祈りの声/4

 コレはいくらなんでもナイんじゃないかと、宛がわれた部屋でひとりになった時に遠慮なく溜息を吐いた。
 見下ろした自分の体は、きっと成人男性の平均よりは逞しいはずだ。備え付けの鏡に映る己の顔を見れば、顔立ちは上品とは言えないが、まあ悪くはない。所作はそれなりの振る舞いができるから、一応の教育は受けたのだろう。
 だが、これはない。
 俯いた顎はたっぷりとギャザーの寄せられた繊細なレースの襟に埋もれた。襟元だけではない。袖口も裾も、清潔な白いシャツの至る所がレースに溢れていた。ちょうど少女が好んで持っている人形のように、何重にもレースが層を成している。
 貴族の子弟が好んで穿いているようなズボンにまで過多な装飾が施されていたら、もしかしたら死にたいような気持ちになったかもしれないが、幸いにしてそれはなかった。
 勿論これは青年の趣味ではない。屋敷の主人代理の少女がくれた衣装だ。ここ数日、彼女の着せ替え遊び――人形ではなく青年の――に付き合わされていた。
 自分の世話をしてくれている恩人、まして可憐な少女の願いを無下にできるはずもなく、この二日ほどは彼女が飽きるまで等身大のオママゴトに付き合っていた。今朝渡されたこの衣装から察するに、今日の青年の役所は貴族の子弟かお伽話の王子様といったところか。そう読んだ勘は見事に的中し、少女をお姫様として扱った生真面目な笑劇は、午後中いっぱい続いた。食事の時間のおかげで解放されたのだが、そうでなければまだ続いていたかもしれない。
 可憐な少女が楽しそうにしているのは青年としても喜ばしい。だが、疲れてしまうのも拭えない違和感が付き纏うのも事実だ。何によるものかといえば、薄ら見当はついている。
 夕食もすっかり平らげた後に部屋から眺める窓の外の景色は、夜の闇と生憎の雨で遮られている。日暮れから降り始めた雨は徐々に激しさを増し、雨音が他の音を掻き消す。
 壁や窓、木々の葉や幹、大地に打ち付ける音を気にしなければ、無音に近いのではなかろうか。ぼんやりするにはもってこいだ。
 ――違和感の正体はおそらく、失くした部分に答えがある。本来の己は貴族の屋敷でのんびり寛いでいられる身分ではないはずだ。身分だけでなく、あったはずの目的にも因るかもしれない。静かな時間に苛立ってしまうのも、そのせいだ。
 ふと、ある音が青年を現実に引き戻した。気を付けねば聞き落としていただろうかすかな物音。何の音かと部屋を見回すが、わからない。気のせいだったかと溜息を吐く。が、気のせいなどではなかった。間近の気配に振り返ると同時に思わず身構える。
「なんて格好をしているんだ」
 呆れを含んだ声は優しさを響かせる。初めて聞いた声は、どこか懐かしい。
(誰だ……?)
 気配もなく、どこから侵入したのかもわからない。外套はどうやら雨に濡れている。外からやってきたのは間違いなさそうだが、それ以上はわからなかった。ドアでなければ窓しかないが、そんなそぶりも見せなかった。
 歳は青年よりいくらか上だろう。落ち着いた雰囲気の、堂々とした精悍な男だ。左顔を眼帯で覆っているが、物騒な感じは受けない。ごく自然に、その男の一部であるように見えた。
「まあいい……早く支度を済ませろ。帰るぞ」
 そんなことを言われても――
 青年は戸惑いを隠せない。
「あの、」
「ん?」
「あなたは誰ですか? オレのこと、知ってるんですか?」
「……何の冗談だ?」
 男の金色の眼が細く眇められる。射られるような眼勢に気圧されるように、青年はわずかに後退った。
「冗談を言ってるつもりはまったくなくてー、オレ、過去のこと覚えてないんです。だからもし、あなたがオレのことを知っているなら、オレのこと、教えてください」
 探るように射る眼が、勢いを緩める。思わずほっと息を吐いた。
 他人の屋敷に無断で侵入するような輩はろくなものではない。だが、この男はあまりに堂々とし過ぎていて、賎しい盗賊などとは思えない。そもそも賊ならば青年に見付からないようにするはずで、わざわざ姿を見せるはずがなかった。
 何より、自分を知っていることが気になる。
 沈黙をどう受け取ったのか、眼帯の男は小さく溜息を吐いたようだった。
「……冗談ではないのだな」
 確認するような言葉に頷くと、男――ゲオルグと名乗った――は、彼がこの部屋に侵入した経緯を簡単に説明してくれた。
 その内容はカイルを驚かすには充分だった。あまりに予想外すぎて、実感がわかずにお伽話のようだと思っても仕方ない。
「ゲオルグって、あなたの名前だったんですね!」
 改めて己の名前を知った知った衝撃は大きい。先程までゲオルグだったカイルは、違和感のひとつが消えたことに納得した。
 どうりで、名を呼ばれるたびに腑に落ちないようなしこりが蟠るわけだ。自分の名ではなく、他人の名だったのだから。
 疑問がもうひとつ残るが、今は違和感が消えたことに満足しておく。カイル、と閉ざした口の中で呟いた自分の名前は、やはりしっくりした。
 ゲオルグが教えてくれた自分のことも、すんなり受け入れられる。
「へー、オレって結構すごいヤツだったんですねー」
「他人事じゃない」
「わかってますけど、実感ないですよ」
 覚えていないのだから、どんなにすごい略歴を聞こうと、他人事でしかない。客観的すぎるのだ。言われてみればたしかに掌には剣ダコがあるし、一般人と言い切るには意識して鍛えたような体ではある。
 せいぜい傭兵かとあたりを付けていたのに、そんなたいそうな身分だとは思いも寄らなかった。
「それでわざわざあなたが迎えに来てくれたと、そういうことですかー」
「ああ」
 頷いたゲオルグの表情は硬い。
「……すぐにでも連れて帰りたいところなのだがな」
「あー……」
 一宿一飯の恩というが、既にカイルはそれ以上の恩を受けていた。まったく返さずに何も言わず立ち去るのは、さすがに寝覚めが悪い。この屋敷の仮の主人である姉弟に情がないわけでもないから余計だ。
 せめて辞去の挨拶だけでもさせてはもらえないか。夜も更けてしまったから、朝早くにでも。
 訴えると、ゲオルグは数秒考え込む仕草をし、しばらくしてから重々しく頷いてくれた。
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