Ravish Rain

side:B(02)

 室内が暗いという事、誰もいないという事を研ぎ澄ました神経から察知し、ゆるゆると目を開く。ちりんと小さな鈴の音がして、額を小さく暖かな何かが舐める。くすぐったさに目を細めた。
「…おまえも連れてきてもらえたんだ?」
 左手を伸ばして彼を胸元に引き寄せると、喉の下を撫でてやった。
 上半身を起こして、自分が今いる場所を見回す。同時に自分の体のいたる所を触り、痛む箇所がないか確めた。幸い、骨が折れたりしているような所はなさそうだ。タイミングと車のスピード、受身を取れたのが良かったのかもしれない。
 ドアの下がぼんやり明るいのは、フットライトがそこにあるせいだろう。その灯りだけで室内を見るのは暗かったが、不充分というほどではなかった。
 室内には自分が寝かされているベッドが一つと小さなデスク、それに椅子。飾り気の無い室内には、生活臭はほとんど感じられない。この部屋を普段使っている事がない、例えば客室のような部屋だとしても、どこか無機質な感じがした。
 小さく伸びをして、ふと自分が着ているシャツに見覚えが無い事に気付いた。ついでのように布団を剥いでズボンまで見てみれば、やはり覚えの無いものだ。
 誰の物なのか、考える必要は無い。自分をここへ連れてきた人物の物だろう。――正確には、その人物の弟の物か。
「…律儀な奴…」
 わざわざ着替えさせてくれるなんてね。呟いて、声無く笑う。そんな人間だとは思わなかった。
 それに加え、撥ねたとはいえ見ず知らずの人間を自宅に連れ帰るあたり、隙がないというわけではないらしい。
「…なかなかイイ奴みたいだぞ、B」
 頭を撫でると、黒猫は小さくみゃあ、と鳴いた。


 朝起きて、顔を洗ってからキッチンに行く。食事を済ませて着替えたら、昨日の青年を病院に連れて行こうと考えていた。
 冷蔵庫からハムとソーセージ、それから別に保存していたドライフルーツをとりあえず腹に入れようと皿に盛り、リビングに行くと――三人掛けの簡素なソファに、見慣れぬ男が寝そべっていた。赤い髪の青年。彼が誰であるのか思い出すのに三秒ほどかかったのは、ベックマンにしては珍しく驚かされたからだった。
(確か昨日は弟の部屋のベッドに寝かせたはずだが…)
 何故こんな所にいるのかと立ち尽くしたまま思考を巡らせたが、わかるはずもない。
 他人の家にも関らず無防備な寝顔を見せて眠っている青年を起こすのは、少し躊躇われた。
 ちりり、と小さな鈴の音がして、どこからいつの間に現れたのか、足元に猫がすりよる。ベックマンが持っている皿が気になるのか、それとも肉の匂いが気になるのか、二本足で立ち上がり、届かないのに皿へと前足を伸ばそうとしている。それに気付いてベックマンは青年の向かいに置いたソファに腰を下ろすと、ハムを一切れ手にとって猫の口許へと寄せてやった。黒猫はハムの匂いを嗅いで何かを確めると、すぐに喰らいついて瞬く間に食べてしまう。ベックマンの掌に残る匂いすらも食べ尽くしてしまいたいのか、しきりに大きな掌も舐めるのに笑いを誘われる。更にハムを二切れ食べさせてやると、小皿に水を入れて床に置いてやった。その水も半分ほど飲んで満足したのか、ソファに飛び乗ったかと思うとベックマンの足の上に乗っかり、甘えるように頭をすりつけてくる。
 随分人懐こい猫だ。飼い猫というのはこういうものなのだろうか? 動物を暫く飼った事がないので何となく不思議な気持ちになる。猫や犬が嫌いなわけではない。昔、子供の頃には少しの間だけ弟と一緒に猫を飼っていた事もある。その時の猫は随分人見知りする性格で、容易には触らしてもくれなかったし、触ろうとすると威嚇されたものだ。色々事情があってその猫は死んでしまったが、その後は飼う機会がなかったのと、積極的に飼う意思がなかっただけで、決して嫌いではない。  喉を撫でてやりながら、今度は自分の分の食事を摂る。赤髪の青年を寝かせたままにしているのはなんとなく、機会を逸してしまったからだ。他意はない。
 それにしても――何故こんな所で寝ているのだろう。古ぼけたソファは大きいが、それにしても大の男が寝るのに充分な大きさとは言えないし、寝心地もそんなに良くないと思うのだが…。いや、それ以前に、事故の後なのに体の方は大丈夫なのだろうか?
 半ば感心するように見つめて干し杏を食べていると、寝ぼけたような声を漏らして青年は身じろぎした。もぞもぞと動いて寝返りをうつと、暫くして目をこすりながら体を起こした。大きく背伸びをして溜息を漏らすと、ベックマンを見つめ返す。ややあってから視線を低いテーブルに落とすと、照れたように笑った。
「………お腹すいた」
「……その前にまず、顔でも洗え」
 食べかけのバナナチップを咀嚼して飲み込んでしまうと、立ち上がって青年を促す。

 よくわからない人間だ、というのが、シャンクスに対するベックマンの第一印象だった。
>>> next   >>> go back