ようやく連絡が取れたカイルが記憶を失っていたという事実をどう受け入れるべきか、ゲオルグは侵入した屋敷を後にしてから考え込んだ。
いや、どう受け入れるかではない。どう対処すれば良いかだ。
久々に会えたと思ったら記憶喪失など、まったく恐れ入る。どういう怪我の負い方をしたのかは外見ではわからなかったが、大怪我はなさそうでほっとした。どうりで連絡を寄越さないはずだ。そんなことを納得してしまいながら、仮の拠点である街から離れた森へ戻った。
ゲオルグを待ち受けていた仲間たちにカイルがいたことと、明日には戻ってくるであろうことを告げ、ルクレティアに報告を飛ばして解散した。
ルクレティアにはともかく、斥候隊の者たちにカイルの記憶喪失のことを仔細に話さなかったのは、いたずらに混乱や不安を煽ることは避けたかったからだ。明日戻ってくれば自明のことだが、うまい説明を思い付かなかったせいもある。軍の幹部のひとりが記憶をなくしているなど、触れ回って得になることがあるとは思えない。
解散した後で一息吐くと、小さなテントの中で寝転がる。
ひらひらとした衣装を着たカイルを見て、嫌な予感がしなかったわけではない。雰囲気が、いつもの彼とは違っていた。よく似た別人だと言われたほうが、まだ信じられたかもしれない。
本当ならば、すぐにでも連れ戻したかった。
あまり心配をかけるなとでも言ってやれば、きっと「ゲオルグ殿が心配性なんですよー」とでも軽口を返してくれながら、それでも少し悔しそうに「心配かけてすみませんでした」などと返してくれただろう。
記憶がないと言っていたカイルは、ゲオルグが知っているカイルより頼りない雰囲気だった。周囲のことはおろか自分のこともわからないといっていたのだから、無理もないか。何しろ自分の名前をゲオルグだと思っていたくらいだ。――ゲオルグと呼ばれていたカイルを想像すると、少しおかしい。
どんな記憶の混線があったのか。本人にもわからないだろうが、あの夜のことを思うと、不謹慎な悦びが湧く。そんな自分に腹が立つ。
名を覚えていてくれたのは嬉しいが、それ以上に胸が苦しかった。
額にかかる前髪が今は煩わしく、苛々と掻き上げた。あなたは誰ですかと問い掛けるカイルの顔がちらつき、離れないことに舌打ちしたくなる。自覚している以上に衝撃だったとでもいうのか。
瞼の裏に、ニルバ島に赴く前、最後に見たカイルが思い出された。
何か話したいと思っていた。
あの夜から何も話していない。改まって話すのではなく、ただいまとかお帰りなさいとか、そういったことで良い。避けられた理由を問おうとは思わないが、言葉を交わしたかった。
いずれは、思い出す。カイルのことだ、明日にも思い出してしまっているかもしれない。
いや――
もしかしたら、このままのほうがカイルのためなのではないか。
(……そんなわけにもいかないか)
ゲオルグのことだけを忘れてしまっているのならば良い。いずれいなくなる人間のことなど覚えていなくとも構わない。だが女王騎士のカイルには大切なものがあるし、そのためにこの戦いの中に身を置いているはずだ。それを忘れてたままでは本人も彼を兄のように慕う王子や親しい者たちも、思いの行き場がなくなる。
いっそ誰かを責められる状況であれば、まだ良かったのだろうけれど。
あまり彼を心配させるのも良くない。己とのことに触れる必要はないが、他はいつも通りでいたほうが良いだろう。
ともあれ、明日だ。何を思い悩もうとも明日になればカイルは戻ってくる。すべてはそこからでも良いではないか。案ずるより産むが安し、だ。
一抹の不安を拭い去ることはできないが、それはきっと杞憂だと自分に言い聞かせ、目を閉じた。
杞憂ではなかったと思い知るのは、朝食後だった。
ルクレティアに知れたらおそらく「あなたらしくもありませんね」とやんわりした棘を含んだ言葉を寄越されただろう。返す言葉もない。
カイルがそれまでの記憶を失っていたという事実はゲオルグに動揺をもたらした。だからといって普段ならば当然回したであろう気を回せなかったのは、落ち度という他ない。
取り返しのつかない事態になってからでは遅いというのに。それを己はよく知っているというのに、とんだ失態だ。
「カイル殿がバロウズ家に連れて行かれます」
その一報を聞くや、ゲオルグはすぐさまレインウォールまで駆けた。
不義理であろうと何だろうと、無理矢理にでも連れて帰れば良かったのだ。恩人(実際はカイルが先に彼らを助けたとしても)に対する礼を多少欠いても、優先すべきことがカイルにはあるはずだ。ゲオルグにしても、そのために各地を飛び回っているのではなかったか。
結果論だ。
今となっては無駄だとわかっているから、己を責めるのはレインウォールに到着するまでに留めた。