ。居候の素姓を知るが故に。
上官への報告も、今はしないでおく。義務を怠るのではなく、様子を見るためだと、誰にともなく言い訳した。
家に戻ったベックマンを迎えたのは、黒猫と、満面に笑みを浮かべた赤毛の青年。
「おかえり! 腹減ったー!」
飯飯! と、二種類の生き物に訴えられ、加えて苦笑させられた。何か摘んでいれば良かっただろうに。言うと、シャンクスは自分の腹を撫でた。
「人の家のモンを勝手に漁るわけにはいかないだろ」
殊勝な言葉に「成程」と頷いたが、
「昼飯はどうしたんだ?」
流石にそこまで用意はしていかなかった。食べなかったのかと問うと、シャンクスは黒猫を抱えて笑った。
「見送った後、寝直したら夕方まで寝ちゃってさー」
ベックマンが帰ってくると言った時間まで数時間だったので、猫と遊びながら待っていたのだと悪びれもなく答えてくれた。
猫がニ匹だ。
言い訳はそれにしようと思いながら、溜息を吐いた。