街外れの闇を、ワーゲンのライトが裂いてゆく。この先の小さな森を抜けた所に、ベックマンの邸宅があった。邸宅といっても大層な家ではない。だが独り身に過ぎる家には違いなかった。
彼が自宅に帰るのは毎日の事ではない。週の大半は軍に寝泊りしていた。この日帰ったのも着替えがなくなってきたからという理由に過ぎない。そうでなければ一月ぶりに貰った四日分の休日すら、ゆっくり家で過ごす事もしなかっただろう。
森に差し掛かり、緩やかなカーブを右へと曲がる。ここまで来れば、あと十分程で自宅に着く。少し開けた窓から、咥えた煙草の煙が流れて出て行くのをチラリと見遣った。木々の隙間から、上辺を欠けさせた月が覗く。
明日は天気は良いみたいだから、洗濯はしよう。留守の間に埃が積もっているだろうから、掃除もしなければならない。食料がどれほど残っているかわからないし、痛んでいるものもあるだろうから買い物に出なければならないだろう。それから、もしかしたら弟から手紙が届いているかもしれない。便箋と封筒はまだあっただろうか。なければ買出しの時に忘れずにリストに載せねばならない。
つらつらとよしなし事を考えていると、目の端に何かが過ぎった。ブレーキを咄嗟に踏んだのは条件反射だっただろう。すぐに鈍い衝撃が車を揺らした。ボンネットに恐らく人が乗り上げたのがわかる。轢いた、と確信すると小さく舌打ちし、急いで外に出た。轢き逃げする気は端からない。
地面に蹲るように横たわっていたのは、赤い髪の若い男だった。低く呻く声とわずかな身じろぎで、彼がまだ生きている事がわかり、胸を撫で下ろす。
「おい」
彼の傍に跪き、肩を揺すってみたが応答はない。気絶しているのかもしれない。
幸い車のスピードは出ていなかったし、ブレーキも早かった。外傷はほとんど無いように見えるが、素人判断はしない方がいいだろう。病院に担ぎ込みたかったが、それより自宅に連れ帰る方が早い。病院はここから車でも一時間半かかる。数瞬の思考の後、結局今夜だけは自宅で手当てし、明日の朝一番に病院に連れて行く事にした。
やれやれ、また上に叩かれそうだな――ごちるが、明らかに己に非があるのに被害者を放っておく事は出来なかった。言いたい奴には言わせておくか、と開き直り、青年を抱き上げかけた所で…みゃあ、と猫の鳴き声がした。青年の胸の中で、黒い猫が心配そうに彼の顎を舐めている。
黒猫とは不吉な――思ったが、青年と一緒に連れ帰る事にした。彼の猫であるなら、目が覚めた時にこの猫がいないと不安に思うに違いない。猫ごと彼を抱き上げる。思ったよりは軽かった。
赤い髪が夜風に吹かれ、青年の顔を露にした。青年の左顔――目を抉るように走る三本の傷が酷く印象的で、暫しの間、目を奪われた。
赤ワインのような髪と三本の傷――二つのキィワードで何かを思い出しかけたが、苦悶するような表情と声ですぐに忘れた。慎重に助手席に横たえ、運転席に戻る。
そうしてまた、車は闇を裂いて走り出した。